血塗られた契約書 〜卑怯者なのに勇者と勘違いされ、百年後には神話となる〜
@kossori_013
第1話 紅の夜 1. 腐敗の世界
大陸アルシアの空は青く澄んでいた。
けれど、その下に広がる人間の街々は、澄みきった空と釣り合わぬほど淀みきっていた。
聖教会の鐘は毎朝、街に響き渡る。神を讃える聖歌は子どもから老人までに唱和され、石畳の広場に膝をつく者は数百人に及んだ。だが、その祈りが終わると同時に、司祭たちは表情を一変させる。
「献金が足りぬ家は──神罰だな。」
小さな木札を取り出し、家々の扉に赤い印をつける。印をつけられた家の者たちは、翌日には教会の倉庫でただ働きを命じられるか、娘や息子を“奉納”として連れ去られるのが常だった。奉納と呼ばれてはいるが、その行き先が聖職者の私室であることを知らぬ者はいない。
表向きは「神に仕える名誉」。実際は、教会幹部たちの欲望を満たすための人身供犠である。
貴族たちもまた、同じく腐敗にまみれていた。豪奢な屋敷に飾られたシャンデリアや金の食器は、すべて農民の汗と血で得たものだ。領主の娘の婚礼の際には、税を払えぬ百姓の首を槍にかけて通りを飾るという風習すら残っていた。
「人は神の下に平等である。」
誰もが口にするその言葉は、貴族と教会にとっての都合のよい飾り文句に過ぎなかった。
農民たちはひと月に稼ぐよりも多くの税を取り立てられ、飢えをしのぐために畑の作物を自ら食べれば盗みの罪で鞭打たれた。だが、同じ作物を貴族が「献上」として奪うとき、それは「神聖なる義務」と呼ばれる。
街の路地裏では、日雇い労働者が子どもを売り飛ばす姿も珍しくはなかった。買うのは決まって、教会や貴族の関係者。生き延びるために仕方のないことだと誰もが言い聞かせるが、売られた子が戻ってきた例は一度もない。
こうした腐敗を糾弾する者がいなかったわけではない。かつて一人の若き学者が、教会の不正を記録し、広場で人々に訴えかけたことがある。だが、彼はその日の夕暮れには「異端」として火刑に処された。人々は涙を流しながら祈りを捧げ、燃え上がる炎の中で「神は正しい」と口を揃えた。
誰もが知っていたのだ。この大陸で「正しい」とされるものは、すべて力ある者にとっての正義にすぎないと。
街を歩く旅商人たちもまた、その腐臭に慣れてしまっていた。銀貨を数枚握らせれば関所は素通りでき、金貨を積めば兵士の隊長すら「護衛」として同行してくれる。道徳も掟も、すべて金と権力に従属していた。
それでも人々は日々を生きる。生き延びる以外に選択肢はないからだ。
娘を奉納に差し出す母親は、心を殺して「これは神への愛だ」と呟いた。餓死寸前の子どもに腐ったパンを押し付ける父親は、「明日こそ畑が実る」と言い聞かせた。
信仰とは心の救いではなく、己を誤魔化すための口実だった。
その矛盾を最も端的に示すのが、勇者信仰である。
「いつか勇者が現れ、魔族を滅ぼし、世界に正義をもたらす。」
そう言いながら、人々は勇者の影に隠れて互いを踏みにじる。
勇者が現れるまで耐えよ、と教会は説く。だが、その勇者の名を冠する者が現れるたび、最前線に駆り出され、魔族の大軍に呑まれていった。
勇者とは、信仰と支配のための消耗品に過ぎなかった。
だからこそ、人々は心のどこかで知っていたのだ。
この大陸に正義など存在しない。
ただ強き者の都合と、弱き者の犠牲だけが延々と積み重ねられていく──。
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魔族の領は、血の匂いに満ちていた。
大通りの石畳には乾ききらない赤黒い染みが幾重にも重なり、風が吹けば鉄臭い粉末が舞い上がる。
街の広場では「試し狩り」が日常だ。
ある日は人間の捕虜を十人まとめて裸にして放ち、鎖につながれた魔獣を解き放つ。
人間たちは必死に逃げ惑うが、観衆の魔族は笑い転げながら石や刃物を投げつけて進路を塞ぐ。
捕まった者は一口ずつ食われ、断末魔が続くほど観客は歓声を上げた。
「よく鳴くな!」「もっと引き延ばせ!」
嬌声に混じって子どもたちも笑う。血飛沫を浴びた少年少女は、それを顔に塗りつけ「狩人の印」と誇らしげに叫んだ。
またある夜には、翼を持つ魔族の少年が「母に逆らった」として広場に引きずり出された。
母親自らが剣を振り下ろし、息子の首を石床に転がす。観衆は「よくやった!」と拍手喝采。
その母の表情は涙に濡れていたが、誰も同情はしなかった。
「甘さは一族を腐らせる」と長老が言い放ち、首は広場の槍に刺された。
市場の片隅では、捕虜の少女が鎖でつながれ、皮膚の一部を剥がされた状態で売られていた。
「肉の質を確かめろ」
買い手がそう言えば、店主は刃物で少女の腕を切り裂き、血の色を見せる。
新鮮さを示すための“見本”だった。泣き叫ぶ声は誰の耳にも届かない。
買い手は笑って言う。
「いい声だ。肉も柔らかそうだ。晩餐は楽しみだな。」
魔族の子どもたちも、幼いうちからこの惨劇に慣らされる。
学校代わりの訓練場では、弱い子を集団で狩るのが課題だった。
牙を剥けなかった子はその場で食われる。
教師は何の躊躇もなく言い放つ。
「弱者に未来はない。食われて土になるのが役目だ。」
魔族は隠さない。
人間が「正義」と呼ぶ装飾で血を覆い隠すのに対し、彼らは誇らしげに血を浴びて笑う。
だが、それが正直であるがゆえに、なおさら地獄だった。
弱者には一欠片の救いもなく、ただ「餌」として咀嚼されるしかなかったのだ。
そして人間たちは、この現実を知りながら「魔族は残虐だ、だから滅ぼさねば」と言い、
魔族は「人間は弱い、だから喰らう」と叫び続けた。
互いを憎むのではなく、互いを餌としてしか見ていない。
その果てに待つのは、屍を積み上げた灰色の大地。
その灰の中から、臆病で卑怯で、それでも死にたくなくてもがく一人の男──リュシアン──が立ち上がることになるのだった。
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人間の都は白亜の大聖堂に囲まれ、魔族の都は黒曜石の闘技場に囲まれていた。
光と闇──だが、その中で行われていることに違いはほとんどなかった。
大聖堂では、罪人が祭壇に縛り付けられ、聖職者の手で喉を裂かれる。
流れ出た血は聖杯に注がれ、「神聖なる供物」として信徒に掲げられる。
人々は涙ながらに「神は慈悲深い」と唱えるが、罪人の苦悶の叫びは誰の心も動かさない。
慈悲とは、殺しを美しい言葉で覆い隠す布にすぎなかった。
一方、闘技場では捕虜が獣に放り込まれる。
牙と爪に引き裂かれ、臓物が飛び散る様を魔族たちは歓声とともに眺めた。
「弱い者は餌になる」
それは誇り高き掟であり、誰もその光景を覆い隠そうとしなかった。
正直さゆえに余計に残酷で、救いのかけらもなかった。
人間は「神罰」の名で殺しを正当化し、魔族は「掟」の名で殺しを当然とした。
違うのは仮面をかぶるかどうかだけ。
血はどちらでも流れ、悲鳴はどちらでも響き渡った。
農民の母親が娘を奉納に差し出し、「これは神への奉仕だ」と呟く。
魔族の母親が牙を剥けぬ子を差し出し、「これは一族の誇りだ」と呟く。
二つの言葉は鏡のように響き合い、同じ苦しみを隠すための口実に過ぎなかった。
戦場で人間は「神の御名において」と叫び、魔族は「血と力のために」と咆哮する。
だが、倒れた死体の山からは同じ臭いの血が流れ、同じ形の手足が転がった。
燃え上がる炎の中では、人と魔を区別するものなど、もはや何もなかった。
この世界には、正義も慈悲も存在しなかった。
あるのはただ、言葉をまとった殺しと、言葉すら必要としない殺し。
鏡のように反射し合う二つの地獄が、大陸全体を覆い尽くしていた。
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