常識 ー降りそこねた駅ー

枯枝 葉

第1節 次の駅で

「また今日も、動けなかった」

 

 朝の電車は、いつも同じ匂いがする。

 汗と整髪料と、まだ乾ききらない雨の匂いが、狭い箱に押し込められて濁って重たい空気になっている。


 ゆうは吊革に手を伸ばすこともできず、ただ人の肩や鞄に押し潰されるように立っていた。耳の奥で誰かのスマホの通知音が鳴り響き、その軽快な音が妙に苛立たしく胸に刺さる。


「次で、降りたい」

 

 心の中でそう繰り返す。けれども体は動かない。目の前の背広の背中は灰色の壁となり、肩が顎に食い込むほど近い。背後からは新しい人の波が無理やり押し込まれ、肋骨にかすかな痛みが走る。


 ドアが開くと、一瞬だけ外の空気が流れ込む。けれど、押し寄せる人の肩と鞄が塞ぎ、踏み出す隙間はどこにもない。手を伸ばそうにも、腕は他人の肘や鞄に絡め取られ、まるで自分のものではないようだ。


 結局、わずかな空白も生まれぬまま、列車は音を立てて再び動き出す。悠はただ、自分の意思ごと鉄の箱に閉じ込められ、運ばれていく。


 降り損ねた瞬間、喉がきゅっと縮み、胸の奥で何かが小さく崩れる。

 

「まただ……」

 

 情けなさと自己嫌悪が胸を締めつけ、冷や汗が額を伝う。周囲の人々は誰も気づかない。皆、スマホの画面や吊り広告に視線を固定し、黙って立ち尽くしている。その沈黙が、悠には無言の圧力のように重くのしかかる。


 窓の外は朝の薄明。まだ白む前の空が、ビルの隙間からかすかにのぞいていた。

 

 ――逃げてもいいんじゃないか。

 

 一瞬、そんな考えがよぎる。だがすぐに打ち消す。逃げるなんてことをしたら……「常識外れ」だ。

 家族を背負っている自分が、そんなことをして、許されるはずがない。


 車内アナウンスが流れ、次の駅名が告げられる。

 

「今度こそ……降りよう」


 そう心で呟いた瞬間、胸の奥に小さな光が灯る。けれど同時に、足は鉛のように重く、視線は床に縫いつけられたまま動かない。

 

――どうせまた、降りられない。

 

その諦めを、誰よりも自分自身がよく知っていた。

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