時の案内人
木工槍鉋
時計台
明治二十五年竣工の時計台は、開発予定地の真ん中で頑固に立っていた。
建築家の田中は煉瓦造りの建物を見上げ、誰にともなくつぶやいた。
「…本当に壊してしまうのか」
「壊してしまうんですか?」
背後から澄んだ声がした。振り返ると、白いワンピースを着た女性が立っていた。長い黒髪が肩に流れ、なぜか急いでいる様子がない。
「計画の都合上」田中は答えた。
「でも、この建物にはそんな簡単な言葉では測れない何かがありますよね」
田中も建物を見直した。明治の職人が積み上げた煉瓦には現代の工業製品にはない温かみがあった。装飾的な石彫り、繊細な鉄細工、百年間この街を見守ってきた重厚な存在感。
「建築には土地の記憶が刻まれます」田中は言った。「風化や変形が建物の個性になる」
「時間が作り出す美しさですね」女性が微笑んだ。
時計台に入ると、螺旋階段が上階へ続いている。鋳鉄製の手摺は長年の使用で滑らかに磨かれていた。
最上階の時計室で、田中は息を呑んだ。明治の職人が組み上げた精密な機構があった。真鍮の歯車、鋼鉄のバネ、振り子の重り。機械美の極致がそこにあった。
「美しいでしょう?」女性がいつの間にか隣に立っていた。
「これは芸術品だ」田中は感嘆した。「CADで設計されたビルとは比較にならない。職人の魂が込められている」
「でも、壊してしまうんでしょう?」
田中は複雑な気持ちになった。建築家として新しいものを創造する喜びもあるが、古いものを失う痛みもあった。「現代の用途には合わないんです」
「新しいものを作ることが建築家の仕事なんですか?」
翌日、田中は詳細な調査を始めた。構造を調べるほどに建物の優秀さに驚かされた。煉瓦造の壁は美しく、高い天井は空気の対流を生み、窓の配置は光を導いていた。
「昔の建築家は素材の特性を熟知していた」
「そうですね」女性が現れた。「急いで建てて壊すより、長く愛される建物の方が良いと思いませんか」
田中はハッとした。建築家としての矜持が蘇ってきた。学生時代、師匠から教わった言葉を思い出す。「建築は百年の計で考えろ」
「この時計が動いていた頃は、どんな街だったんでしょう」女性が時計盤を見上げた。針は二時五十分で止まっている。
「もっとゆったりしていたでしょうね」田中は答えた。「人々は鐘の音で時間を知り、待ち合わせをした」
「私もその頃を知っています」女性は遠い目をした。「恋人たちが待ち合わせをして、子供たちが鐘で帰宅して…みんな時間を大切にしていました」
「ここにずっといますから」という答えは奇妙だったが、田中は気にしなかった。
週末、田中は設計案を練り直していた。本当にこの建物を壊す必要があるのだろうか。
「来てくれたのね」女性が階段の途中に座っていた。夕日が時計盤を照らし、建物が金色に輝いている。
「この建物を活かした設計を考えています」田中は言った。「時計台を核とした、古いものと新しいものの対話です」
「素晴らしいアイデアですね」
「でも、収益性が……」
「本当の価値は数字では測れません」女性は壁に手を触れた。「この煉瓦に職人の誇りが込められている。この経年変化した美しさは、新しい建物では生み出せない」
田中は励まされた。効率や利益だけでなく、文化や歴史を次世代に伝えることも建築家の役割ではないか。
翌週、田中は時計台保存・再生計画を提案した。周囲に低層施設を配置し、時計台を中央のシンボルとする案だった。
「採算が合わない」担当者は首を振った。
「歴史的建造物は街のブランド価値を高めます」
交渉は難航したが、最終的に説得に成功した。
修理作業が始まると、時計職人の老人を見つけてきた。「最後の仕事じゃな」老人はつぶやきながら復元を承諾した。
修理完了の日、多くの人が集まった。午後三時、止まっていた針がゆっくりと動きだし、鐘の音が街に響く。澄んだ、美しい音だ。
人々は拍手し、田中は建築家として深い満足感に包まれた。
「ありがとう」
振り返ると、女性が微笑んでいた。だが、どこか遠い表情だった。
「これで私の役目も終わりです」
「役目?」
「みんながゆっくりと時を過ごすことを思い出してくれましたから」
夕暮れ時、女性の姿が薄れていく。田中は声をかけたが、返事はなかった。風が吹き、風見鶏が回り、鈴の音のような、羽衣が風にそよぐような優しい音が聞こえた気がした。
一年後、田中は時計台を訪れた。複合施設は成功していた。古いものと新しいものが調和した美しい街並み。
人々は忙しそうだが、時々時計台を見上げて足を止める。子供たちがベンチで宿題をし、恋人たちが待ち合わせをしている。
田中は建築家として正しい選択をしたと確信していた。開発だけが正解ではない。古いものを守り、融合させることで、豊かな空間を創造できる。
時計の針は今日も時を刻み続けている。その音に包まれた街で、人々は急ぎながらも、立ち止まることの大切さを思い出している。
時の案内人 木工槍鉋 @itanoma
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