第44話 混沌への潜入
イスタンブール旧市街に位置する、グランバザール。
それは、世界で最も古く、最も巨大な屋根付き市場の一つ。六十以上もの通りに四千もの店がひしめき合う、まさに混沌の迷宮。
その巨大な門の前に、六人の少女たちは立っていた。
門の向こう側から、奔流のように圧倒的な情報量が押し寄せてくる。
壁という壁に、所狭しと吊り下げられた色鮮やかな絨毯や、モザイクガラスのランプ。鼻腔を刺激する、クミンやシナモンといった香辛料のむせ返るような香り。
そして、トルコ語、英語、中国語、あらゆる言語が入り混じった蜂の巣のような喧騒。
小鳥遊ツムギは、そのあまりの熱気に、一瞬眩暈を覚えた。
彼女は、大きなマフラーで顔を半分隠した、地元の学生のような目立たない服装をしていた。隣に立つ剣崎リナも同じようにラフな格好だが、その着こなしはどこか洗練されている。
一方、これから主役を演じるチームは、全く違う空気を放っていた。
響カナデは、流行のサンドレスに大きなサングラス。白雪ふわりは、場違いなほど豪奢なゴシックロリータドレス。そして、二人を護衛する剣崎リンは、シンプルなリネンのスーツに身を包んでいる。
『――始める』
耳元の通信機から、カメラバッグを肩にかけた旅行カメラマンに扮した、黒羽シズクの短く冷静な声が響いた。
その合図でチームはすっと二手に分かれる。
まず、シズク、リナ、ツムギの【監視・分析班】が、それぞれ別々の角度から、雑踏の中へと、水が砂に染み込むかのように静かに溶けていった。
少し遅れて、カナデがふわりの手を優雅な仕草で取る。リンがその一歩後ろに影のようにぴたりとついた。
そして【陽動・接触班】の三人は、これから始まる華やかで危険な舞台へと、堂々とその足を踏み入れた。
カナデたちが迷宮へと足を踏み入れた頃、すでに【監視・分析班】は、それぞれの持ち場についていた。
彼女たちの仕事は、この混沌とした人の海の中から、針のように小さな影を見つけ出すことだった。
シズクは、グランバザールに隣接する古い雑居ビルの屋上にその身を潜めていた。
彼女は、ケースから取り出したカラスに偽装した超小型ドローンを空へと放つ。
ドローンは数回羽ばたいた後、ごく自然に、バザールの上空を旋回する本物の鳥の群れに紛れ込んだ。
シズクは、そのドローンが送ってくるリアルタイムの映像と、自らのライフルのスコープから得られる超望遠の視覚情報をデータパッド上で統合していく。バザール全体の動きは、今やまるで神の視点からかのように、完全に彼女の掌握下にあった。
その神が張った蜘蛛の巣の地上で、二人の少女が動いていた。
リナとツムギは地元の美術学生を装い、美しいイズニックタイルが飾られた噴水の前に座り込み、スケッチブックを開いている。
リナはその人懐っこい笑顔と、数か国語を巧みに操る語学力を武器に、休憩中の店主や、客引きの男たちにごく自然に話しかけていく。
「この辺りで、特別な骨董品を扱うお店はないかしら?」と。
その会話の中から、闇市場に繋がる、かすかな情報の糸を、一本、また一本とたぐり寄せていた。
その隣で、ツムギはひたすらに自らの危機察知能力を研ぎ澄ましていた。
ほとんどの人間が放つ、生活感のある温かい気配。その中に紛れた、目的意識だけが突出した針のような異物の気配。
彼女はその目に見えない影を、雑踏の中から探し続けていた。
【監視・分析班】が、静かに蜘蛛の巣を張り巡らせる、その裏側。
【陽動・接触班】は、最初のターゲットの、闇市場へのコネを持つと噂される高級絨毯商の店へと足を踏み入れていた。
店の中は、外の喧騒が嘘のような、静かで薄暗い空間だった。壁という壁、床から天井まで、幾何学模様の美しい絨毯が所狭しと吊り下げられている。空気は、羊毛と古い染料の独特の匂いで満ちていた。
店の主である恰幅のいいトルコ人の男は、最初はカナデを金払いのいいただの観光客として、丁重に、しかしどこか侮るように相手をしていた。
だが、カナデの口から専門家でなければ知り得ないような絨毯の産地や、年代物の染料に関する鋭い質問が次々と繰り出されると、男の目の色が変わった。
「もっと、古いものはないかしら。表には出せないような、特別な織りの一枚を探しているのだけれど」
カナデは、高級な絨毯を品定めする、その会話の端々に、巧みに闇取引へと繋がるキーワードを織り交ぜていく。それは分かる人間にだけ分かる言葉の駆け引きだった。
そのカナデの隣では、ふわりが美しい人形のように静かに佇んでいる。彼女は目の前の商談には、一切の興味を示さない。だが時折、その血のように赤い瞳が、店内にいる他の客の姿を、まるでその価値を値踏みするかのように、鋭く射抜いていた。
そして店の入り口近く。
護衛役のリンは腕を組み、壁に寄りかかるようにして周囲への警戒を一切解かない。彼女の研ぎ澄まされた剣士としての近寄りがたいオーラが、軽率な客引きや、スリなどを、無言のまま完全に寄せ付けないでいた。
カナデたちが、丁々発止の駆け引きを演じている、まさにその裏側。
ツムギの研ぎ澄まされた危機察知能力が、ついに獲物の一人を捉えた。
彼女は、リンたちが入っていった絨毯店の向かいにあるカフェで、客を装いながら店の入り口を監視している男に気づく。他の観光客とは明らかに違う、プロの監視役が放つ冷たい気配。
『……チョコレート。3時方向、絨毯屋の前。男が一人。……危険な感じがします』
ツムギは、インカムに震えを抑えながらそっと囁いた。
『了解した、ビスケット』
即座に、屋上のシズクから、冷静な声が返ってくる。
彼女が操るカラス型のドローンが男の上空へと移動しその顔をズームで捉える。シズクは、その映像をメロウ・ガーディアンズのデータベースと照合させた。
『……ウロボロスのエージェントだ。そのまま監視を続けろ』
それとほぼ同時に。
別の区画で、香辛料店の気のいい店主と談笑していたリナの通信が入った。その声は、目的を達成した楽しげな響きを帯びている。
『チョコレート先輩、聞こえます?とっても面白い話を聞きました。なんでも、「今日は地下で特別な品のオークションがある」そうです』
二つの、別々の場所からもたらされた二つの情報。
屋上の上で、シズクはその二つの糸を一つへと結びつけた。
彼女のデータパッドに表示されたグランバザールの立体地図。ツムギが発見したウロボロスのエージェントの位置。そして、リナが掴んだ「地下オークション」というキーワード。
全ての情報が、ただ一つの場所を指し示していた。
シズクは、全ての情報を統合し、チーム全員へと、新たな指令を出す。
『全ユニットに告ぐ。取引場所を特定した。バザールの地下に広がる、古代ローマ時代の貯水槽だ。……これより、フェーズ2へと移行する』
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