ある男と女 題:水

「それじゃあね。また、どこかで会いましょうね」

「ええ、きっと。必ず手紙を送ります」


 今にも崩れそうな危うい天気に加えて、嫌らしい蒸し暑さのある日だった。章夫は東京駅のプラットホームに向かってハンカチを振る人々を押しのけつつ、出発を待つ汽車の窓から乗り出して、真剣な顔で言った。哲子はそれにニヤニヤして「あきちゃん、そんなこと言わないのよ」と笑った。


「今日で酒井哲子さかいてつこは死ぬんだから。死人に手紙は出せないでしょう?」


 章夫が何か返す前に、哲子は、窓枠にかかった章夫の手を捕まえて揉みながら、「僕、今日からは、大庭哲夫おおばてつおですよ」と声色を変えて言った。なるほど、哲子は、確かに声こそ女だが、撫でつけた髪に丸眼鏡のその恰好は、どこからどう見ても一般のサラリーマンだった。


「ああ、そうだ。すっかり忘れていた。あなた、酒井哲子は、僕、大庭章夫あきおと心中したんでしたね」


 返す章夫は、骨ばかりで色気のない病的な身体に流行りの型のワンピースという格好だが、やっぱり声だけは、確かに男のものである。


「忘れてもらっちゃ、困ります。いいかい、僕たちは二人とも、生まれたときから自分の身体の心地が悪くて、それなのに男女間の当たり前の結婚をさせられたために、先日の大雨の日、川に入って心中をしたのだよ」

「わかっています。そして、家の人たちに、陸へ死体の上がらないことを気づかれてしまう前に、私は友人の伝手で下関へ、あなたはこのあとの汽車で津軽へ、行かれるのよね」

「そうさ。僕はこのために床屋に行って、主人に奇妙な目で見られながら、おさげをやったんだ。それじゃあ君、最後の確認だ。自分の名前を言ってごらん」

「ええ、ええ。私、今日から酒井章子あきこです」

「ウン、上等だ」

「そうでしょう。ねえ、上等と言えばこのかつら。これもかなり、上等でしょう」

「そうだね。やっぱりあの店は、いいね」

「ええ、流石。あんなお店、よくご存知ね」

「まあ、売れない劇団員にもそれなりの繋がりはあるってことさ……それにしても、せっかくの日なのにこんな天気とは。もっとこう、景気良く、かーっと晴れてくれればよかったのに」

「本当。嫌になるわ……あなた、傘は持ってきていらして?」


 開きっぱなしの扉が閉まる音が、ばらばらと聞こえてきた。それなのに哲子はまだ、くだらない話を引き延ばしながら章夫の手を揉んでいる。章夫が手を引こうとすれば、哲子は爪を立ててその手を掴む。何度かそれを繰り返し、章夫はそのたび哲子に手をあずけなおした。章夫の手に数本の蚯蚓みみず腫れができたころ、哲子はやっと「僕、寂しい」と言った。


「どうして」

「どうしてって。仮にも結婚までした相手との永遠の別れが、悲しくないやつがいるもんですか。僕が本当の男で、あなたが本当の女なら、僕たち、当たり前に夫婦だったはずなんです」

「哲子……ううん、哲夫さん。私、まず、永遠なんてないと思うんです。だって、幸福だっていつか終わるでしょう。親に出されたまんまを食べて、縁側で昼寝をしているだけで許されるような子供時代だって、長くは続かない。だから、お別れだって永遠じゃないんです。私たち、心中したのよ。輪廻転生だってあります。巡り巡ってまた出会ったっておかしくないわ」

「……女って生物に生まれてしまったからは、どこまでも永遠が好きなのよ。こんなときぐらい許して頂戴な」

「じゃあ、今すぐ嫌いになってください。あなたは自分でおっしゃったように、今日から大庭哲夫なんだから」

「エッヘン。お二人」


 真横で大きな咳払いがした。見れば、赤ら顔で恰幅のいい車掌が、脂肪に埋もれた細い目で二人を睨んでいる。


「お熱いのも、結構ですがね。そろそろ発車の時刻ですよ」

「ええ。ええ。わかっています」


 乱暴に言われても、まだ名残惜しそうに章夫の手を握り続ける哲子を見て、車掌は章夫を振り返り「いやあ、奥さんも幸せですな」と、ため息をついて肩をすくめた。「旦那さんにここまで愛されておられるのは、男の私でも羨ましいほどです」。


「まあ」


 途端に哲子は明るい声を上げて車掌を見た。車掌は、目の前のサラリーマンから女の声がしたのにぎょっとしたようだったが、哲子は構わずに「そう、見えるかい?」と続ける。車掌は、哲子のあまりに大げさな反応に、一歩身を引く。


「違いましたかな」

「いいえ。いいえ、違いません……でも僕たち、今日でお別れなんです」

「お家の方にも、誰にも、わかっていただけなかったんです」

「ほう……それは、また……」


 勝手に姦通罪だと見当をつけたらしい車掌は、気まずそうに深く帽子をかぶり直して「エッヘン、エッヘン」と二度、また大きな咳払いをした。


「では、お二人とも。もう、定刻ですので」

「ええ。それでは」

「ねえ」

「なあに」

「やっぱり、僕にお手紙書いてください。もちろん、宛名は大庭哲夫で」

「あら、あら。ええ。うふふ。それならきっと、お返事くださいましね、酒井章子宛てに」

「ウン。きっと」

「じゃあ、また」

「ウン、また」


 汽笛が鳴って、汽車はゆっくり動き出す。哲子が、ハンカチを探している間に、章夫はさっさと窓を閉めてしまったようで、やっとハンカチを見つけて顔を上げたころには、とっくに姿が見えなかった。

 汽車が出て、人もまばらになったプラットホームに、蒸し暑さをかき分けて一筋、冷たい風が吹く。雨が降り始めた。

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