第15話 最高のカタルシス
シイラ。
あなただけは、何処にもいかないで。
私のそばにいて。
私にはあなたしかいない。
ねえ、目を覚まして。
私を見てよ。
お姉ちゃんは、あなただけを愛しているの。
だから、あなたも私を愛してほしい。
愛してくれるなら、すべてをあげる。
私の身体も魂も。
そして、この世界さえも――。
姉さん。
僕の、姉さん。
僕はずっとあなたが妬ましかった。僕には持ち得ないすべてを難なく手に入れながら、いつもつまらなさそうに虚無的な眼差しを世界に向けるあなたが。僕には、この世界を見下す天使のように視えていたんだ。
あなたは特別な人だった。
あなたは、すべてから愛されていた。
そんなあなたに憧憬を抱きながら、僕はたまにあなたを消してしまいたいと思うこともあったんだ。あなたさえいなければ。あなたのような天才がいなければ、僕は家族から愛されることができたかもしれない。冷遇されることはなかったかもしれない。幾度となくそう考えて、胸を焦がし、人知れず涙を流した。
そんな自分が許せなくて、醜い自分を許容できなくて。だから、僕は、努力した。あなたに少しでも追いつこうと足掻いたんだ。でもそれは、空を泳ぐ天使に追いつこうとするかのような無謀なことで。僕は必死に手を伸ばし、やがて心さえも壊してしまった。
姉さん。
僕は、ずっとあなたになりたかったんだ。神から愛された天才。持たざるものなど何もない、神の領域に足を踏み込んだ奇跡。あなたは僕の網膜を焼き尽くした。それくらいの鮮烈な光を、あなたは持っていたんだよ。
なあ、姉さん。
僕は、理解できなかった。
そんなあなたがなんで、僕なんて取るに足らない存在に固執したのか。あなたはすべてを持っていただろう。僕がいなくても、あなたには幾らでも選択肢があったはず。
湿気たマッチで、必死に火を起こそうとしなくたってよかったはずなんだよ。
姉さん。
あなたは、生きるのが苦しかったのか? だから僕のことを刺したのかな。この世界に絶望して、僕と一緒に死んでしまうつもりだったのか。なあ、姉さん。姉さん。僕は、あなたのおかげで生まれ変わってしまったよ。
ありがとう。
僕は、あなたを憎まないよ。
「……ね……さ、ん」
暗闇の中に、コツコツと音が響いている。
目を開けた。開けた、はずだった。まるでマトリョーシカのように闇から闇が生まれただけだった。なにも見えない。それくらいの深い闇の中にいるのか。
「リヒト様」
声がこだまする。
ライラの声だった。
僕からすべてを奪った女。だのに、僕は指先一つ動かすことができなかった。麻酔を打ち込まれたときのような、意識だけはあるのに身体の中は効かない感じ。頭が痛い。身体が異様に重く、息苦しい。
「……っ、ァ」
声が出ない。
「……蘇生したばかりだから無理だよ。まだ身体を動かすことはできない」
「……」
「混乱しちゃうよね。無理はない。あなたはあのオカマちゃんに騙されて、怒り狂った挙げ句に返り討ちにされて殺された。で、目玉を抉り取られちゃって、私に蘇らせられたわけさ」
冷たいなにかが、顎先を触れる。ライラの指先。長い爪が肌を甘く引っかきながら唇を流れ、鼻を流れ、そして、目のそばで止まる。
「何もかも奪われちゃったんだよ。あなたの尊厳も、あなたの瞳も、大切にしていた親友も……。あなたは、あいつと私に壊されちゃった」
指が、眼底にさしこまれる。壺に入ったわずかばかりのハチミツを掬い取るような動きで撫で回して、息を吐いた。
頭蓋に染み渡るような、甘い痛み。
「……ねえ、悔しくないの? あなたは、これまでさんざん良いようにされてきた。父親を殺され、故郷も破壊され、変態に弄ばれ、見世物にされて。あなたは、ずっとずっと弱者として虐げられてきたんだよ?」
弱者。
その言葉が耳朶に響いた瞬間、僕の心がぐしゃりと握りつぶされた。
「……な、い」
許せない。
許せるわけが、ない。
「そうだよね。許せるわけがない。あなたはそれだけのことをされてきた」
「……っ」
「あなたには、復讐をする権利がある。すべてを奪ったものたちに報いを受けさせなければならない。そうでしょう? いまのあなたには、それに相応しい力がある」
あなたは、覚醒したんだよ。
――あなたの真の姿に。
「おめでとう、リヒト様。あなたは
眼底に、何かが突っ込まれる。
ぐちゃぐちゃと音を立てながら、何かが熱を帯びて、顔の奥深くにまで痛みを走らせた。
「魔王に最も近しい七名の一人、最後の大罪〈
――ねえ、リヒト様。
「あなたの欲は、何ですか?」
「……ぼ、く……は」
僕は――どうしたい?
父様。
イザーク。
アンナ。
アイファ。
みんな。
走馬灯のごとく流れていく記憶。リヒトとして生まれ落ちてからのすべてが僕をかき乱し、ああ――僕は、僕は、これまで何もできなかった。僕の大切な人たちを守ることができなかった。
みんな……みんな、ごめん。ごめんなさい。すべては僕が弱かったから。お前たちを守る力がなかったから、下卑たクズどもに奪われてしまった。もっと強ければ、僕にもっと力があれば、こんなことにはならなかった。もっと……もっと、強ければ。
力が、欲しい。
何者にも奪わせない、最強の力が。
誰よりも強くありたいと、誰よりも高みに登りたいと願う。
それが――それが、
「……あ、あぁぁあああァあアァァァァあああ!」
血を吐きながら嗄れた怒声をあげる。のどが引きちぎれるほどの痛みが今の俺には甘かった。鉄臭い味。ああ、まるで――芳醇なフレグランスのように頭を突き抜けていくよ。
ぼんやりと天井が浮かびゆく。モヤのかかった暗い景色は少しずつ像を取り戻し、火に照らされたライラの笑顔さえもはっきりと映し出した。
片目だけ、視界が戻った。
「……瞳は返しました。後はあなたで取り戻してください」
「……あ、ぁああア」
「これより数時間後、あなたは身体の自由を取り戻す。ふふ、シェーンブルクは闘技場にいますよ。あなたがどうするかはあなたに任せます」
ライラは言葉を切って、愉悦を含んだ声をもらした。
「うふふ……ふふふ、とは言っても決まっていますよねえ。拝見させていただきますよ。〈大罪〉としてのあなたの本領を」
「……」
冷たい石床が、足の裏に吸い付いてくる。ぺたり、ぺたりとインクに浸けすぎたハンコを押すときのような感触が、今の俺には心地よい。
信じられないくらい、気分がよかった。
頭のなかに風を流しているかのように、爽快感に溢れている。脳内麻薬がじゃぶじゃぶと滝のように流れているからか。あはは、気持ちいいい。これが覚醒の感覚なのか。
いまなら、何でもできそうな気がするよ。
何でもやってしまいそうな気がするんだよ。
「あは、あはは……」
もう笑いが止まらない。
おかしくておかしくておかしくて可笑しくて可笑しくてオカシクテおかしくておかしくてオかシくテ。
世界がぐるぐるまわってないのに回っていてさあ。まるでゴッホの絵をくるくる回しながら見ているような感じがして回っているものを回すのなんて、コマみたいで面白いなあ。ああ、回しすぎて逆に正常に見えてくるような気がしてくるよな。あはは、あはあひあひあはは――。
「お、おい止まれ! なんでお前がここに――」
なんか止めてきたやついた。
俺はそいつの顎を粉々に吹き飛ばした。
「あはっ」
振り抜いた拳が軽い。
床と壁にまき散らされた前衛芸術が愉快で思わず笑ってしまう。人間絵の具。いや、魔族絵の具か。綺麗な真っ赤。たまに黒くてそれがいいアクセントになっているね。あれなんだろ。あの白いの? ポップコーンか。硬そうなポップコーンでまずそうだなぁ。
悲鳴があがる。
あ、まだいたんだ。まだまだたくさん。絵の具がたくさん。
全員、絵になった。
俺は広がりすぎた絵の具を踏みしめて、カエルの合唱みたいな笑いをあげながら、ゆっくりと突き進んだ。
赤い足跡を刻みながら。
俺は、愉快に闘技場の真ん中に降りたった。
『え……? リヒトちゃん? なんでリヒトちゃんが……グレーターデーモンはどうしたのよ?」
「えへへ……来ちゃっタ」
困惑する変態ジジイを見あげながら、俺はヘラヘラと挨拶する。頭が甘くてガンガン痛い。なにかがずっと頭の中に、訴えかけてきて止まらないんだ。
脳内麻薬のダンスが見えた。
そんなの見えるわけねえだろ馬鹿。
『なぜ、あなたが生きて……。死んだはずよ。たしかにあのとき心臓を貫いて息の根を止めたのに……』
ぐちゃぐちゃうるせえから、周りを見回しておく。観客のアホ魔族たち。たぶん、それなりにお金じゃぶじゃぶな暇人どもなんだろ。そいつらは、俺の目を見てなんか怯えている。
おら、もっとちゃんと見ろよ。展覧会を開いて観に来るつもりだったんだろうが――。
『なぜ……まさか、死者を蘇らせる禁呪を? バカな……あれは、失われた魔法。そんなものどうやって……』
「あはハは、なあなあアイスクリームって美味えよなあ。おれ、めっちゃ好きなんだよアイスクリーム! とくにストロベリーがさあ。赤くてあまくてすっぱいもん」
『ちっ……ライラちゃんねぇ! あのアバズレぇえ、この私を謀りやがったなあああ』
「おい、話聞けよ」
耳の中に糞でも詰まってんのかじじい。
「まあ、いいや」
俺は溜息をついた。
もう、全員視た。生命活動の再開で異常増幅した魔力も、あとは膨らませるだけでいい。
アイスクリームの雨を降らせてやるよ。
『えええい! もう試合なんかどうでもいい! そこのイカれたガキをさっさと殺してしまいなさい! ゴブリンロードにありったけの強化魔法を注ぎ込むのよぉお!』
怯え混じりのオカマの怒声。
ああ、こいつわかってんな。
俺が、別のナニカに生まれ変わったことを。
「――ははっ」
でっけえ豚が金棒を振りかぶりながら突っ込んでくる。目の前にいたんだよなあ。もう視たけど。
俺は豚を無視して、空を見あげる。
ああ――綺麗な空。
『――全員』
俺の隻眼が虹色の輝きを放ち出す。
魔眼――アスモデウスの瞳。
俺は、最強の精神魔法〈アスモデウスの魅了〉を発動した。
『――死ねええええええええええええええええええええええええぇぇェェッ!』
その瞬間。
真っ赤な花火が打ち上がった。
観客席から、目の前の豚から、血と肉の混ざったどす黒い雨が沛然と降り注ぐ。みんな、俺の名前を恍惚と叫んだ。そして悲鳴を上げながら死んだ。魔力を暴走させ、体内で爆発させたんだ。笑いが止まらねえ。どいつもこいつも初対面なのに、俺に命令されて肉爆弾になったことを恍惚と喜んでやがった。あはははは、あははははは――あははははははははははははははははははははははははははは。
「きゃははははははははははははははははははははははははははははは――」
ああ、なんて――なんて最高に気持ちいいんだ。
綺麗なソフトクリームの雨を、手を広げながら歓迎する。目の裏が清涼剤を塗りつけたみたいに痛いほど涼しくて、全身に血が巡るのをよく感じられた。鼓動がうるせえ。脳みそが飛び上がりそうなくらいに快感に溢れてゾクゾクした。
『……あ、え。……ば、バカな』
呆然と立ち尽くすオカマ。
恐怖に震える間抜けな面が面白くて、俺は感想を聞きにいった。
一瞬で近づき、胸ぐらをつかんで挨拶する。
「よぉ、オカマジジイ」
「……っ」
「てめえにはたくさん世話になったなあ。……三年間てめえのおかげで退屈なときがなかったぜ。あは、あひゃひゃひゃひゃ」
――だからよ。
「礼をさせてもらうぜ。たっぷりとよぉ」
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