第58話 白い箱の夢 ― ノアの囁き

白い箱。境界も影もない。

ただ「閉じ込められている」という圧迫だけが、

じわりと身体を侵食していく。


「……ミナ」

父の声が遠くから漏れてきた。優しいはずの声は震え、壁を歪ませながら響く。


「そこにいてくれ……お願いだ……」

「外は危険なんだ……君を失うくらいなら、閉じ込めてでも……守りたい……!」


愛の形をしているのに、それは鋼の鎖だった。

胸の奥で絡みつき、呼吸を奪っていく。

冷たい壁に触れると、自分の身体が父の恐怖そのものに縫い付けられているようだった。


「どうして……?」

ミナの唇が震える。

「どうして、守ることが……閉じ込めることになるの……?」


その瞬間——。

白い壁に、ピシリと音を立てて亀裂が走る。

光が差し込み、突風のような風が流れ込んだ。


懐かしい旋律の断片。

久遠が教えてくれたあの歌が、風に混じって耳を叩いた。


「ミナ、ノアポイントを歌って」


風の囁きに合わせて亀裂は広がり、やがて扉が浮かび上がる。その先には、白く燃えるような海。眩しい波が轟音を立てて寄せ返す。


「……ここは……」

浜辺に二つの影が立っていた。


ハトルと久遠。懐かしい笑みをたたえ、まるでずっと待っていたかのように。伸ばした手は空を切る。二人はただ頷き、波間へと歩き出す。

「ここは根の国」


「待って……!」

ミナの声はかき消され、風が冷たく囁いた。

「彼らは先に行った。ミナ、君たちが続く時を待っている」


振り返ると、そこにノア。

少女の姿をした光の影が、冷ややかな眼差しで立っていた。


「扉の先。あなたが歌えば開く道。けれど今はまだ、夢の中でしか辿れない」


ハトルと久遠の影は波に呑まれ、消えていく。

ミナは叫んだ。

「待って! 私も——!」


——光が炸裂し、世界が砕け散る。

夢は、そこで途切れた。



横浜闇市 ロンの宝石屋 早朝


ミナは荒い息を吐き、跳ね起きた。

喉は渇き、胸は痛いほど波打っている。夢で感じた冷たい鎖の感覚がまだ手首に残っていた。


耳を澄ますと、闇市は静まり返っていた。

だがその静けささえ、何かが迫っている前触れのように思えた。


匿われたブルーホライゾンの戦士たち——祐也、アオイ、タケル。

祐也を助けるために集ったジン、ミナ、千斗、マナ。

倒壊で家を失った人々は炊き出しの列に身を寄せ、夢の底に沈んでいる。


水を求め、ミナは階段を降りた。

会議室の扉の向こうに、ロンが静かに座っていた——まるで彼女の目覚めを待っていたかのように。


「ロン、夢にノアが出てきた。隼人さんのノートにあった少女よ。あの子、パパやハトルさんの研究と関係あるの?」


ロンはゆっくりと頷き、低く呟いた。

「ああ……ようやく“ハクト”に会ったか。ノアは特定の脳波にアクセスする。彼女は探している」


「赤梅の最初の脱獄者“ハクト”…まさか、ハトルおじさん?」

ミナの声はかすれていた。


ロンの瞳が一瞬だけ揺れる。

「……そうだ。ハトルはブレスレットを作り、わざと政府に捕まった。ノアシステムに“鍵”をかけるためにな。久遠と共に命を賭けて」


ロンは拳を膝に置き、深く息を吐いた。

「脱獄を手引きしたのは——私と闇市の仲間、上条己龍だ。その代償で、俺の闇市は潰された。仲間も……多くを失った」


ミナは息を呑む。ロンの声には悔恨と、それでも揺るがぬ決意が混じっていた。


「政府は今、ミトルにノアの鍵を探させている。もし開かれれば、ノアは書き換えられ、奴らの操る道具になる。だから——」

ロンはミナをまっすぐ見据えた。

「奴らが開ける前に、“ノアポイント”を見つけ出してほしい。君にしかできない」


そのとき、背後から声がした。

「俺も……同じ夢を見た」


振り向くと、ジンが立っていた。

「白い箱の中で、ノアに言われたんだ。『ミナを守れ』って。ミナは鍵だ。絶対に政府に渡しちゃいけない」


ロンは深く息を吐きうなずいた。

「やはりな。二人が同じ夢を見た。それが答えだ。ノアは君たちに託している」


ミナはジンを見つめる。その瞳に恐怖と迷いが揺れていた。だが、次の瞬間、ジンは一歩前に出て、静寂を切り裂いた。


「大丈夫だ」


短い言葉。だが声は強く、揺るがなかった。


「俺が護る。何があっても」


焚き火の残り火が彼の横顔を赤く照らす。

「まだ若い。無鉄砲だ」ロンがつぶやく。

だが、その言葉には誰も割り込めない力があった。


「政府だろうと兵士だろうと、どんな壁でも——俺が立ちはだかる。だからミナ、怖がるな。ノアが君を選んだなら俺はその盾になる」


ミナの胸に言葉が鋭く突き刺さる。

恐怖と共に、不思議な温かさが灯っていた。


——その直後、紫音の声が食堂に響いた。

「みんな! ニュースを見て!」


大画面に防衛省の速報が流れる。


『霜峰ミナ(17)誘拐の可能性——テロリスト“ハクト”が犯行を仄めかす脅迫文を送付。関係捜査中。』


画面には、白衣のまま会見に臨む霜峰巳流の姿。

「娘はただの子どもです。どうか返していただきたい」

冷静な声は硬質で、観る者の胸を強く打った。


「パパがテレビに? 私が誘拐されたなんて思ってる訳ない!」

ミナは叫んだ。


ロンの表情が険しくなる。

巳流みとるは、政府に脅されている。ミナの命は、ずっと人質にされているんだ」

「パパは……私の命を守るために、政府に従っていた…」


「そうだ。巳流にとってはミナが命だ。ハトルに鍵をかけろと言ったのも彼だ。とにかく……政府が本格的に炙り出しにかかってきた。ガサ(強制捜査)が入るのは時間の問題だ」


マーさん(肉まん屋)が駆け込んでくる。

「ニュースで、お前らを誘拐犯扱いしてるぞ!」

「俺らは逃げてきただけだ!」祐也が叫ぶ。


不安と怒りが闇市に広がる。

だが——ジンが再び一歩前に出た。焚き火の残り火が彼の横顔を照らす。


「みんな、聞いてくれ! 信じてほしい。ミナは俺たちを救う鍵だ! 政府はフェイクで彼女を“誘拐された”ことにして、利用しようとしてる!」


ミナも声を張った。

「私は誘拐されてない! ノアシステムの鍵は——私!」


人々がざわめく。

マナが叫ぶ。

「私の兄も、同級生のレンもサイバー兵士にされた。武器として“使い捨て”にされたのよ!」


紫音も前に出た。

「だから、ここで踏ん張るしかない! 闇市を潰させちゃいけない!」


その言葉に、しぼみかけた人々の瞳に再び火が宿る。老いた者も子どもも、戦う決意を帯びて立ち上がった。


「この場所を……守るんだ!」


闇市の空気は一変した。恐怖が希望に変わる瞬間。

その中心に立っていたのは、ジンだった。

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