第6話 悪徳商人の撃退
魔法訓練での失神から目覚めたライは、生活圏内に新たな脅威が加わったことを知った。
「ライ様! 魔法の才能、さらに開花させましょうぞ!」
「ライ様! 剣の極致、その先を私めに!」
「ひいぃぃ! く、来るなああぁぁ!!」
剣術指南役のガリオンと、魔法指南役のゼイリーナ。
二人の狂信的な指導者から逃れるため、彼は屋敷の地理に関する前世からの知識を総動員し、彼らの行動パターンを先読みして巧みに避け続ける、高度な鬼ごっこを繰り広げていた。
そんなある日、執事のジョンソンが、神妙な面持ちでライの自室を訪れた。
「ライ様、モルガン商会の当主が面会を求めておられます」
「モルガン…商会?」
その名を聞いた瞬間、ライの顔からサッと血の気が引いた。
忘れるはずもない。前世のライが、奴隷売買や密輸といった、貴族としても人間としても一線を越えた悪事に手を染めるきっかけとなった、あの悪徳商人の名だ。
前の人生では、モルガンの甘い口車に乗せられ、違法な商売で莫大な利益を上げた。
そして、それに味を占めた結果、破滅への道を突き進んでいったのだ。
(だめだ…今、あいつに会っても断れる気がしない…!)
何より、犯罪に加担すれば、捕まって処刑されるリスクが天文学的に跳ね上がる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「ジョンソン! 面会は断る! 病気だと言って追い返せ!」
「しかしライ様、モルガン商会は、先代様からお付き合いのある由緒正しい商会。当主自らの面会を、病を理由に無下に追い返すのは、ナハガルト家の信義に関わりますぞ」
「ぐっ…」
ジョンソンの厳格で、一切の妥協を許さない態度に逆らえず、ライは結局、応接室へと連行されることになった。
応接室には、樽のように肥え太った中年男、モルガンが卑屈な笑みを浮かべて座っていた。
ライの姿を認めるや否や、彼は弾かれたように立ち上がり、腰が折れるのではないかというほど過剰なお辞儀をする。
「これはこれは、ライ様! 本日はお目通りが叶い、このモルガン、望外の喜びにございます!」
ライは、その脂ぎった笑顔の裏にある、底なしの強欲さと狡猾さを、前世の記憶から嫌というほど知っていた。
モルガンは、当たり障りのない挨拶を早々に済ませると、にじり寄るようにして早速本題に入った。
「実はですな、ライ様のお耳にだけ、こっそりと入れておきたい、とっておきの儲け話がございまして…ふふふ」
彼は声を潜め、汚らわしい手つきで懐から一冊の分厚い帳簿を取り出す。
表紙には何も書かれていないが、ライにはその中身が何であるか、痛いほどわかっていた。
案の定、モルガンが開いたページには、商品としての商品価値を記された、人間たちの名がびっしりと並んでいた。奴隷のリストだ。
そのリストを見た瞬間、ライの脳内に、民衆の罵声と腐臭に満ちた処刑台の光景が、鮮烈にフラッシュバックした。
(これを、これを手に取れば、お、俺はまた、あの場所へ!)
恐怖のあまり、ライは「ぎゃっ!」と短い悲鳴を上げて椅子から飛び上がった。
そして、モルガンが何かを言う前に、彼に背を向け、応接室の扉に向かって全力で走り出した。
ただ、この危険極まりない男から一刻も早く離れたかった。それだけだった。
しかし、極度の焦りが彼の身体の自由を奪う。
足が、ふかふかの絨毯のもつれに引っかかってしまった。
「うわっ!?」
ライは派手にすっ転び、その勢いのまま、応接室の隅に飾られていた装飾用の重厚な鎧の置物に、頭から突っ込んだ。
ガッシャアアアァァァン!!!
凄まじい轟音と共に、鎧が崩れ落ちる。
運よく(?)その一部である鉄の籠手が、ライの右腕にすっぽりとはまってしまった。
そして、体勢を崩したライが、もがきながら無我夢中で振り回した腕が――鉄の籠手を装着したままの腕が――彼の後を追おうとしていたモルガンの顔面を、クリーンヒットで捉えた。
ゴッ!!!
という、鈍い音が響き渡る。
「ぐべらっ!?」
鉄の籠手をはめたライの渾身の一撃は、彼の意図とは全く無関係に、凄まじい破壊力を発揮した。
モルガンは鼻の骨を砕かれ、数本の歯を宙に舞わせながら、奇妙な悲鳴を上げてその場に昏倒した。
「「……」」
一部始終を見ていたジョンソンとメリナは、あまりの展開に唖然とする。
ライは、自分の腕にはまった物々しい籠手と、床に大の字になってピクピクと痙攣しているモルガンを見て、自分が何をしでかしたのかをようやく理解し、顔面蒼白になった。
「ひ、人を…殴ってしまった! ししし、傷害罪だ! 牢屋に入れられて、処刑されるんだあああ!」
パニックに陥ったライは、鉄の籠手を腕にはめたまま、金切り声を上げて応接室を飛び出し、自室に逃げ込んで内側からガチャンと鍵をかけた。
その後、鼻血と涎で顔を汚したモルガンをメリナが介抱し、静まり返った応接室で、ジョンソンは床に散らばった一冊の帳簿を拾い上げた。
それは、ライがモルガンを殴りつけた際に、彼の手から滑り落ちた奴隷リストだった。
ジョンソンは、そのおぞましい内容に目を通し、全てを理解した。
そして、深く、深く頷く。
「…なるほど。ライ様は、この男の不正を一瞬で見抜き、悪を許さぬ正義の心から、鉄槌を下されたのだな」
老執事は、主の思慮深さと、悪を許さぬ断固たる姿勢に、深く感銘を受けた。
彼は、そのリストを証拠として、密かに王国の騎士団に提出することを決意する。
こうして、ライは全く無自覚のうちに、一人の悪徳商人を社会から物理的に排除することに成功したのであった。
無論、自室のベッドでガタガタ震える彼が、その事実を知ることはない。
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