2-4話

​ 太陽が、王都の西の空へと、傾き始めた午後。

 イリゼとエリーズの足取りは、重かった。


 フローラとセレネ──二つの奇跡のような原石を、見つけ出してはいた。


 だが、まだ二人からの良い返事は、ない。

 そして、ショーの幕を開けるための最後の一人。

 その最も重要なピースが、まだ見つかっていなかった。


​ 彼らがその日、最後に訪れたのは、下町の古びた住宅街だった。

 そこは、貴族も商人も決して足を踏み入れない、ただ人々が静かに暮らすだけの場所。

 石畳の道のあちこちで、子供たちが屈託のない声を上げて遊んでいる。

 開け放たれた窓からは、夕食の支度をする温かい匂いが漂ってくる。


​ その穏やかな時間の流れの中で、ふと一つの香りが、二人の鼻先をくすぐった。

 それは、小麦が焼ける甘く香ばしい、何よりも人を幸せにする香りだった。

 香りの元をたどると、そこには一軒の小さなパン屋があった。

 『金色の麦の穂』亭――その素朴な看板が掲げられている。


​ 「ボス、少し休憩しませんか」


 エリーズの提案に、イリゼは頷いた。二人はまるで、その温かい香りに吸い寄せられるかのように、店の木の扉を開けた。


​ 店の中は、オーブンの熱気と優しさで満ちていた。

 壁際の棚には、様々な形のパンが並んでいる。飾り気はない。だが、その一つ一つが愛情を込めて作られていることが、一目で分かった。

 そして、そのカウンターの向こう側で――


 「いらっしゃいませ」


 と、柔らかな声で微笑んだのが、この店の看板娘、ハンナだった。


​ イリゼは、その瞬間に理解した。

 今日という一日の終わりに、自分たちがついに最後の宝物の在り処に、たどり着いたことを。


​ 彼女は、貴族の令嬢たちとは全く違う、美しさを持っていた。

 その身体つきは、柳のように細くはない。むしろ大地にしっかりと根を張った、樫の木のようだった。

 丸みを帯びた肩、柔らかな腰つき、そして毎日、力強くパンを捏ねているであろう、しなやかな腕。

 それは、生命力と豊穣そのものを体現したかのような、女神の肉体だった。


​ 彼女の顔は、穏やかで優しかった。

 オーブンの熱でほんのりと上気した頬。

 その鼻の頭には、愛嬌のある小麦粉の白い染みがついていた。

 そして、彼女の微笑み――それはフローラのような太陽の輝きではない。セレネのような月の神秘でもない。

 それは、冬の日に人々が集う暖炉の炎のような、温かく、そして全てを包み込むような、慈愛の微笑みだった。


​ イリゼとエリーズは、客としていくつかのパンを買った。

 ハンナは慣れた手つきでパンを袋に詰めながら、優しい声で話しかけてくる。


 「あら、お二人さん。見ない顔ですね。どこかからお見えに?」


 その柔らかで優しい、飾らない人柄。彼女はただそこにいるだけで、周りの空気を和ませる、不思議な力を持っていた。


 (……見つけた。これだ。フローラが生命の輝き、セレネが知性の輝きだとするならば。この女性は――生命を育む、大地そのものの輝きだ。我々のショーに、絶対的に必要な、根源的な美しさ……)


​ 二人が店の外の小さなベンチに座り、温かいパンを食べていると、店の前に数人の身なりの汚い孤児たちが集まってきた。

 彼らは店の中から漂ってくるパンの匂いに誘われてきたのだろう。ただ羨ましそうに、中を覗き込んでいる。


​ その姿に気づいたハンナが、店から出てきた。

 彼女は子供たちを叱ったり、追い払ったりはしない。

 その両腕には、まだ湯気の立つ焼きたてのパンが、たくさん抱えられていた。


 「ほら、あなたたち。またお腹を空かせているのね。今日は特別よ。お父さんには内緒だからね」


 彼女は一人一人の頭を優しく撫でながら、その汚れた小さな手にパンを握らせていく。

 子供たちは歓声を上げ、そのパンを夢中で頬張った。

 その光景を、ハンナはまるで自分の子供を見る母親のような慈愛に満ちた瞳で、見つめていた。


​ イリゼは、その光景に完全に心を奪われていた。

 これこそが、彼女の美しさの本質なのだ。

 見返りを求めない愛情。弱き者を慈しむ母性。

 貴族たちがとうの昔に忘れてしまった、最も尊い輝き。


​ パンを食べ終えたイリゼは、エリーズを伴い、再び店のカウンターへと向かった。

 彼の決意は、固まっていた。


​ 「突然、申し訳ございません」


 イリゼの改まった呼びかけに、彼女は、不思議そうに顔を上げた。


​ 「失礼ですが、貴女のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 「え?……わたくし、ですかい?ハンナ、と、申します」


 「ハンナ様。美しい、響きですね」


 イリゼは、一度、優雅に微笑んだ。

 そして続けた。


 「ハンナ様。我々は今度、この王都で特別な『ショー』を開催するのです」


​ その聞き慣れない言葉に、ハンナは首をかしげた。


 「……しょー?それは一体、なんでございましょう?何かのお芝居か何かですか?」


​ その素朴な問いに、イリゼは丁寧に答えた。


 「ええ、お芝居に近いかもしれません。ですが、役者が演じるのは劇作家が書いた物語ではないのです」


 彼の声はまるで、子供におとぎ話を語り聞かせるように優しかった。


 「それは、新しい服を発表するための舞台です。そしてその服を纏う女性はただのモデルではない。その服が持つ物語の、主役ヒロインとなるのです」


​ イリゼはそこで、一度言葉を切り、彼女の、瞳をまっすぐに見つめた。


 「貴女のその美しさを、我々のショーのために、お貸しいただけませんか」


​ その言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。

 そして理解した瞬間、彼女の顔から、あの温かい微笑みが完全に消え失せた。


​ その代わりに浮かんだのは、深い、深い悲しみの色だった。


 「……ご冗談でしょう?」


 その声は、震えていた。


 「わたしが……美しい? 貴方、目は節穴ではありませんか。それとも、わたしをからかって楽しんでいるのですか」


​ そのあまりにも痛切な反応は、イリゼの予想をはるかに超えるものだった。

 彼女の心の奥には、彼がまだ知らない、深い闇が横たわっている。


 「見てください、この身体を」


 彼女は自嘲するように言った。


 「貴族の方々がおっしゃる『美しい』とは、正反対ではありませんか。わたしのような太った女がモデルだなんて、観客の皆様の笑いものになるだけですわ。お気持ちは嬉しいのです。でも、お引き取りください。わたしを惨めな気持ちにさせないで」


​ そう言って彼女は顔を背けた。その背中は「これ以上傷つきたくない」と訴えるように、頑なに世界を拒絶していた。

 これほど明確な拒絶は初めてだった。フローラの快活な否定とも、セレネの怯えた沈黙とも違う。

 これは、長年彼女の心を蝕んできた、深い劣等感という名の最後の、そして最も高い壁だった。


​ イリゼは、その日は一度引き下がることにした。

 だが、彼は諦めない。彼の辞書に「不可能」という文字は、ないのだから。



​ 次の日から、不思議な光景が見られた。

 あの路地裏の魔法使いと、その有能な秘書が。

 毎日毎日、あの下町の小さなパン屋に、通い詰めるのだ。


​ 彼らは何も言わない。

 ただ客としてそこに座り、黙々とハンナの焼いたパンを食べ続ける。

 そして帰っていく。


​ その不可解な行動が三日続いた。


​ 四日目の午後。

 ついにハンナの方が、我慢できなくなった。


 「……あの。一体何なのですか。毎日、毎日」


 その声には、戸惑いが滲んでいた。


​ イリゼは、待っていましたとばかりに顔を上げた。


 「貴女のパンの物語を、知りたくて」


 「……物語?」


 「ええ。このパンは、なぜこんなにも温かい味がするのですか。この小麦は、どこの畑のものですか。この完璧な焼き色を出すための秘訣は、何です?」


​ 彼は容姿を褒めない。

 ただひたすらに、彼女の仕事について、その本質について問い続けた。

 そのあまりにも真摯な敬意に、ハンナの心の壁が、ほんの少しだけ低くなる。


​ 彼女は戸惑いながらも、ぽつりぽつりと、自分の仕事について語り始めた。

 父が頑固なまでにこだわる地元の小麦の話。

 祖母の代から受け継がれてきた天然酵母の話。

 夜明け前に起きて、その日の気温と湿度に合わせて生地を捏ねる、孤独な作業の話。


​ 彼女がそのパンの話をしている時――その表情から、劣等感の影は完全に消え失せていた。

 その瞳は自分の仕事への誇りに輝き、その手はまるでパンを捏ねるかのように、生き生きと動いていた。


​ イリゼは、その姿を見つめていた。


 (……そうだ。これだ。この輝きだ)



​ 彼女が語り終えた時、イリゼは心からの声で言った。


 「素晴らしい。貴女のパンが美味しい理由が、よく分かりました。それは、ただの小麦の塊ではない。貴女のご家族の歴史と、貴女自身の愛情、そのものなのですね」


​ そして、彼は続けた。その声は、絶対の自信に満ちていた。


 「ハンナ様。貴女は先程、ご自身のことを太っているとおっしゃった。ですが、それは間違いです。貴女のその身体は、毎日たくさんの人々を幸せにする、その温かいパンを生み出すための豊かな大地なのです。貴女のその柔らかな手は、命を育む手なのです。貴族たちの痩せこけた身体では、決してこんなにも温かいパンは作れないでしょう」


​ ハンナは息を呑んだ。

 誰も、そんなふうに言ってくれたことは、なかった。

 自分の、この憎むべき身体を――美しいと。尊いと。


​ イリゼは、最後の提案をした。


 「私が舞台で見せたいのは、まさしくそれなのです。痩せた美しさではない。生命を育む、母なる大地の美しさです。貴女にしか表現できない美しさが、そこにはある。……どうか、それを世界に見せる手伝いを、させてはいただけませんか」


​ その魂の言葉は、ハンナの心の最も深い場所に、確かに届いていた。

 彼女の心の壁は、もはや崩れ落ちる寸前だった。

 だが、長年彼女を縛り付けてきた呪いは、まだ完全には解けていない。


​ イリゼは、その最後の躊躇を見抜いていた。

 彼は言った。


 「モデルになるかどうかは、まだ決めなくて結構です。ですが、一度だけ。貴女のその物語を纏う服を、私が作らせてはいただけませんか。もし、その服を着て、貴女の心が少しも動かなかったなら、私は二度と、貴女の前に現れません」


​ そのあまりにも真摯な申し出に、ハンナは長い長い沈黙の後、ついに小さな声で呟いた。


 「……わかり、ました。……一度、だけ、ですわ」


​ それは、まだレッスンではない。

 ただの一つの、小さな約束。

 だが、それは――彼女の新しい物語が始まる、確かな予兆だった。

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