狂騒せしイスタンブール

第43話 六人

 トルコ・イスタンブール。

 用意されたセーフハウスの古びた木製の窓を開けると、ひやりとした夜風と共に、異国の匂いが流れ込んできた。遠い異教の地で焚かれる、香辛料と、水タバコの、甘く、どこか退廃的な香り。


 窓の外に広がるのは、ボスポラス海峡の、息を呑むような夜景だった。

 アジアとヨーロッパ、二つの大陸を分かつ、暗い海の水面。その両岸に、まるで宝石を撒き散らしたかのように、無数の街の灯りが、きらびやかな光の帯となって、どこまでも続いている。

 その時、遠くのモスクの尖塔から、イスラムの礼拝を呼びかけるアザーンの、厳かな旋律が新月の下の夜空に朗々と響き渡った。


 日本アルプスでの死闘から、数週間が過ぎていた。

 コンペイトウとの共闘を経て、少女たちの間には、以前とは少し違う空気が流れるようになっていた。


 小鳥遊ツムギは、窓枠に手をかけ、眼下に広がる光の川を、夢見るような表情で見つめている。その隣で、響カナデもまた、その荘厳な光景に、静かに見入っていた。

 一方、黒羽シズクは、その光景に感傷を抱くことはない。彼女は、部屋の隅で、ただ黙々と愛銃『カカオ70』のメンテナンスを行っていた。そして、白雪ふわり。彼女の興味は、窓の外の夜景ではなく、部屋に敷かれた異国情緒あふれる絨毯の複雑な模様にだけ注がれていた。その小さな指先で楽しげに幾何学模様をなぞっている。


 その時だった。

 ピーン、と。

 部屋に澄んだ電子音が響き渡り、穏やかな空気を引き裂いた。

 部屋の中央の空間が揺らめき、光の粒子が収束して、等身大の長谷川チグサのホログラムが姿を現す。日本の司令室から投影されたその姿は、このオリエンタルな雰囲気の部屋にはあまりにも不釣り合いな、冷たい鋼のような気配を放っていた。


「次のブリーフィングを始める」


 チグサは、挨拶もなしに、そう切り出した。

 彼女が、その黒い義手で宙を操作すると、二つのホログラム映像が浮かび上がる。

 一つは、古代ヒッタイト文明のものとされる、楔形文字が刻まれた、古びた粘土板のかけら。

 もう一つはその内部構造をスキャンした青白い設計図。粘土板の中心には、複雑なバイオチップが巧妙に隠されていた。


「表向きは、グランバザールの闇市場で取引される古代遺物。だが、内部には、死亡したオリジナルの『白雪ふわり』の、脳データの一部――主に、感情と記憶を司る辺縁系の情報が、バイオデータとして封印されている」


 その内容に、響カナデも小鳥遊ツムギも、息を呑む。


「チームの任務は、これをウロボロスより先に確保することだ」


 チグサ言葉に、チームの全員が今回の任務の倫理的な重さを理解した。

 これは単なるデータ奪取ではない。人の心の断片を、その遺品を、奪い合う戦いだ。

 チグサは、さらに情報を付け加えた。


「だが、今回の敵はウロボロスだけではない。第三勢力の存在を確認した。コードネーム『アルキメデス』」


 その、予期せぬ言葉に、黒羽シズクの眉が、鋭く動いた。

 チグサの横に、ギリシャ文字のΛラムダを象った紋章がホログラムとして表示される。


「その正体は、かつて『プロジェクト・ゼリー』を主導していた、元ウロボロスの科学者チームだ。彼らは、自らが犯した過ち――ふわりという怪物を創り出した罪を清算するため、チップの奪取ではなく、破壊を目的としている」


 自分たちが確保しようとしている遺品を、それを創り出した張本人たちが罪として、破壊しようとしている。

「確保」を目指すメロウ・ガーディアンズ、「回収」を狙うウロボロス、そして、「破壊」を目的とするアルキメデス。

 今回の任務は、三つの勢力が、それぞれの信じる正義を懸けて激突する。


 チグサのホログラムが消え、部屋に作戦の重圧と異国の夜の静けさだけが残された。

 カナデは、チグサが口にした「遺品」という言葉の重みを、胸の中で何度も噛み締めていた。

 人の感情と記憶。それをモノのように奪い合う。

 彼女は隣に座るふわりの横顔をそっと見つめた。

 ふわりは何も知らずに、窓の外に広がる、きらびやかな光の帯に目を細めている。

 その無垢な表情を見ていると、カナデの心は、哀しみと、この子だけは絶対に守り抜くという、激しい決意の入り混じった複雑な色に染められていった。


 その張り詰めた沈黙を破ったのは、控えめなドアのノック音だった。


 チーム全員が、一斉に扉へと視線を向ける。シズクの指が音もなく腰のホルスターへと伸びる。

 扉が、ゆっくりと開く。

 そこに立っていたのは二人の少女だった。

 剣崎リンと、剣崎リナ。コンペイトウの双子だった。


「お久しぶりです、皆様。少し、野暮用ができまして」


 リナが、完璧な笑みで優雅に一礼する。

 リンはその隣で腕を組み、まっすぐにカナデたちを見据えていた。その瞳には、以前のような侮蔑の色はない。


「パンデモニウムでの借りを、返しに来た」


 確かな意志のこもったその言葉。

 彼女たちは、あの雪山でツムギとカナデに命を救われた借りを返すため、はるばる、このイスタンブールまでやってきたのだ。


 予期せぬ、しかしあまりにも心強い援軍の登場。

 カナデとシズクは驚きながらも、その意味を理解し静かに頷き返した。

 そして六人の少女たちは、それぞれの思いを胸に、混沌の迷宮『グランバザール』への潜入を、開始するのだった。

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