第36話『全世界が君に向かって流れ出す』

 その悲痛な叫び声に、ブルーインは弾かれたようにリビングへ駆けつけた。

 壁掛けスクリーンには、スパイ容疑で連行されるレヴィの姿が、大々的に映し出されている。


「この人、誰…? でも、知ってる…。なんで…?」


 リリコは、自分の頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになる。脳裏に、ノイズ混じりの映像が、何度もフラッシュバックする。


 ――屋上のフェンス。隣で笑う、知らないはずの横顔。

 ――カラオケボックスの、ミラーボールの光。響き渡る、楽しそうな歌声。

 ――一つのベッドの中。背中に感じる、温かい体温。


「ああ…、頭が、割れそう…」


 その苦しそうな姿に、ブルーインの中で、何かが、決壊した。


「……ごめんね、リリコ」


 彼女は、泣きながら、リリコに強く抱きついた。


 そして、その腕の中で、隠し持っていたキーホルダーを、リリコの首筋にあるポートに、強く押し当てた。

 リリコの記憶を、感情を、そして、彼女の全てを取り戻すために。

 たとえ、それが、彼女を再び地獄に突き落とすことになったとしても。


 キーホルダーにバックアップされていたRIUのデータが、奔流のように、リリコの体内へと流れ込んでいく。


 それは、痛みではなかった。

 むしろ、熱い、情熱的な何かが、全身の細胞を、内側から焼き尽くしていくような、感覚。


 ――屋上で食べた、焼きそばパンのソースの味。

 ――レヴィがデザインした、戦闘用アーマーの奇妙なデザイン。

 ――ベッドの中で、弱く握り返してくれた、指の感触。


 全ての記憶が、五感を伴って、リリコの脳を駆け巡る。

 ブルーインの腕の中で、リリコは、ただ、震えていた。そして、あの虹色の光と、身体を内側から引き裂くような衝撃も蘇る。


 やがて、記憶の奔流が収まり、そして、その視線の先に、映し出されていたのは。


『【速報】交換留学生レヴィ・ストラウスを、スパイ容疑で拘束』


「……え…」


 リリコは、自分の喉から漏れた、か細い声に、自分でも驚いた。日付、ニュース、泣いているニーねえ、何が起きているのか、瞬時に判断ができた。


「おねえ…さま…?」


「私のせい…? 私が、あの時、暴走したから…。私のせいで、おねえさまが…!」


 その叫びが、引き金だった。


「あんなに…みんなの…人気の…」

「大好きな…おねえ…さま…に…敵意を…」

「…そんな…敵意を…向け…るな…」


 レヴィに対する負の感情――後悔、罪悪感、そして、彼女を失うことへの恐怖。


 その激情が、リリコのRIUを通じて、思考量子場マインド・フィールドへのアクセスを強行する。



 それは、水面に落ちた一滴の雫のように、静かに始まった。

 だが、次の瞬間、その波紋は音もなく、そして爆風のように全世界へと広がっていく。



 帝都の喧騒、シリウスの静寂。SNSで交わされる無数の悪意、テレビの前で呟かれる無責任な同情。眠りについている者の夢、覚醒している者の祈り。

 あらゆる人間の「思考」が、目に見えないニューロンのように繋がり、巨大な意識のネットワークを形成していく。


 そして、その全世界を覆い尽くした意識のネットワークが、一斉に、ただ一点へと向きを変えた。

 地球の裏側から、衛星軌道上から、全ての思考が、一本の光の奔流となって、彼女――リリコへと殺到する。



 次の瞬間、世界が、リリコに向かって流れ始めた。


 街頭のビジョン、人々の持つスマートフォン、ビルの窓ガラス、走行するエアカーの車体のガラスが、一方向に向かい割れていく。

 あらゆる無機物の壁をすり抜け、目に見えない情報の粒子が、光の線となって、リリコの身体へと吸い込まれていく。

 それは、まるで世界中の情報が、ただ一つの点に向かって集束していく、壮大なブラックホールのようだった。


 リリコの身体が、眩い虹色の光球に包まれる。

 焦点の合わない瞳で、彼女は何を見ていたのか。

 着ていたはずの赤いジャージと迷彩柄のスカートが、光の粒子となって霧散し、その代わりに、黒と赤を基調とした、禍々しくも美しい戦闘スーツが、肌の上に再構成されていく。


「リリコッ…!」


 ブルーインは、吹き荒れる情報の嵐に吹き飛ばされそうになりながら、必死に叫んだ。

 光球の中から、リリコが一瞬だけ、こちらに気づいたような気がした。


 だが、それも束の間。虹の光球は、急速に収縮し、絶対的な「黒」へと変貌する。その漆黒の球体から、虹色の電気が、蛇のように迸った。

 そして、次の瞬間、黒い球体は、空間ごと抉り取るように、跡形もなく消え去っていた。


 後に残されたのは、オゾンと静寂だけだった。


 嵐が去った部屋の壁で、一枚のイラストだけが、小さく揺れていた。 レヴィが描いた、黒と赤の戦闘スーツ。その絵の中では、ブリ子は無邪気に笑っていた。

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