第34話『ガラスの姉妹』

 基地内の宿舎に戻ったユリウス・クラウド・ストラウスは、リビングのソファに深く身を沈め、指先でこめかみを静かに揉んでいた。


 重い決断を下した後も、父としての苦悩が、鉛のように心を重くしている。

 窓の外には、シリウスの人工的な夜景が広がっているが、その光も今は虚しく感じられた。


 静寂を破るように、控えめなノックの音がした。


「ユリウス」


 静かな声と共にドアが開き、ふわりと、温かいハーブティーの香りが漂ってきた。

 盆に二つのカップを乗せたセラフィナが、心配そうにこちらを見ている。

 彼女は夫の消耗を正確に感じ取り、労わるように微笑んだ。


「少し、休まない?」


「……ありがとう」


 ユリウスは、意識を現在に引き戻す。

 妻が差し出すカップを受け取りながら、その表情に浮かぶ憂いの色を、見逃しはしなかった。


「どうかしたのかい?」


「ええ……。先ほど決まった、レヴィを帝国へ向かわせる件よ」


 セラフィナは、夫の隣のソファに静かに腰を下ろした。

 その美しい瞳が、心配そうに揺れている。


「アディから連絡があったの。ルリカが……自分も、帝国へ行きたい、と」


 ユリウスは、静かに目を伏せた。

「……うむ」


 その短い肯定に、全てを察したようにセラフィナは言葉を続ける。


「ただでさえ、最近はレヴィの学校での評価が高まって、あの子は構ってもらえず、寂しがっていたのよ。置いていかれるのが、怖いのかもしれないわ」


 その言葉は、父親であるユリウスの胸にも突き刺さった。

 軍務に追われ、二人の娘の心の機微に、どれだけ寄り添えていただろうか。


「……アディは、何と?」


「ええ……」


 セラフィナは、少しだけ言い淀んだ。


「ユリウス、最近、アディをずいぶん信頼しているのね」


 その声には、軽い嫉妬のような響きが混じっていた。

 ユリウスは、思わず苦笑する。


「勘弁してくれ。彼女の能力を、正当に評価しているだけだ」


「一度に二人を帝国へ、というのは難しいけれど、他の学校という形なら、道を作れなくはない、そうよ」


「……レヴィがそれを聞いたら、何としてでも連れて行くと言い出すだろうな」


「ええ、きっと」


 セラフィナは、ふっと目を伏せた。

 その脳裏に浮かんでいる光景が、ユリウスには手に取るように分かった。

 自分もまた、同じ記憶の入り口に立っていたからだ。


 ガラス細工のように脆く、しかし、何よりも強く結びついていた、あの頃の二人の姿。


「……あの子たちを、初めて引き取ると決めた、あの時のことを、思い出すわ」



 ◇ ◇ ◇



 その施設は、光の届かない深海を思わせた。

 シリウス軍が極秘裏に管理する、リビルド能力者の研究施設。


 視察に訪れたユリウスは、ガラス越しに実験区画を見下ろしながら、隣に立つ研究主任の報告を聞いていた。


「――やはり、亜光速下での高次元空間への接触が、体内に眠る『プリズム因子』を活性化させるトリガーであることは、間違いありません」


 淡々と語る主任の目に、子供たちへの憐憫の色はなかった。


「ですが、人間の精神構造は、プリズムの光――無限のエネルギーに耐えきれません。結果、因子は光と逆の位相へ……『V因子ヴォイド・ファクター』へと反転します」


「……V因子」


「はい。我々が『リビルド』と呼んでいる能力の実体は、プリズム因子がV因子へと変貌しようとする『ヴォイド化』の初期症状に過ぎないのです」


 ユリウスは、ガラスの向こうで次の実験を待つ、小さな背中を見つめながら、静かに問う。


「では、あの子供たちは……」


「ええ。いずれ自我は崩壊し、純粋な力の器となるでしょう。VOIDの能力を宿した『バイオロイド』とも呼ぶべきか。いずれにせよ、彼らが人の形をした兵器であることに変わりはありません」


「制御下に置かねば、いずれ人類の脅威に。……廃棄もやむなし、というのが上層部の判断です」


 主任の言葉の端々に滲む、子供たちへの不信と、あるいは恐怖。

 この施設の職員たちが、被験者を部品のように扱う心理の根源が、そこにあった。ユリウスが何かを言い返そうとした、その時だった。


 管制室に、けたたましいアラートが鳴り響いたのは。


「『カリス-12』、ショック状態! 生命維持を最優先!」


「ダメです、意識レベル低下!」


 機械的な声が飛び交う。

 モニターに映し出された少女――ルリカの顔は、苦悶に歪み、血の気を失っていた。

 研究員たちは、貴重なサンプルを失うことだけを恐れていた。


 その時だった。

 次の被験者として待機していたレヴィが、それまで浮かべていた能面のような無表情を、粉々に砕き割ったのは。


「――やめろ」


 か細い、しかし、鋼鉄の芯が通った声だった。


「やめろって、言ってるんだ!!」


 それは、絶叫だった。


 レヴィは、監視用の僅かな隙間から飛び出すと、管制室のコンソールに駆け寄った。

 その小さな体で、ルリカの生命維持装置に手を伸ばそうとしていた研究員に、獣のように掴みかかる。


「この子に触るなッ!!」


 瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ、その頬を濡らしていた。

 それは、この施設に来てから、彼女が初めて見せた感情の爆発だった。

 泣き叫び、暴れ、か細い腕で、必死に、弱った少女を守ろうとする、一匹の狼の子。


「――そこまでにしろ」


 ユリウスの声が、その場に凍りつくように響いた。

 彼は、狼狽する研究主任を鋭い眼光で睨みつけ、厳命する。


「直ちに『カリス-12』の救命措置を最優先させろ! このような研究方法、認めん! 全ての計画を、根本から再検討する!」


 彼の脳裏に、数年前に保護された、一人の少女の姿が焼き付いていた。

 亜空間での遭難から、たった一人、奇跡的に生還した少女、檜山レヴィ。

 彼女が、その小さな手に、まるで宝物のように握りしめていた、古ぼけた一枚の写真。

 そこに写っていた、優しい母親の姿を。目の前で泣き叫ぶ少女と、あの日の少女の姿が、一つに重なる。



 ユリウスは、決意した。



 ◇ ◇ ◇



 ユリウス邸の、陽光が降り注ぐ温かい子供部屋。

 一命を取り留めたルリカは、まだ少し気怠げに、しかし、安らかな表情でベッドに横たわっていた。

 その傍らには、レヴィが、片時も離れずに座っている。


 あの日、ユリウス夫妻は、半ば強引な形で、二人を養子として引き取ることを決めた。


 忘れもしない、激しい雷雨の夜だった。


 窓の外で光る稲妻に怯え、ルリカが過呼吸を起こしたことがある。 研究所でのトラウマがフラッシュバックしたのだ。


「いや…こないで…痛いのはいや…!」


 錯乱するルリカを、レヴィは必死に抱きしめた。 その小さな体は、冷たい汗でぐっしょりと濡れ、壊れそうなほど震えていた。


「大丈夫。私がいる。誰もこない。大丈夫だから」


 何度も、何度も繰り返す。けれど、ルリカの震えは止まらない。 途方に暮れかけたその時、部屋のドアが静かに開いた。


「……怖い夢を見たのね」


 セラフィナだった。 彼女は何も聞かず、ベッドの端に腰掛けると、湯気の立つマグカップを二人に差し出した。


「ホットミルクよ。蜂蜜をたくさん入れたの」


 恐る恐る口をつける。 甘い。 舌の上で広がるその濃厚な甘さと、胃に落ちていく温かさが、凍りついた内臓をゆっくりと溶かしていくようだった。


 ふわりと香る、ミルクと、セラフィナがつけている香水の優しい匂い。


「もう、大丈夫よ」


 セラフィナが、二人の頭を撫でる。その大きく温かい手のひらの感触に、ルリカの震えが、嘘のように止まった。


 ああ、これが「安心」なんだ。


 レヴィは、隣ですやすやと眠り始めたルリカの手を、布団の中でそっと握りしめた。 握り返された手の温もりだけが、ここが冷たい実験室ではないことを教えてくれていた。



 ◇ ◇ ◇



「……レヴィは、優しい子だ」


 回想の海から浮上したユリウスが、ぽつりと呟いた。


「アディが解読した、レヴィの本当の母である、檜山なる人物に送ったとされるメッセージ……それが正しければ、リリコというアンドロイドの少女は、あの子が同じ時を過ごした、初めての友人なのかもしれない」


 カップの中で、ハーブの葉が静かに揺れている。


「レヴィにも、友達が必要なのだろう。そして、アディもついている」


 セラフィナは、夫の言葉に、静かに頷いた。

 彼女は、レヴィとルリカの身を案じ、母親として当然の心配をその美しい瞳に浮かべていた。

 しかし、彼女は同時に、これまで数々の難局を、その若すぎる肩で乗り越えてきたアディという少女の、並外れた能力と忠誠心を、誰よりも深く信頼していた。


「アディがついていてくれるのなら、そうね……」


 セラフィナは、テーブルに置かれた夫の大きな手を、そっと両手で包み込む。


「信じてみても、いいんじゃないかしら。あの子の目は、いつだって、シリウスの未来だけを見つめているから」


 妻のその一言が、ユリウスの迷える心に、最後の一押しを与えた。

 そうだ、信じよう。娘たちを。そして、未来を。


「……ルリカの件は、タイミングを見計らって、最善の方法を探ろう」


 ユリウスは、決断の言葉を口にした。

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