第2話 2. グレイヴ村襲撃

夕暮れ時のグレイヴ村は、いつもよりも静かだった。

普段なら鍛冶屋の槌音が遠くで響き、子どもたちの笑い声が石畳に反射して賑やかさを演出する。

だが、この日は違った。村人たちはなぜか声を潜め、家々の窓は早々に閉ざされ、戸口には重い横木がかけられていた。

リュシアンの故郷、グレイヴ村は戦場跡に築かれた小さな集落だ。

百年前、大戦で無数の兵士と魔族が死に絶えた土地に、人間たちは恐る恐る畑を開き、家を建てた。

土はよく肥えているが、その肥えは屍と血の上に成り立っている。

だから村人たちは毎夜、祈る。

「どうか、今宵こそ死者の影が眠りにつきますように」

だが祈りを捧げながらも、彼らは心のどこかで知っていた。この地は決して静まらない、と。

その夜、村の空気を変えたのは、風だった。

普段は森から柔らかな風が吹き抜けてくるのに、突然、逆方向から熱を帯びた風が流れ込んできた。

獣の血の匂いと、焦げた肉の臭気が混じり合っている。

羊を飼っていた老女が真っ先に気づき、恐怖に顔をこわばらせた。

「……奴らが来る。」

その声は小さく、だが村中に響いた。

人々は作業を投げ出し、子どもを抱きかかえ、荷車を押して逃げ道を探す。

だが村には逃げ場などなかった。四方を森に囲まれ、一本道の街道は、まるで獲物を誘い込む檻のように閉ざされている。

やがて森の奥から、低い咆哮が響いた。

地を揺らすような足音が重なり、鳥たちが一斉に飛び立つ。

犬が狂ったように吠え、牛が柵を破って暴れ出した。

子どもたちの泣き声があちこちで上がり、母親たちは必死に口を押さえる。

「火を消せ!明かりを見られるな!」

村長が叫んだが、その声も震えていた。

やがて、森の闇の中に赤い点がいくつも浮かび上がった。

それはたいまつではなかった。魔族の目が放つ妖しい光だ。

十、二十……数え切れぬほどの光がゆらめき、獲物を見つけた肉食獣のように村を睨んでいる。

そして、森から姿を現した。

角を持つ巨躯、鋭い爪を持つ獣人、背に翼を広げた女──さまざまな姿の魔族たちが、群れとなって現れた。

彼らは整列もせず、戦術もなく、ただ本能のままに歩を進めていた。

その歩みの一つ一つが村の地面を震わせ、弱き人間たちの心臓を凍りつかせた。

最初に悲鳴を上げたのは、村の外れで鶏を抱えていた少年だった。

魔族の一人が伸ばした腕に、鶏もろとも掴み上げられ、そのまま口に放り込まれる。

骨が砕ける音と、少年の悲鳴が重なった。

次の瞬間、少年の体もまた振り下ろされた爪に裂かれ、地面に叩きつけられた。

血が石畳を染め、恐怖は一気に広がった。

村の男たちは必死に武器を取る。

だがそれは錆びた鍬や斧、せいぜい狩り用の槍にすぎない。

彼らの手は震え、足はすくんでいる。

魔族はそれを嗤った。

「これが人間の戦士か?」「畑を耕す腕で俺たちに挑むのか?」

その声に応じて、群れは一斉に突撃した。

家々の扉が破られ、戸口で悲鳴が上がる。

赤ん坊を抱いた母親が床に引きずり出され、目の前で赤ん坊を奪われた。

魔族の一人がその小さな体を噛み砕き、骨と肉片が地面に飛び散る。

母親の絶叫は夜空を裂き、だが次の瞬間、彼女の喉もまた切り裂かれて沈黙した。

村は、たちまち炎に包まれた。

魔族の中には火を操る者もいた。

奴らが放った炎は草葺きの屋根を容易く燃やし、黒煙が立ち上る。

火に追われ、戸口から逃げ出した村人は待ち構えていた爪に引き裂かれた。

「助けてくれ!」

「神よ、我らをお救いください!」

だがその叫びは誰の耳にも届かない。

教会は遠く、神は沈黙したままだった。

あるいは、最初からそんなものは存在しなかったのかもしれない。

炎と血と悲鳴が渦巻く中、村は地獄へと変わっていった。

絶望は空気に溶け込み、逃げ場はどこにもなかった。

________________________________________

村の中央広場に人々が押し寄せた。

炎に追われ、家を失った村人たちは互いを押しのけるようにして集まり、必死に息を整える。

しかし広場もまた安全ではなかった。そこは、魔族が人間を追い立てるための罠となったのだ。

最初に姿を現したのは、巨躯の獣人だった。

全身を覆う黒い毛皮が血で濡れ、爪先からは肉片が垂れていた。

その背後には翼を持つ女の魔族が舞い降り、鋭い尾を地面に叩きつける。

村人たちは恐怖で後ずさったが、すでに背後の道は炎に塞がれていた。

「神よ、どうか……」

老女が膝をつき、震える声で祈りを捧げた。

だが魔族はその頭を掴み、ためらいもなく地面に叩きつけた。

骨が砕け、血と脳漿が石畳を濡らす。

祈りの言葉はその一瞬で消え去り、残ったのは呻き声だけだった。

村の男たちは必死に武器を振るった。

鍬を振り下ろした若者が一人、魔族の腕に食らいついた。

鋭い刃が肉を裂き、血が飛び散る。

「やったぞ!」と叫ぶ声が広場に響いた。

だが次の瞬間、若者の頭は爪で掴まれ、無造作に引き裂かれた。

その体は地面に投げ捨てられ、誇らしいはずの勝利の声は絶望の悲鳴に変わった。

魔族の群れは獲物を弄ぶように村人を狩った。

ある者は喉を裂かれ、ある者は足を切り落とされて這いずり回る。

その姿を見て、子どもの泣き声が夜空に響く。

母親は必死に抱き締めるが、翼を持つ魔族が空から舞い降り、その腕ごと子を奪った。

母親の絶叫は炎の中に吸い込まれ、子どもの体は容赦なく地面に叩きつけられた。

「逃げろ!」

「どこへだ、道はない!」

広場は混乱に包まれ、村人同士がぶつかり合い、転んだ者は踏みつけられた。

助ける余裕は誰にもなく、互いを押しのけて必死に生き延びようとする。

だがその姿こそ、魔族の望むものだった。

彼らは人間が互いに潰し合う様子を見て、嗤い、興奮した。

「いいぞ、もっと争え! もっと鳴け!」

その声に応じるように、群れはさらに暴れ回った。

火の粉が舞い、屋根が崩れ落ち、逃げ場はますます狭まる。

人々の叫びと泣き声は渦となり、夜の森に反響した。

一人の老人が震える手で十字の印を切り、天を仰いだ。

「勇者よ……どうか、勇者よ……」

だが返ってきたのは、魔族の嗤い声だった。

「勇者? ここにいるのは獲物だけだ!」

その瞬間、老人の胸を爪が貫き、祈りは鮮血の泡となって途絶えた。

炎はますます勢いを増し、村の半分が燃え落ちていた。

煙にむせる中、必死に井戸から水を汲もうとする者もいた。

だが魔族はその桶を叩き壊し、水を血に混ぜて泥とした。

「飲めよ、これがお前たちの救いだ!」

笑い声が夜に響き渡る。

やがて村人の抵抗は途切れがちになった。

戦う者は殺され、逃げる者も追い詰められる。

泣き叫ぶ子を抱いて逃げた母親は、足をすくわれ、炎の中に倒れ込んだ。

助けを求める手は誰にも掴まれず、炎と血に呑まれて消えた。

村は完全に地獄だった。

祈りは無意味、抵抗は無力、逃亡は不可能。

広場に立ち尽くす人々の目に映るのは、燃え盛る家々と、嗤いながら迫り来る魔族たちの影。

その光景は、絶望そのものだった。

________________________________________

炎は村全体を包み込み、夜空に赤黒い煙が立ち上っていた。

木造の屋根が崩れ落ちるたびに火の粉が舞い上がり、泣き叫ぶ声と混ざって夜の風に散っていく。

村はすでに壊滅的だった。抵抗できる者は倒れ、逃げ場を探す者は追い詰められ、残ったのは恐怖に震えるだけの人々だった。

村の中央広場では、捕らえられた村人たちが次々と地面に引きずり出されていた。

魔族たちは整列することなく、獲物を好き勝手に弄んでいる。

ある者は少年の腕をねじ切り、その悲鳴を笑いながら肴にした。

ある者は老婆を片手で持ち上げ、まだ動いているままの体を地面に叩きつけた。

骨が砕ける音と共に群衆のすすり泣きが広がる。

「やめてくれ……! お願いだ、娘だけは……!」

一人の男が地に額を擦りつけて叫んだ。

だがその声に返ってきたのは、翼ある魔族の冷笑だった。

「ならばお前が代わりに喰われろ。」

次の瞬間、男の喉に爪が突き立ち、血が噴き出した。娘はその場で絶叫し、父の体に縋った。

だが魔族の爪は少女の髪を掴み、炎の中へと引きずり込んだ。

逃げ惑う人々は次第に互いを押しのけ、転んだ者を助ける余裕など誰一人持たなかった。

誰かが倒れると、その体は次の瞬間には踏みつけられ、炎に呑まれ、あるいは魔族の爪に引き裂かれる。

「助けて!」「誰か!」

叫びは絶え間なく響いたが、答える者はいない。

生き延びるために必死で、他人に手を差し伸べる余力はどこにもなかった。

村の教会も例外ではなかった。

信仰を頼りに逃げ込んだ数十人が祭壇の前で祈りを捧げていたが、扉はあっけなく破られた。

中へ雪崩れ込んだ魔族たちは、祈る者たちを片端から爪で裂き、聖像を倒し、祭壇を血で染めた。

「神はどこだ? 助けに来い!」

嘲笑と共に、聖職者の首が槍に突き刺され、聖堂の中央に掲げられた。

祈りは絶望に変わり、信仰は燃え上がる炎の中で灰になった。

村の外れからは、新たな悲鳴が響いた。

畑に隠れていた人々が次々に見つかり、火をつけられた。

逃げ出した老人の背に矢が突き立ち、子どもを抱いた母親は獣人の巨体に踏み潰された。

炎に包まれた体は赤々と燃え、やがて人の形を失っていった。

村長の家の前では、最後の抵抗が試みられていた。

数人の若者が必死に斧や槍を振るい、魔族の進撃を食い止めようとしていた。

だが力の差は歴然だった。

一人は斧を振り下ろした瞬間に胸を貫かれ、一人は槍ごと身体を叩き折られた。

その度に周囲の者たちが悲鳴を上げ、逃げる力さえ奪われていく。

「なぜこんなことに……」

村長は膝をつき、震える声で呟いた。

その背中に、冷たい刃が突き立った。

村を守ろうとした男の命も、あっけなく奪われた。

やがて、抵抗する者はいなくなった。

広場には炎と煙と、無数の屍が転がるだけだった。

魔族の群れは勝利を祝い、嗤い声をあげ、残った人々を縛り上げて輪にした。

「生き残ったのは……少ないな。」

角を持つ魔族の首領格が言った。

「だが、これで宴ができる。」

その言葉に、群れの笑いが夜空に轟いた。

生き残った村人たちの顔は、涙とすすで黒く濡れていた。

恐怖と絶望に支配され、誰も声を上げることができなかった。

そのとき、村のあちこちで再び炎が爆ぜ、屋根が崩れ落ちる音が重なった。

グレイヴ村は完全に滅びようとしていた。

祈りも、抵抗も、逃亡も、すべて意味をなさず、残ったのは絶望だけだった。

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