2-3話

​ 中央市場での鮮烈な出会いから、二日が過ぎた。

 フローラからの連絡は、まだない。

 だが、イリゼは少しも焦ってはいなかった。

 彼は知っている。

 最高の宝物は、それにふさわしい時間をかけて、手に入れるものだと。


 その日、イリゼとエリーズが訪れたのは、市場の喧騒とは正反対の場所だった。


 王立図書館。


 そこは、石と沈黙と、そして古びた知識の匂いで満ちた、巨大な聖域。

 高いアーチ型の天井からは、ステンドグラスを通した色とりどりの柔らかな光が降り注ぎ、空気中を舞う無数の埃の粒子を、きらきらと照らし出している。


 聞こえてくるのは、羊皮紙のページがめくれる乾いた音と、遠くで響く誰かの小さな咳払いの音だけ。

 ここは、時間が止まったかのような静寂の世界だった。


「ボス……本当に、こんな場所に我々が探している原石があるのでしょうか」


 エリーズは声を潜め、懐疑的に言った。

 彼女には、この色のない静かな世界が、イリゼの華やかなファッションとは、あまりにもかけ離れているように思えたのだ。


「静けさの中にも、物語はありますよ、エリーズ」


 イリゼは静かに答えた。


「むしろ、静かな場所ほど、その奥には激しい情熱が隠されているものです」


 彼は、新しいブランドのインスピレーションを探すという名目で、この図書館の最も奥まった場所にある古文書館へと足を運んでいた。


 そこは、一般の閲覧者がほとんど足を踏み入れない、忘れ去られた書物の墓場のような場所だった。

 イリゼは、書架に並べられた古い服飾史の文献を、一冊一冊、丁寧に手に取っていく。

 その鋭い観察眼は、書物の内容だけでなく、この空間そのものを支配する空気も読み取っていた。


 そして、彼はその存在に気づいた。


 一人の若い女性司書。


 彼女は、まるでこの古文書館の静寂そのものが人の形を取ったかのようだった。

 彼女は、音を立てない。

 その動きは、まるで幽霊のように滑らかで、書架と書架の間を誰にも気づかれることなく通り過ぎていく。

 その服装は、司書のための地味な灰色の制服。

 長く豊かな黒髪は、きつく後ろで一つにまとめられている。

 そして、その顔は、いつも長い前髪と俯きがちな姿勢のせいで、影の中に隠れていた。


 彼女は、決して誰とも目を合わせようとしない。

 それはまるで、この世界から自分の存在を消し去りたいと願っているかのようだった。


 エリーズは、彼女に一瞥をくれただけで、すぐに興味を失った。


(……地味すぎる。華やかさの欠片もない。これでは、モデルなど到底無理だわ)


 だが、イリゼの紫水晶の瞳は、エリーズには見えないものを見ていた。

 彼は、その静かな少女の内に秘められた計り知れない可能性の輝きを、確かに感じ取っていたのだ。


 彼は、実験をすることにした。


 書架から最も古く、そして虫食いだらけの巨大な革張りの古文書を取り出した。

 そして、受付のカウンターに座るセレネの元へと、それを運んでいく。


「失礼。こちらの書物の閲覧をお願いできますか」


 イリゼの穏やかな声に、セレネの肩がびくりと震えた。

 彼女は、顔を上げない。


 ただ、蚊の鳴くような声で「……はい」と答えると、その古文書を受け取った。


 その瞬間だった。

 イリゼは、その変化を見逃さなかった。

 彼女の指先が、その古い革の表紙に触れたその瞬間。

 彼女の全身を支配していた怯えの空気が、ふっと消え失せたのだ。


 彼女の手つきは、まるで傷ついた小鳥をいたわるように、どこまでも優しく、そして敬虔だった。

 彼女は、その古文書を、まるでこの世で最も尊い宝物でも扱うかのように、丁重に閲覧用の書見台の上へと置いた。

 そして、そのページを、一枚一枚、吐息のような手つきでめくっていく。


 その横顔は、もはやただの内気な司書ではない。

 失われた古代の叡智を守る巫女の横顔だった。

 イリゼは、静かに問いかけた。

 その問いは、彼女の心の扉を開けるための魔法の鍵だった。


「……素晴らしい書物ですね。もし、よろしければ教えていただけますか。この紋章に込められた物語を」


 その言葉が、引き金になった。

 セレネは、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、その長い前髪の奥から、イリゼをまっすぐに見つめ返した。

 イリゼは、初めて彼女の瞳の色を知った。

 それは、夜空の色をそのまま閉じ込めたような、深く、そしてどこか物憂げな紺色の瞳だった。


 そして、彼女は語り始めた、その瞬間、豹変した。

 俯いていた顔が上がり、その声はもう震えていない。

 その声は静かだったが、その奥には燃えるような情熱の炎が宿っていた。


 彼女は、その古文書に宿る物語を、驚くべき博識と、そして深い深い愛情をもって、生き生きと語り始めたのだ。


 それは、もはや説明ではない。

 彼女自身が、その物語の登場人物になっているかのようだった。


 イリゼは、そのあまりの変貌ぶりに、静かな感動を覚えていた。


──これだ。


 これこそが、彼女の本当の姿なのだ。

 静寂という名の氷の下に隠されていた、マグマのような情熱。

 彼は、ついに二つ目の原石を見つけ出した。


 エリーズは、その光景をただ呆然と見つめていることしかできなかった。

 目の前で起こっていることが、信じられなかった。


 イリゼは、確信した。

 この少女は、磨けば光る。


 ──いや、違う。


 彼女は、すでに光っているのだ。

 ただ、その光を解き放つ方法を知らないだけ。

そして、その方法を教えることができるのは、 この王都でただ一人。


──自分だけだ、と。


​ 彼女のその熱のこもった独白が終わる。

 彼女は、はっと我に返った。

 そして、自分が見知らぬ男性客の前で、いかに夢中になって語ってしまったかを思い出した。

 彼女の白磁のような頬が、さっと朱に染まる。


 「も……申し訳ありません。わたくし……でしゃばったことを……」


 彼女は、再びあの分厚い内気な殻の中へと閉じこもろうとしていた。

 その瞳は、助けを求めるように床の一点を見つめている。

​ イリゼは、彼女が完全に扉を閉ざしてしまうその寸前に、静かに言葉を差し込んだ。

 その声は、彼女の臆病な心を驚かせないよう、どこまでも優しかった。


​ 「いいえ。素晴らしいお話でした」


 彼は彼女の謝罪を受け取らない。

 その代わり、心からの敬意を差し出した。


 「貴女のその物語への愛情の深さが、痛いほど伝わってきましたよ」


​ 彼は、そっとカウンターに身を乗り出した。

 その親密な距離感に、彼女の肩がわずかに震える。


 「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」


 「セレネ…です。」


​ 「セレネ様。貴女は物語の守護者なのですね」


 その予期せぬ言葉。

 それは、ただの司書としか言われたことのない彼女の魂を、優しく揺さぶった。


 「実は、私も物語を紡ぐ仕事をしているのです。ですが、私の使うインクは言葉ではない。糸と布です。私は服という形で、新しい物語を世界に送り出そうとしている」


​ 彼の紫水晶の瞳が、真剣な光を宿す。


 「ですが、私には一つ足りないものがあるのです。それは、物語の魂をその身に宿し、人々に伝えてくれる語り部です。誰よりも物語の価値を理解している、貴女のような方がどうしても必要なのです」


​ その言葉の意味を理解した瞬間。

 セレネの心臓は恐怖に凍り付いた。

 語り部?

 わたくしが?

 人々の注目を浴びる舞台の上で?

 無理だ。絶対に無理だ。

 彼女の身体が小刻みに震え始めた。

 呼吸が浅くなる。

 周りの景色が歪んでいく。

 人々の視線が怖い。笑われるのが怖い。


 だが、彼の言葉は同時に、抗いがたいほど甘美な響きを持っていた。

 物語の魂を宿す。

 それは彼女が人生で最も価値があると信じている行為そのものだったからだ。

 彼は自分を美しい飾り人形として求めているのではない。

 物語の理解者として、パートナーとして求めている。


 その事実は、彼女の恐怖に苛まれる心の片隅で、小さな、しかし確かな光を放っていた。


​ ──恐怖と好奇心。


 その二つの巨大な力の間で、彼女の魂は引き裂かれそうになっていた。


 彼女は何も言えない。

​ イリゼはその沈黙の意味を正確に読み取っていた。

 彼はこれ以上、彼女を追い詰めない。

 彼はそっと身を引き、懐からあの白い名刺を取り出した。

 そして、それを古文書の固い表紙の上に静かに置いた。

 まるで、しおりでも挟むかのように。


​ 「……驚かせてしまったようですね。申し訳ありません」


 彼の声は、再び穏やかな響きに戻っていた。


 「これは、ただの招待状です。もし貴女が、言葉ではない新しい物語に少しでも興味をお持ちになりましたら、いつでもアトリエをお訪ねください」


​ 彼は踵を返した。

 そして、扉へと向かうその背中から、最後の言葉を投げかけた。


​ 「貴女のような静かな、しかし誰よりも熱い情熱を秘めた語り部を、私は待っています」


​ イリゼとエリーズが去っていく。

 古文書館には再び、絶対的な静寂が戻ってきた。


 セレネは一人、その場に立ち尽くしていた。

 彼女の目の前。

 自分が生涯をかけて守ってきた古の物語の、その上に。

 未来からの使者のように、一枚の白いカードが置かれている。


 彼女の震える指先が、まるで恐ろしい禁断の果実にでも触れるかのように、ゆっくりとそのカードへと伸びていった。

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