第50話 生ける兵器
ブラジル、アマゾンの熱帯雨林。
低空でホバリングする輸送機の後部ハッチが開くと、壁のような熱気と湿気が、機内に容赦なく流れ込んできた。
眼下に広がるのは、どこまでも続く緑の樹海。
チームは一本ずつロープを使って、その深い緑の中へと降下していった。
初めてジャングルの大地に足を踏み入れた小鳥遊ツムギは、息を呑んだ。
そこは、太陽の光さえほとんど届かないほど巨大な樹木が生い茂る、緑色の薄闇の世界だった。
ジーン、ジーン、と鼓膜が痺れるほどの、おびただしい数の虫の鳴き声。時折、聞いたこともない鳥や獣の甲高い叫び声が響き渡る。むせ返るような湿気が肌にまとわりつき、呼吸をするだけで体力を奪われていくようだった。
壁も天井も、全てが意志を持っているかのように、あらゆる方向に伸びる巨大な植物群。
今までの、制御された都市や、無機質な基地とは全く違う。ここは、人間のルールが一切通用しない、制御不能な自然の迷宮だった。
その事実に、チームは圧倒される。
「……ダメだ」
周囲の警戒にあたっていた黒羽シズクが、忌々しげに呟いた。
彼女が展開した最新鋭のセンサー類も、このあまりにも過剰な生命反応と、高い湿度による電波障害のせいで、その精度が著しく低下していた。
ハイテクな神の目は、この緑の迷宮の中では、ほとんどその機能を失っていたのだ。
ここから先は、自分たちの五感だけが頼りだった。
チームはフォーメーションを組み直し、シズクと剣崎リンを先頭に、より警戒を深めながらジャングルの奥深くへと進軍していく。
だが進めば進むほど、まるでジャングルそのものに値踏みされているかのような、不気味な視線を感じるようになっていた。
木々のざわめき、獣たちの鳴き声。その全てが自分たちを監視しているように思えてならない。しかしシズクのセンサーには、依然として明確な敵意は映し出されていなかった。
その張り詰めた空気を切り裂いたのは、悲鳴だった。
「上ですっ!」
小鳥遊ツムギが、空気を振り絞るような絶叫を上げた。
彼女の危機察知能力が、真上から降り注ぐ、濃密で純粋な殺気を捉えたのだ。
その警告がチームの命を救った。
彼女が叫んだ、まさにその直後。
頭上を覆っていた巨大なシダ植物の葉が動いた。
それは、保護色で完全に景色に擬態していた、一匹の巨大なジャガーだった。だがただの獣ではない。その筋肉は不自然なまでに隆起し、その口からは鋭い牙が何本もはみ出している。
遺伝子操作によって生み出された、危険な生物兵器。
それは音もなく、チームがいたまさにその場所へと襲いかかってきた。
その振り下ろされた鉤爪は青黒くぬらぬらと濡れており、一滴でも触れれば、全身を麻痺させるほどの強力な神経毒が塗られていることを示唆していた。
これまでの対人・対アンドロイド戦の常識が一切通用しない、獣ならではの完璧な立体的な奇襲攻撃。チームはツムギの絶叫のおかげで咄嗟に四方へと散開し、辛うじてその第一撃を回避した。
しかし、ジャガー型生物兵器は一匹ではなかった。その最初の咆哮に応えるかのように、周囲の木々の天蓋から次々と、同じように擬態していた複数体がその姿を現す。
ジャガーは目で追えないほどの速度で、木々の間を、枝から枝へと飛び移り、あらゆる角度から予測不能な軌道でチームを翻弄し始めた。都市での戦闘に最適化された響カナデやシズクでさえも、その獣ならではの立体的な動きに、完全に対応しきれない。
だが、その人間では捉えきれないはずの獣の動きに、完璧に対応する者たちがいた。
リンとリナ。コンペイトウ姉妹だ。
「――お姉様」
「――分かっている」
短い会話。それだけで、二人の思考は、完全に一つとなる。
まず動いたのは妹のリナだった。彼女は敵の動きを予測することをやめた。
自らが、蝶のようにひらひらと舞い続ける。そのあえて隙だらけに見える優雅な動きが、生物兵器の原始的な狩猟本能を誘い出した。
一匹がその誘いに乗り、リナめがけて、一直線に飛びかかってくる。リナはその攻撃を紙一重でいなし、小太刀『双鯉』の腹でその突進の軌道をわずかに逸らした。
「お姉様、一体、プレゼントです」
その一直線の攻撃軌道に入った、無防備な獣の姿。
それを、姉のリンが見逃すはずはなかった。
「―――隙だらけだ」
彼女はリナが作り出したその完璧なカウンターの機会を、神速の一閃で貫く。
閃光が走り、ジャガー型生物兵器の首が音もなく宙を舞った。
その完璧な一撃は、しかし、残った獣たちの恐怖よりも、その闘争本能を、より強く刺激したようだった。
仲間を殺された怒りか、あるいは目の前の獲物がただの人間ではないと理解したか。
残っていた四匹のジャガーが、一斉に異なる角度から少女たちへと襲いかかった。
「あらあら、今度は一度に来るんですね。お忙しいこと」
剣崎リナは楽しげにそう言うと、姉の剣崎リンと背中合わせになった。リンは、無言で、大太刀を静かに構える。
二人は一つの竜巻のようにその場で回転しながら、四方八方から迫りくる爪と牙を、その二対の剣で完璧に捌いていく。
だが、全ての攻撃を二人だけで捌き切れるわけではない。
リンとリナの剣舞をかいくぐった一匹が、後方で警戒していたツムギの、死角となる右側から、音もなくその毒爪を振り下ろした。
「あっ……!」
ツムギの危機察知能力が反応するが、身体がそれに追いつかない。
―――その鋼鉄の爪がツムギの首筋を切り裂く寸前。
パンッ、という乾いた狙撃音がジャングルに響き渡った。
ジャガーの眉間が内側から弾け飛び、その巨体は勢いを失ってツムギの目の前にどさりと崩れ落ちる。
『ビスケット、右翼の警戒が甘い。集中しろ』
少し離れた場所で、木の枝に身を隠していたシズクの冷静な声が通信機から響いた。
シズクの位置に気づいた別の一匹が、その木に向かって、駆け上がろうとする。
「させないっ!」
だがその進路上に、カナデが回り込み、『デュアル・ヴァリエ』を、近くにあった大木へと力任せに叩きつけた。
「はあっ!」
轟音と共に、大木が根元から粉砕される。突然の障害物に、ジャガーがバランスを崩して宙に躍り出たその隙を見逃さず、カナデの追撃がその身体を地面へと叩き落とした。
やがて最後の一匹が状況の不利を悟り、ジャングルの奥深くへと逃走を図る。
「逃がすか」
リンが短く呟くと、手にしていた大太刀『天狼』を、回転させながら力強く投擲した。
ブォン、と風を切る音。回転する鋼の刃は木々の間を正確にすり抜け、逃げるジャガーの背中に深々と突き刺さった。
断末魔の叫びが一度だけ響き渡る。
そして、ジャングルに再び静寂が戻った。
周囲に転がる異形の獣たちの亡骸だけが、今、ここで繰り広げられた高レベルな狩りの唯一の証人だった。
リンが投擲した自らの大太刀を回収し、チームは息つく間もなく、再びジャングルの奥深くへと進軍を再開する。
◇
やがて、彼女たちの眼前に、濁った流れの緩やかな巨大な川がその姿を現した。対岸までは50メートル以上あるだろう。
「……ここを渡れば、目標地点まであと少しだ」
シズクが、データパッドを確認しながら呟いた。
チームが警戒しながら川を渡るための浅瀬を探そうとした、その時だった。
川の中央。それまで静かだったはずの濁った水面が、不自然に、巨大に、ゆっくりと盛り上がった。
水の下から小型の潜水艦でも浮上してくるかのように。
ザバアァァァッ、と凄まじい水音と共に川の中から信じられないほど巨大な何かが、その姿を現した。
それは蛇だった。
だが、その胴体はこの川の川幅ほどもあり、その全長はもはや見当もつかない。遺伝子操作によって生み出されたアナコンダ型の生物兵器。
おびただしい数のぬらぬらと濡れた鱗は、どれも磨き上げられた鋼鉄のように鈍い光を放っていた。
そのあまりの巨体に誰もが息を呑む。
最初に動いたのはシズクだった。彼女は即座にその巨大な頭部へと狙いを定め、『カカオ70』の引き金を引いた。
轟音と共に放たれた対物ライフル弾が蛇の眉間へと直撃する。
だが。
キィィィン!
甲高い金属音を立てて、弾丸は火花を散らしながら弾き返されてしまった。鋼鉄のように硬質化された鱗に、かすり傷一つついていない。
その攻撃を、鬱陶しい虫でも払うかのような素振りで受け流したアナコンダは、その巨大な尾を鞭のようにしならせた。
ゴウッ、という風を切り裂く音。
尾の一撃は、少女たちが、今まさに引き返そうとしていた、背後のジャングルの木々をマッチ棒のように薙ぎ払った。
退路が断たれた。
その赤い蛇の瞳は明確な知性を持って、絶望する少女たちを餌として、捉えていた。
硬い装甲と圧倒的なパワー。単純な攻撃では歯が立たない。
絶望的な戦力差を前に、チームの誰もが息を呑んだ。
だがその沈黙を破ったのは、いつだってこの少女だった。
「私が引きつける!」
響カナデは、そう叫ぶと、無謀にも巨大なアナコンダへと真正面から突っ込んでいった。
そのあまりにも小さな獲物に、アナコンダは嘲笑うかのように巨大な顎を大きく開く。
カナデはその飲み込まれれば一瞬で全身を砕かれるであろう牙の奔流の中へと、自らの身体を投げ出した。
ガキン!という轟音と共に、彼女は、『デュアル・ヴァリエ』を、大蛇の上下の顎に楔のように打ち込み、その口が完全に閉じるのを防ぐ。だがその代償として、無数の牙が彼女の肩や腕に深々と突き刺さっていた。
彼女は絶叫を上げながらも、自らの再生能力を前提とした無謀な陽動を開始したのだ。
「カナデ!」
小鳥遊ツムギの悲鳴。
頭を拘束され、怒り狂ったアナコンダの、巨大な尾が薙ぎ払うように後方の仲間たちへと襲いかかる。
だがツムギは仲間たちを庇うように、その尾の攻撃軌道上へと割り込む。そして、『クラムル・ガード』を展開させた。轟音と共に琥珀色の盾がその圧倒的な一撃を、砕け散りながらも受け止めた。
カナデとツムギが、命懸けで作り出した、ほんの数秒の隙。
その好機を、剣崎リンとリナが見逃すはずはなかった。
二人は水面を蹴り、アナコンダの巨鱗に覆われた巨体を、坂道を駆け上がるかのように駆け上がっていく。そして銃弾さえも弾き返す、その鋼鉄の鱗と鱗のほんの僅かな隙間へと、寸分の狂いもなく同時に渾身の刃を突き立てた。
断末魔の絶叫がジャングルに響き渡る。
こうしてチームは、それぞれの役割を、その命を懸けて、果たすことで、この緑の地獄を一歩、また一歩と進んでいく。
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