第一章『悪食の薔薇と引き算の美学』

第1話

アトリエの扉を抜け出たイリゼを迎えたのは、午後の光に満ちた王都の喧騒だった。

 石畳の道を、規則正しく打ち鳴らす馬蹄の音。

 優雅な曲線を描く馬車の車輪が回る、乾いた響き。

 行き交う人々の楽しげな話し声や、遠くで楽器を奏でる辻音楽師の調べ。

 それら全てが混ざり合い、この王都アウレリアの活気を形作っている。


​ 彼が足を向けたのは、大手商会が出店している中央地区。そこは貴族たちの御用達の店が軒を連ねる『アフロディテ通り』。


 美の女神の名を冠したこの通りは、まさに流行の発信地だった。

 イリゼは、通りに面したカフェのテラス席に腰を下ろし、一杯の紅茶を注文する。

 彼の目的はショッピングではない。人間観察フィールドワークだ。

​ 紫水晶アメジストの瞳が、獲物を定める狩人のように道行く人々を捉える。

 彼の脳内では前世まえの知識に基づいた高速の分析アナリーゼが繰り返されていた。


​ 向かいのブティックから出てきた二人組の令嬢。

 一人は明るい金髪に快活な印象。

 典型的なスプリングタイプの色彩を持つ彼女が選んだのは、鮮烈なロイヤルブルーのドレス。

 典型的なウィンタータイプの色だ。

 結果として彼女の柔らかな肌の色は青ざめて見えせっかくの愛らしさが半減している。


 イリゼは小さく首を振る。

 勿体ない。

 彼女にはコーラルピンクや若葉のようなグリーンが似合うだろうに。


​ 隣のテーブルに座る若い貴族の男。

 彫りの深いクラシックな顔立ち。

 彼の骨格フレームは直線的で、がっしりとしている。

 それなのに身に着けているのは、流行りだという奇抜なフリルをあしらったシャツ。

 曲線的なデザインが、彼の持つ重厚な魅力を削ぎ落としどこかちぐはぐな印象を与えていた。

 彼にはもっとシンプルな、仕立ての良いジャケットが似合うはずだ。


​ 誰もが流行を追いかける。

 誰もが自分に似合うものを知らない。

 これが王都の現実。

 そして彼のビジネスチャンスが眠る場所だった。


​ 紅茶のカップを口に運びながら彼は思考する。

 彼が探しているのはただの『もったいない』人ではない。

 誰もがその価値に気づかず見捨てている最高の『原石』。

 その変貌ぶりが、伝説となり、彼の店の名を一夜にして、王都に轟かせるほどの可能性を秘めた存在。

 そんな都合のいい人物が、いるものだろうか。


​ その時だった。

 通りの空気が一瞬にして変わったのは。

​ それまで和やかだった人々の囁き声に、明確な色が宿る。

 好奇と嘲笑と、そして少しばかりの憐憫。

 全ての視線が、一人の人物へと注がれていた。

 まるで舞台に登場した主役のように。

 あるいは見世物小屋の芸人のように。

​ イリゼもまたその視線の先に目を向けた。


 そして彼の紫水晶の瞳が大きく見開かれる。

​ そこに立っていたのは一人の若い令嬢だった。年の頃は二十歳くらいか。

 彼女が纏うドレスは燃えるような真紅。

 しかしその赤は、彼女の肌の色を酷くくすませる濁った赤だった。

 ドレスには巨大な黄金の薔薇の刺繍が、悪趣味なまでに施されスカートの裾には、意味の分からない黒いレースが波打っている。

 手には孔雀の羽根を、これでもかと束ねた扇子。

 首元には彼女の華奢な首を圧迫するような大ぶりのルビーの首飾り。

 極め付けは濃すぎる頬紅と眉。

 それは化粧というより仮面のようだった。

​ ひそひそと交わされる会話がイリゼの耳にも届く。


 「あらご覧になって。ボーレガール嬢よ」

 「今日も凄いわね。歩く警告色だわ」

 「『悪食の薔薇』の名は伊達ではないわね」


​ グルナ・ド・ボーレガール。

 その名はイリゼも聞き及んでいた。

 没落寸前の子爵家の令嬢で、その壊滅的なファッションセンスで社交界の有名人となっていると。

​ 周囲の嘲笑を浴びながらも、彼女は少しも怯む様子を見せない。

 むしろ侮辱の視線を跳ね返すように、すっと背筋を伸ばしている。

 その立ち姿は、まるで孤高の軍人のようだった。


​ 他の誰もが彼女の奇抜な服装に眉をひそめる中、イリゼだけは違っていた。

 彼の瞳は、ドレスや宝石という名のノイズを透過し、その奥にある本質を見抜いていた。


​ なんてことだ。

​ イリゼは息を呑んだ。

 あの背筋。

 どんな嘲笑にも屈しない鋼の意志が通っている。

 あの顎のライン。

 気高さとプライドの現れだ。

 そしてなによりあの瞳。

 けばけばしいドレスの色に殺されてはいるが本来はもっと深く燃えるような真紅。

 どんな宝石よりも情熱的な輝きを秘めている。


​ ――原石だ。

 ――いや違う。ダイヤモンドそのものだ。

 ――ただ最悪のカットと、最悪のセッティングを施されているだけだ。


​ イリゼの心が歓喜に打ち震える。

 探していた。

 これほどの逸材をずっと探していた。

 彼女を磨き上げれば社交界の誰よりも輝く存在になる。

 間違いない。


​ その時、グルナに一人の男が近づいていく、小太りで卑屈な笑みを浮かべた男。

 イリゼはその顔に見覚えがあった。

 悪徳で有名な商会の主人だ。

 貴族に取り入っては、質の悪い品を高値で売りつけることで評判の。


​ 「これはボーレガールお嬢様。本日は一段とお美しい」

 「お世辞はいいわ。例のものはどうなったの」

 「もちろん、揃えております!ご覧ください!…この見事なショールを」


​ 商人が見せたのは紫とオレンジという最悪の配色のショールだった。

 グルナは一瞬眉をひそめる。

 彼女にも最低限の美的感覚は残っているらしい。

 だが商人は巧みな言葉で続ける。


​ 「次の夜会で最も目立つのは、間違いなくこのショールを身につけた、グルナ様でございます。誰よりも華やかに、そして誰よりも情熱的に。そうでなくては、有力な殿方の目には留まりませんからなぁ」


​ その言葉にグルナの表情が揺れた。

 図星だったのだろう。

 彼女の焦りや必死さが、痛いほど伝わってくる。

 彼女は騙されているのではない。

 家の為に自ら望んで、その悪趣味な鎧を身に纏おうとしているのだ。


​ なんて悲しく、そして健気なのだろうか。

​ イリゼの中で彼女に対する評価が最終的に固まった。

 彼女こそ『アトリエ・サンドリヨン』の最初の顧客にふさわしい。

​ 結局グルナは法外な値段で、そのショールを買い取らされたようだった。

 商人と別れ、一人で歩き出す彼女の背中は、どこか小さく寂しげに見えた。

​ イリゼは、静かに紅茶の代金をテーブルに置くと、すっと立ち上がった。


 躊躇はない。

 最高の原石を見つけたのだ。

 ここで逃す手はない。


​ 彼は人混みを抜けグルナの後を追う。そして彼女の数歩後ろまで近づき息を整える。

 彼は口元に、自信に満ちた柔らかな笑みが浮かべた。

​ さあ始めようか。

 君の本当の物語を。



イリゼはグルナの数歩後ろで足を止めた。

 彼は澄んだ声で、静かに呼びかけた。


​ 「失礼。少しよろしいでしょうか。お嬢様」


​ その声にグルナの肩が小さく震え、ゆっくりと振り返った。

 その深紅の瞳には、あからさまな警戒と苛立ちが浮かんでいる。

 物珍しげに見る者はいても彼女に直接声をかける者など滅多にいないからだ。


​ 「……何か用でしょうか」


​ 絞り出すような低い声。

 その響きには、彼女が常に身に纏っている、棘のようなプライドが感じられた。


​ イリゼは優雅に一礼する。

 その洗練された所作にグルナの瞳がわずかに見開かれた。

 少なくともただの平民ではないと、彼女はそう判断したようだった。


​ 「突然申し訳ありません。ですがどうしてもお伝えしたいことがありまして」


 「用件を手短にお願いします。時間は有限です」


 「ええ存じております。だからこそ申し上げます。貴女は酷くその時間を損していらっしゃる」


​ イリゼの言葉にグルナの柳眉が吊り上がる。


 「何ですって?」


 「そのままの意味ですよ。私はイリゼ・ファーベルと申します。貴女を次の王宮舞踏会の主役ヒロインにできる男です」


​ 自信に満ちたその宣言。

 それはあまりにも突拍子がなく、あまりにも傲慢だった。

 グルナは呆れたようにふんと鼻を鳴らす。

 そしてイリゼの全身を値踏みするように見下ろした。


 仕立ての良い服。

 磨かれた靴。

 しかしその素材やデザインからは、貴族特有の紋章も格式も見受けられない。


​ 「ファーベル……聞いたことのない家名ですね。どこの子爵の方でしょうか」


 「いいえ。私はメルシエ商会の者です」


​ イリゼが堂々と告げた瞬間グルナの表情から全ての感情が抜け落ち代わりに冷たい侮蔑が浮かび上がった。

 空気が凍る。


​ 「……ああ。あの成り上がりの」


​ その声は冬の北風のように冷え冷えとしていた。

 メルシエ商会。

 一代で財を成し近年急速に力をつけている新興商家。

 伝統と格式を重んじる貴族たちの中にはその名を口にするのも汚らわしいと考える者も少なくない。


​ 「商家の人間が私に何の用?何かを売りに来たのだったら断る。間に合っていますから」


 「いえいえとんでもない。私は何かを売るために来たのではありません。むしろ逆です」


 「逆ですって?」


 「ええ。貴女が身に着けているそのけばけばしいだけの代物を、全て捨てていただくために参りました」


​ 静かだが有無を言わさぬ口調。

 それはグルナの逆鱗に触れるには、十分すぎる言葉だった。

 彼女の顔が怒りで朱に染まる。


​ 「無礼者。平民の分際で貴族である私に説教するつもりですか。今の言葉は聞き捨てならない。」


​ グルナのプライドが鋭い刃となってイリゼに突きつけられる。

 だが彼はその刃を柳のように受け流した。

 彼の紫水晶の瞳は穏やかなままだ。


​ 「お気を悪くされたのなら謝罪します。ですが私は貴女の服装をけなしているのではありません。ただ事実を申し上げたまで」


 「事実ですって?」


 「そうです。そして私は貴女の服装ではなく貴女自身を見ております」


​ イリゼは一歩前に出る。

 そしてグルナの瞳をまっすぐに見つめた。


​ 「貴女の瞳は素晴らしい色をしている。まるで最高品質の柘榴石ガーネットのように深く燃えるような赤。見る者を惹きつけてやまない力があります」


​ グルナは息を呑んだ。

 自分の瞳の色を、そんな風に評されたのは生まれて初めてだったからだ。

​ イリゼは言葉を続ける。

 その声は先程までの挑発的な響きとは違う真摯なものだった。


​ 「そしてどんな嘲笑を浴びても決して揺らぐことのないその立ち姿。まっすぐに伸びた背筋は騎士のように気高く美しい。それは貴女の精神性の現れです」


​ 誰も言わなかった。

 誰も気づかなかった。

 父も母も友人さえも。

 誰も私のこんなところを、見てはいなかった。

 グルナの心臓が大きく脈打つ。

 目の前の男は、一体何者なのだろうか。

​ 彼女の動揺を見透かしたようにイリゼは静かに続けた。

 その声は、冷徹な医者が診断結果を告げるように、論理的だった。


​ 「しかし貴女のその素晴らしい長所は、今の装いによって全て殺されている。その濁った赤のドレスは、貴女の瞳の輝きを半減させている。その巨大な装飾は、貴女の気高さを滑稽に見せている。全てが間違っているのです。貴女は自らその価値を貶めている」


​ 否定と肯定。

 飴と鞭。

 それはイリゼが前世まえで培った人心掌握術テクニックの一つ。相手のプライドを一度打ち砕き、そして再生させる。

 そうすることで相手は術者の言葉を素直に受け入れるようになる。


​ グルナは言葉を失っていた。

 怒りもプライドも、どこかへ消え去り、ただ混乱だけが心を支配していた。


​ 「今のやり方では、貴女の家のためにもなりません。有力者の目に留まるどころか、まともな相手は皆貴女を避けて通るでしょう。違うと言えますか。」


​ 図星だった。

 グルナは唇を強く噛みしめる。

 その通りだった。

 最近ではダンスの申し込みさえほとんどない。

 自分のしていることが正しいのかどうか本当はもうわからなくなっていた。

​ イリゼはそこで初めてビジネスの提案を持ち出した。


 「これは同情ではありません。ビジネスです。ボーレガールお嬢様。私の店『アトリエ・サンドリヨン』で貴女をプロデュースさせていただきたい」


 「……プロデュース?」


 「ええ。貴女という最高の素材を最高の料理に仕上げる。それが私の仕事です」


​ 彼は懐から一枚の名刺カードを取り出した。

 そこには店の名前と場所が優雅な字体で記されている。


​ 「料金は成功報酬で結構。次の王宮舞踏会で、貴女が満足のいく結果――例えば有力なご子息からダンスの申し込みがあるなど――を得られなければ、一銭もいただきません。貴女にリスクは一切ありません」


​ あまりにもうますぎる話。

 しかしそれを受け入れることは、自分の今までの努力を全て否定し、目の前のこの商家の男に屈することを意味する。

 グルナの貴族としてのプライドが最後の抵抗を試みていた。

​ だが彼女の脳裏に浮かぶのは、家の厳しい財政状況。

 ため息ばかりつく父親の背中。

 日に日にやつれていく母親の顔。

 自分がなんとかしなければならないという焦り。


​ 「……もし。あなたの言う通りにして失敗した場合はどうなるのですか」


 か細い声で彼女は尋ねた。

 それは彼女が上げた白旗だった。

​ イリゼは完璧な笑みを浮かべた。


 「その時は私がこの王都中の笑い者になるだけです。貴女に損はありませんよ」


​ その絶対的な自信。

 グルナはもう抗えなかった。

 この男に賭けてみたい。

 そう思ってしまった。


​ 「……わかりました。あなたの話に乗りましょう」


​ 小さな声だったがそれは確かに承諾の言葉だった。

​ その瞬間イリゼの雰囲気が変わる。

 狩人の鋭さから、プロのコンサルタントの柔らかな笑顔へ。

 彼は深く優雅にお辞儀をした。


​ 「契約成立ですね。最良の選択です。お嬢様」


​ 彼は名刺をグルナの手にそっと握らせる。


​ 「ようこそ『アトリエ・サンドリヨン』へ。貴女の物語を始めましょう。グルナ・ド・ボーレガール様」


​ 初めて名前で呼ばれグルナははっと顔を上げた。

 だがイリゼはすでに踵を返し、雑踏の中へと消えていくところだった。

 彼女の手の中に残された一枚の硬い紙の感触だけが、今の出来事が夢ではなかったと告げていた。

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