第7話 7. 賢者の魔族
リュシアンの胸の奥で、焼けつくような痛みが広がった。
村が燃えた夜に刻まれた黒い紋様──烙印が、まるで内側から燃え上がるように脈打っている。
汗が噴き出し、喉がひゅっと鳴った。
「……やっと目が覚めたか。」
声がした。
低いが透き通るような響きだった。
リュシアンは悲鳴を上げ、煤まみれの体を引きずりながら後ずさった。
闇が揺れ、床の影が集まり、人の形を成す。
そこに現れたのはひとりの魔族だった。
若く、美しい男。
長い黒髪を背に流し、雪のように白い肌を持つ。
紅玉のような瞳が冷ややかに光り、額には小さな角が覗いている。
一目で魔族と分かる異形。だがその佇まいは理知に満ちていた。
「な、なんだ……誰だお前!」
リュシアンの声は裏返り、喉がひゅっと鳴る。
背中は壁にぶつかり、逃げ場はない。
男は腕を組み、冷ややかに告げた。
「俺はオズワルド。お前の烙印に封じられていた者だ。」
「……はあ!? 烙印に? そんなの聞いてねぇぞ!」
リュシアンは煤にまみれた顔をしかめ、震える声でわめいた。
オズワルドはため息をひとつ吐き、続けた。
「聞いてなくて当然だろうな。
お前は自分の命を繋ぐことしか考えていない。
他人がどうなろうと関係ない。
だからこそ俺は解き放たれた。
……本当に最低だ。」
リュシアンは息を呑み、慌てて両手を振った。
「ち、違う! 俺は勇者なんだよ!」
「勇者?」
オズワルドは首を傾げ、冷笑した。
「高僧から財布を盗み、女の屋敷から靴をくすねる勇者がいるならな。」
リュシアンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「なっ……な、なんでそれを!」
「全部見えていたからな。」
紅の瞳が冷たく光る。
「お前がどれほど卑劣で、臆病で、自分勝手か。
俺はお前の中でずっと見てきた。
仲間を盾にして“俺のために死ね”と叫んだこともな。」
リュシアンは背中を壁に押し付け、震えながら笑みを作った。
「いや、それは……あの時はしょうがなかったんだよ……」
「言い訳はいい。」
オズワルドは杖を突くように腕を組んだまま床を軽く蹴った。
冷たい声が広間に落ちる。
「お前がどれほど取り繕おうと、事実は変わらない。
お前は生き延びるためなら何でもする。
……だから俺は目を覚ました。」
リュシアンは歯を食いしばり、煤にまみれた顔でうめいた。
「……なんで俺なんだよ。よりによって、俺なんかに……」
オズワルドは目を細め、静かに告げた。
「それは簡単だ。
お前が誰よりも生にしがみついたからだ。
誰よりも卑劣で、誰よりも醜く、誰よりも必死だったから……烙印は俺を呼んだ。」
リュシアンは目を見開き、喉を鳴らした。
──最悪だ。
こんなやつが、俺の中から出てくるなんて。
恐怖、羞恥、そしてなによりも理不尽さに押し潰されそうになりながら、彼はただ呻いた。
「……クソ……最悪の相棒を引き当てちまった……」
オズワルドの唇がかすかに歪んだ。
「その台詞は、俺の方が言いたい。」
二人の間に重い沈黙が落ちた。
それは出会いであり、災厄の始まりでもあった。
最低な人間と、美しいが魔族丸出しの賢者。
本来なら交わることのない二つの存在が、烙印を通して結びついてしまった瞬間だった。
________________________________________
煤と血にまみれ、リュシアンは広間の片隅で膝を抱え込んでいた。
イリスの紅玉の瞳はまだ彼を射抜いている。
「真の王の器」と宣告された余韻が残るなか、兵士たちの視線は熱を帯び、侍女の囁きが広がっていた。
──まずい。ぜったいにまずい。
リュシアンは心の中で泣き叫んだ。
──このままじゃ、次は遊び半分で殺される。
胸の奥で烙印が脈打ち、耳元で声がした。
「……立て。今すぐ出るぞ。」
オズワルドだった。
「な、なに言ってんだよ! 見ろよ! みんな俺を王とか言ってんだぞ! ここにいれば飯も女も……」
「馬鹿。」
紅の瞳が冷ややかに光った。
「首輪をつけられてる犬が王と呼ばれても、次の瞬間に餌にされるだけだ。」
リュシアンは喉をひゅっと鳴らし、全身を震わせた。
──ぐ……正論じゃねえか……!
「出口は……」
「裏門だ。だが走るだけじゃ追いつかれる。」
オズワルドは短く答え、影を揺らした。
「俺が時間を稼ぐ。お前は足を動かせ。」
「俺は臆病なんだよ! 走れるわけ……」
「臆病だからこそ走れるだろうが。」
リュシアンは半泣きで頷き、石床を蹴った。
「ひぃっ……!」
兵士たちが振り向く。
「逃げるぞ!」という怒号。
リュシアンは転げるように裏門へ走った。
煤で滑り、膝を打ちつけ、情けない悲鳴を上げながら。
背後ではオズワルドが影を操り、広間を一瞬闇で覆った。
兵士たちが足を止め、混乱する。
「今だ、行け!」
リュシアンは必死に扉へ体当たりした。
軋む音と共に、古びた木の扉が弾け飛ぶ。
夜の風が頬を撫でる。
──助かった……!
そう思った瞬間、背後から矢が飛んだ。
リュシアンは悲鳴を上げ、地面に転がった。
矢は石畳を抉り、火花を散らす。
「見ろよ! ぜんぜん助かってねえじゃねえか!」
リュシアンは涙声で喚きながら、煤まみれの顔を歪めた。
オズワルドが扉を抜け、紅の瞳を細めた。
「だから言ったろ。ドア一枚蹴破ったくらいで逃げ切れるか。」
その言葉と同時に、地面から影が湧き上がった。
黒い波がリュシアンの足を絡め取り、全身を包み込む。
「ひっ……な、なにこれ!? やめろ! 飲み込まれる! 死ぬ!」
「黙れ。目を閉じろ。死にたくないなら。」
リュシアンは絶叫し、涙と涎を飛ばしながら両手で顔を覆った。
次の瞬間、視界が裏返り、胃がねじれるような感覚が襲った。
全身が押し潰される圧力。耳の奥で轟音が響き、意識が飛びそうになる。
そして──闇が晴れた。
気づけば、彼らは深い森の中に立っていた。
月光が木々の間から差し込み、夜鳥の声が響く。
背後にはもう追っ手の気配はなかった。
リュシアンは膝をつき、地面に手をついた。
「う、うえっ……! 胃が……胃が逆さになった……!」
情けない嗚咽が漏れ、煤と涙と涎で顔がぐしゃぐしゃになった。
オズワルドは肩をすくめ、冷ややかに言った。
「助かったんだから文句を言うな。命があるだけ儲けもんだ。」
「儲けもん!? 俺は死ぬかと思ったんだぞ! もう何度も死ぬかと思ってんだぞ!」
リュシアンは涙目で喚いた。
「女抱いて酒飲んで寝てたいだけなのに、なんでこんな目に……!」
オズワルドは紅の瞳を伏せ、淡々と突き放した。
「それができると思うなら、勝手に戻れ。
ただし次に目を開けた時には灰になってるだろうがな。」
リュシアンは口をぱくぱくさせ、草の上にへたり込んだ。
「……くそっ……なんで俺ばっかりこんな目に……」
オズワルドは冷笑を浮かべ、夜空を見上げた。
「お前が卑劣で臆病で、自分勝手だからだろ。」
リュシアンは涙を拭いながら、子どものように噛みついた。
「分かってんなら助けろよ! 俺はクズだ、だから助けられるべきなんだ!」
オズワルドは一瞬黙り、そして皮肉を込めて言った。
「……なるほどな。クズだから助けろ、か。
……お前、本当に救いようがないな。」
森に夜鳥の声が響き、月光が二人の影を長く伸ばしていた。
最低の人間と、理知の魔族。
その奇妙な組み合わせは、まだ始まったばかりだった。
________________________________________
森に漂う夜風は冷たく、葉のざわめきがかすかな囁きのように耳を撫でていた。
オズワルドは静かに立ち、横で煤まみれの人間が鼻をすすっているのを見下ろした。
あまりに見苦しい姿に、呆れるより先に、妙な諦念が胸に広がる。
──結局、こうなるのか。
かつて、自分は魔族の中でも異質な存在だった。
強者が弱者を蹂躙し、支配し、血の匂いを誇りとする同胞たちの中で、彼は群れに属することを拒んだ。
人間の世界に近づいても、そこには別の醜悪さしかなかった。
魔族と人間、どちらの中にも居場所はなく、彼は孤立を深めた。
やがて、同族から「裏切り者」と呼ばれ、封じられた。
正義のためでも叡智のためでもない。
ただ、どこにも属せぬ孤独ゆえに。
烙印という小さな牢に押し込められ、無限にも思える暗闇を漂うこととなった。
その長い時間の中で、ひとつの魂と結びついてしまった。
リュシアン。
最初は吐き気を催すほどだった。
欲を満たすために盗み、女を口説くために平気で嘘をつき、
危険が迫れば他人を突き飛ばして自分だけ逃げ延びようとする。
そこには勇気も覚悟もなく、ただ小賢しい算段と臆病な心臓だけがあった。
だが、奇妙なことに、その低俗さは澱のように濃く、重かった。
自分の魂が抱えていた孤独の暗闇と、不気味に呼応した。
「高貴さ」を捨て、「誇り」すらなく、「下劣」という一点に極まった人間。
誰からも認められず、誰にも寄りかかれない空虚な魂。
それが、自分の封印を解いた。
誇り高い者や清らかな者ではなく、
卑しい者、自分勝手で誰にも必要とされない者が──。
リュシアンと初めて目を合わせた時、オズワルドは嫌悪と同時に理解した。
「こいつは俺と同じだ。」
居場所をなくしたという一点で。
違うのは、己は孤独を選んだが、リュシアンはただ転げ落ちただけということ。
今、森の中で喚いている。
「女が欲しい」「酒が飲みたい」「なんで俺ばっかり」
情けない声を繰り返し、地面に転がりながら涙と涎を垂らす。
人間としての体裁すらかなぐり捨て、ただ欲望と不満だけを吐き出す姿。
見苦しい。だが、それゆえに偽りがない。
生きる意味も正義も理想もない。
そこにはただ、魂の下劣さだけが剥き出しになっている。
オズワルドは冷ややかに見下ろしながら、皮肉に思う。
──俺がこいつに引き寄せられたのは必然かもしれない。
高潔さも誇りも拒んだ俺が、最後に辿り着いたのは、最も低俗な魂だった。
そう考えると、苛立ちよりも妙な静けさが胸に広がった。
嫌悪しても、切り捨てても、結局はこの人間と共にいる。
「選んだ」のではない。ただ、似た者同士が寄り合っただけ。
オズワルドは月を仰ぎ、目を細めた。
「……結局、鏡を見せられているのかもしれんな。」
隣でリュシアンはまだ泣き言を漏らしている。
それを聞き流しながら、オズワルドは自分の運命を静かに受け入れていた。
この魂の低俗さと、しばらく付き合うことになるだろう、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます