第15話 酒場で交わされた聖女の秘密
勇者の武勇伝や冒険者の喧嘩、転生者たちの愚痴。
けれど、その夜は少し違った。
――聖女が、ひっそりと酒場の扉をくぐったのだ。
◇ ◇ ◇
白いローブは目立つ。
金糸の刺繍はどうしたって神聖さを放つ。
でも彼女はフードを深く被り、隅の席に腰を下ろした。
気付いた者は少ない。
皿を運んでいた僕は、偶然それを目撃してしまった。
「……水を、いただけますか」
聖女は小声で言った。
彼女の声は、祈りの時のように澄んでいなかった。
どこか乾いて、ひび割れていた。
僕は頷き、水の入ったグラスを差し出した。
◇ ◇ ◇
彼女は一口飲んで、深く息を吐いた。
それから、ふいにこちらを見た。
「あなた……前にも会いましたね」
「皿洗いです」
「……そう。皿洗いさん」
彼女はかすかに微笑んだ。
その笑顔の裏に、強い疲労の影があった。
◇ ◇ ◇
「聖女様が、どうしてこんな所に?」
勇気を出して訊ねると、彼女はグラスを指先で転がしながら答えた。
「祈りが……もう、続かないのです」
小さな声だった。
けれど、その重みは祈りの言葉よりも深く胸に響いた。
「人々の前では、いつも笑顔でいなければならない。
“聖女は祈るもの”と決めつけられている。
でも、私はただの娘です。泣きたい夜もある」
彼女の瞳が震え、光を宿さなくなっていた。
誰も見たことのない、聖女の素顔。
◇ ◇ ◇
その時だった。
カウンターの奥から老婆の声がした。
「もうやめなさい」
聖女の育ての親――あの老婆が立っていた。
彼女は聖女の肩に手を置き、厳しく、しかし優しく言った。
「命を削ってまで祈る必要はない。
人は人、自分を犠牲にしてまで救うな」
聖女は唇を噛み、俯いた。
老婆はそれ以上は言わず、ただ娘を抱くように寄り添った。
◇ ◇ ◇
僕は皿を拭きながら、心の奥で思った。
人は神話の中で生きられない。
聖女であっても、ただの人間だ。
だからこそ、彼女の祈りは美しいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「……また観察してしまいましたね」
魔導書少女が、いつの間にか隣にいた。
彼女は本にさらりと書き込む。
“聖女、祈りをやめたいと吐露。秘密保持”
「あなたの目に映るものは、物語を揺らします」
「僕はただ、皿を洗ってただけなんだけどな」
「それでも十分です」
少女はページを閉じ、ふっと笑った。
◇ ◇ ◇
次回、「賢者の弟子、暴走す」
お楽しみに。
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