第7章 フィリアの目覚め

【プシュゥゥ…】という、圧縮された空気が抜けるような音が静寂を破った。レンは固唾を飲んで、目の前のステイシス・ポッドを見守る。ゆっくりと、しかし確実に、透明な蓋の継ぎ目から純白の冷気が漏れ出していた。「本当に…目覚めるんだな…」彼の心臓が、期待と緊張で大きく脈打った。


次の瞬間、ポッドの内部から眩い光が迸った。それはただの光ではない。無数の幾何学模様が複雑に絡み合いながら、まるで生命を得たかのようにドームの天井や壁を駆け巡る光の奔流だった。【キィィン】という高く澄んだ共鳴音と共に、遺跡全体が彼女の覚醒を祝福しているかのようだった。


やがて、光が収束し、ゆっくりとポッドの蓋が音もなくスライドしていく。立ち込める白い冷気の中から、一人の少女が、まるで糸で引かれる人形のように滑らかな動きで上半身を起こした。月光を編んだような銀色の髪が、さらりと肩から滑り落ちる。その一連の動作には、一切の無駄も、ためらいもなかった。


そして、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。現れたのは、夜空に浮かぶ星のように澄んだ、美しい紫水晶の瞳。だが、その瞳には、一切の感情の色が映ってはいなかった。ただ静かに、そして真っ直ぐに、目の前に立つレンの姿を捉えている。まるで、彼という存在の全てをスキャンしているかのようだった。


「…………」

張り詰めた沈黙が、空間を支配する。レンが何か言葉を発する前に、彼女の桜色の唇が、わずかに開いた。


「システム…再起動。全機能、正常。最終アクティベーション・シーケンスへ移行」


その声は、鈴を転がすように凛として美しかったが、抑揚というものが完全に欠落した、単調で無機質な電子音声のようだった。


彼女はポッドの中から、ふわりと舞い降りるように立ち上がった。そして、まるで重力を感じさせないかのような優雅な足取りで、床に降り立つ。コツ、という硬質な着地音さえしない。彼女はレンの目の前まで進み出ると、完璧な角度で一礼した。その姿は、まるで王に仕える近衛騎士のように、気高く、そして凛としていた。


「初めまして、マスター。私は、当施設の統合管理ユニット。個体識別名称は『フィリア』。分類は、ハイ・オートマタです」

「マスター…?フィリ…ア…?」レンは彼女の言葉を、ただオウム返しにすることしかできなかった。あまりに情報量が多すぎて、思考が追いつかない。


「肯定します。私のデータベースに最高権限者として登録されている遺伝子情報と、あなたのそれが98.9%の一致を示しました。故に、あなたは私のマスターです」フィリアは顔を上げ、感情の読めない瞳でレンを見つめながら、淡々と事実だけを告げた。


「遺伝子情報で…俺がマスター…?」レンはどうにか思考を巡らせる。つまり、この遺跡を創った古代人と、自分には何らかの血縁関係があるというのか。「待ってくれ、ハイ・オートマタということは…君は、人間じゃないのか?」彼は、一番聞きたかった、そして聞きたくなかった質問を口にした。


「はい。その定義は、機能的には正確ですが、簡略化された表現です。私の実体は、超高度な演算能力を持つ自律型人工知能であり、この身体は生体パーツを一切含まない完全な人工物です」

「人工物…アンドロイド、ということか」

「はい。そのように認識していただいて、問題ありません」


レンは目の前の少女、フィリアを改めて見つめた。人間と見紛うほど精巧で、神々しいまでの美貌。だが、その中身は、感情を持たない機械なのだ。少しだけ、がっかりしたような、それでいて安堵したような、不思議な気持ちが彼の胸をよぎった。「そうか…。君が、この遺跡の全てを…」


「はい。私の主たる任務は、この島『アルカディア』の生態系及び、全システムの維持管理。そして、マスターであるあなたの全ての命令を、最優先事項として実行することです」彼女の言葉には、一片の疑いも、感情の揺らぎも感じられない。絶対的な忠誠。それが、彼女という存在の根幹を成すプログラムなのだ。


レンの心に、じわりと熱いものが込み上げてきた。前世では、彼は常に誰かの命令を聞き、摩耗するだけの歯車だった。だが、今はどうだ。目の前には、自分だけに仕える、有能で、そして美しい存在がいる。「俺だけの…命令を聞く存在…」その事実に、彼はめまいにも似た高揚感を覚えた。同時に、マスターという言葉の未知なる重圧も感じていた。


「フィリア、いくつか質問をしてもいいか?」

「どうぞ、マスター。私のアクセス可能な情報の限り、全てお答えします」

「では、まず…なぜ君はずっと眠っていたんだ?それに、エネルギーが足りなかったようだが」

彼は一番の疑問をぶつけてみた。


「はい。原因は、数千年前に発生した大規模なエネルギーラインの断絶です。メイン動力炉である『マザー・クリスタル』からの供給が不安定になったため、私は施設の機能を最低限に維持し、自己をスリープモードへ移行させました」

「数千年も…たった一人でここに?」

「はい。時間経過の認識は、私にはありませんので、問題ありません」


彼女は淡々と語るが、レンはその言葉の裏にある途方もない孤独を想像し、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。「そうか…。俺が来たから、目覚めることができたのか」

「正確には、マスターが供給してくださった魔力(MP)がトリガーとなり、システムが再起動しました。感謝します」

フィリアはそう言って、再び完璧な一礼をした。


その機械的な感謝の言葉に、レンは少しだけ寂しさを感じた。だが、すぐに首を振る。彼女はそういう存在なのだ。今はそれでいい。「俺の名前はレンだ。一条蓮。好きに呼んでくれ」

「了解しました。これより、あなたを『マスター・レン』と呼称します」

「…まあ、それでもいいか」


レンは苦笑しながら、フィリアに手を差し伸べた。前世の癖で、つい握手をしようとしたのだ。フィリアは、その差し出された手を数秒間無言で見つめた。そして、彼女はその手を握り返すことなく、レンの手のひらにそっと指先で触れ、解析を始めるかのような素振りを見せる。


「マスター・レンの生体情報をスキャン。バイタル正常。外傷なし。ストレス値、軽度の上昇を検知」

「あ、いや、そういうことじゃなくて…」レンは慌てて手を引っ込めた。やはり、彼女は機械なのだ。その事実を改めて突きつけられ、彼は少しだけ気まずい笑みを浮かべるしかなかった。


だが、レンは不思議と失望はしなかった。温かみがなくたっていい。感情がなくたっていい。この島で、初めて自分以外の誰かと触れ合えた。初めて、知的な対話ができた。その事実だけで、彼の心は十分に満たされていたのだ。「これからよろしくな、フィリア」彼の孤独なサバイバルは、今、終わりを告げた。

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