第8話 火種と勘違い 8. 逃亡と犠牲
セラフィナの屋敷が並ぶ街は、夜でも灯火に包まれた華やかな城下町だった。
音楽と笑い声が響き、舞踏会の余韻が残る通りに、突如として鐘の音と悲鳴が重なった。
「魔族だ──魔族が来たぞ!」
黒い翼を持つ魔族小隊が空を裂き、市場に炎を撒き散らす。
目的はただ一つ。
「烙印の器を奪え!」
リュシアンの胸に刻まれた紋様こそ、彼らの標的だった。
セラフィナは屋敷のバルコニーに立ち、白い腕を掲げて祈りを示した。
「恐れることはありません! 勇者はここに!」
その声に群衆の視線が集まった。
だが、勇者は路地裏で煤と汗にまみれ、震えていた。
「ちくしょう……俺を狙うなよ……!」
リュシアンは涙目で呻き、群衆の中に飛び込んだ。
「どけ! 俺が先だ!」
老婆を突き飛ばし、子どもの背を蹴り、荷物を抱えた男を蹴倒す。
人々は転び、泣き叫ぶ。
そこへ魔族兵の爪が迫り、血が飛び散った。
「い、今の……勇者殿……?」
近くの商人が青ざめて呟いた。
「民を突き飛ばして……」
戸惑いが走る。
だが、鎧をまとった兵の隊長が声を張り上げた。
「違う! 勇者殿は母子を突き飛ばして救われたのだ!」
「……救った……?」
「そうだ! 己が汚名を恐れず、命を守ったのだ! 勇者殿の慈悲を疑うな!」
言葉は力を持ち、商人たちは顔を見合わせ、やがて頷いた。
「……そうか……命を救ったのだ……」
リュシアンはそんな誤解など意に介さず、さらに逃げた。
「ひぃっ……俺は死にたくねぇんだ!」
背後から魔族兵が迫る。
リュシアンは近くの若い兵を掴み、突き飛ばして自分の前に押し出した。
「お前だ! 盾になれ!」
兵士は振り返る暇もなく、迫る爪を全身で受け止めた。
「ぐあああ!」
鮮血が飛び散り、兵はその場に崩れ落ちた。
「勇者殿を……お守りして……!」
血を吐きながら兵が呻いた声を、避難民たちは確かに聞いた。
娘が震える声で言った。
「兵が……自ら身を挺して……勇者殿を守った……」
老司祭が深くうなずき、祈りの言葉を重ねる。
「勇者殿はその信頼を受け、進まれているのだ。尊きことではないか。」
周囲の顔に感嘆が広がり、涙が零れる者すらいた。
リュシアンは泣き叫びながら石畳を蹴って逃げ続けた。
「誰か助けろ! 俺を守れ!」
彼の声は恐怖に引き裂かれていたが、人々の耳には「仲間を信じて託す声」と響いていた。
やがて角を曲がると、瓦礫に塞がれた通りに避難民と兵士が立ち往生していた。
「勇者殿! 一緒に抜け道を!」と兵が手を伸ばす。
「邪魔だ! お前らが足止めしろ!」
リュシアンは怒鳴り散らし、彼らを押しのけて瓦礫の隙間を這って抜け出した。
魔族兵が雪崩れ込み、残された兵と民は必死に剣を構えた。
「勇者殿は……我らを信じて進まれたのだ……!」
血を吐きながら兵が呟き、その言葉が伝染していく。
「なんと尊い御心……!」
「勇者殿は我らの命を生かされたのだ……!」
リュシアンは川にかかる石橋へ駆け込み、膝をついた。
「……はぁ……はぁ……助かった……」
彼の口から漏れるのは、自分の生存だけを喜ぶ吐息。
だが街では、すでに「勇者が身を挺して民を救った」という物語が芽生えていた。
________________________________________
橋の袂で、リュシアンは膝に手をついて荒く息を吐いていた。
涙と涎で顔はぐしゃぐしゃに濡れ、震える肩が夜風にさらされる。
「……はぁ……はぁ……助かった……俺は助かった……」
その言葉には、背後に残した兵や民への思いは一片もなかった。
その時、胸の奥から声が響いた。
「……よくもまあ、ここまであけすけに醜態を晒せるものだな。」
「うるせえ!」
リュシアンは怒鳴り返し、川面に唾を吐き捨てた。
「生きてんだからいいだろ! 俺が死んだら誰が勇者やんだよ!」
オズワルドは静かに、しかし刺すように告げた。
「さきほどの母子も、若い兵も、お前が突き飛ばさなければ死ななかったかもしれない。」
「……だから何だ!」
リュシアンは声を裏返らせて叫んだ。
「俺が死んでたら意味ねえだろ! 俺は勇者だぞ! 勇者が死んだら全部終わりだ!」
「勇者が民を犠牲にして逃げ回る。それはただの悪辣な傀儡だ。」
「黙れ! 俺は悪くねぇ!」
リュシアンは耳を塞ぐように頭を抱え、なおも喚いた。
「俺はただ、生きてたいだけだ! 酒飲んで女抱いて寝てたいだけだ! それがそんなに悪いのか!」
オズワルドは長い沈黙のあと、淡々と答えた。
「悪いとは言わん。ただ、それしかないというのは──滑稽だ。」
リュシアンは地面を拳で叩き、子どものように喚いた。
「滑稽だろうがなんだろうが、死ぬよりマシだ! お前だって結局俺と一緒に逃げたじゃねえか!」
オズワルドの紅の瞳が月光に揺れた。
「違う。私は民を守るために残る兵を見た。お前を守ろうと死んでいった若者の背を、忘れぬためにここにいる。
だが、お前は自分が生き残ったことだけしか数えていない。」
リュシアンは一瞬言葉を失い、だがすぐに歯をむき出しにして笑った。
「そうだよ! だから俺は生きてんだ! 死んだやつらはバカだ! 俺がこうして生き残ったからこそ、みんな“勇者はすごい”って思うんだろ!」
その言葉をかき消すかのように、街の奥から声が聞こえてきた。
「勇者殿が母子を庇った!」
「兵が勇者殿を守って散ったのだ!」
「尊い……なんと尊い御心……!」
群衆のざわめきが伝わり、祈りの声すら混じっていた。
リュシアンはその響きを聞きつけ、顔を上げてにやりとした。
「ほら見ろ。結局、みんな俺を讃えてんだ。」
オズワルドは目を細め、呆れにも似た吐息を漏らした。
「……お前という存在が、どれほど世の皮肉を映しているか。」
リュシアンは肩を揺らしながら、得意げに鼻を鳴らした。
「俺はクズでも勇者なんだよ。これが現実だ。」
オズワルドは答えず、ただ静かに彼の横顔を見つめていた。
臆病と卑劣に塗れたその姿を、誰もが「高潔」と語る皮肉を噛み締めながら。
________________________________________
聖堂の鐘が鳴り響く中、ローランは城門近くの石畳に立っていた。
黄金の髪は松明に照らされて輝き、白銀の甲冑は血と煤で黒く汚れている。
だが彼の瞳は狂信に燃え、神の裁きそのものを映していた。
街に舞い降りた魔族の小隊。その狙いはただひとつ。
──烙印の器。
すなわち、あの男。
ローランは人の波を割って進むリュシアンの姿を目にした。
群衆を突き飛ばし、泣き叫ぶ子を蹴散らし、兵士の背に隠れては次の路地へ駆け抜けていく。
その行動は、常人の目には混乱と臆病にしか映らないだろう。
だが、ローランには違って見えた。
「……神よ、見たか。あれこそ選ばれし者の冷徹なる采配。」
母子を押し退けた一瞬。
それはローランには、勇者が己の罪を背負いながらも未来ある命を救った瞬間に映った。
若い兵を突き飛ばした光景。
それは勇者が彼に信頼を託し、命を賭けさせることで、信仰を試した儀式に見えた。
「尊い……あの若者は勇者に選ばれ、殉じたのだ。あれほどの栄誉があるか。」
ローランの声に、周囲の兵士や避難民たちが息を呑んだ。
「そ、そうだ……」
「勇者殿は、神の試練を下されたのだ……!」
「あの母子も、あの兵も、勇者殿に導かれて救われたのだ……!」
群衆の顔に涙が広がり、口々に祈りが捧げられる。
リュシアンは橋の上で膝をつき、荒く息を吐いていた。
涙と涎で顔を濡らし、足は震え、今にも倒れそうな姿。
だがローランの目には、それすらも「己の身を削り、民を守り抜いた勇者の証」として映った。
「見よ! 勇者殿は己を削ってなお立っておられる!
その御姿にこそ、我らは信を捧げねばならぬ!」
聖騎士団の兵たちは胸に手を当て、民もまた地に膝をついた。
「勇者殿……!」
「なんと尊き……!」
涙と嗚咽が広がり、街の空気そのものがひとつの信仰に変わっていく。
ローランは剣を掲げ、高らかに叫んだ。
「神は勇者を遣わされた! 我らを導くために!
血を分け与え、犠牲を背負い、なお立つその御姿こそ、奇跡に他ならぬ!」
歓声と祈りの波が夜を覆った。
人々は炎と血の匂いを忘れ、ただ勇者の背に希望を見出した。
リュシアンは呆然と顔を上げ、何が起きているのか理解できずにいた。
だがその混乱すら、ローランには「謙虚な勇者の沈黙」と映った。
「勇者殿……あなたは沈黙をもって示された。
言葉ではなく行いで、民を導くお方なのだと……!」
ローランの瞳は狂気に輝き、街の民はその声に酔いしれていた。
こうしてリュシアンの卑劣と低俗は完全に覆い隠され、
「神に選ばれし勇者」という伝説が、この街に刻まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます