鯉情

 しんしんと雪の降る日でした。その日も、うめ子はあたりまえに、仲良しのつる子さんのお家に遊びに行っておりました。


「つる子さん、鯉はもう眠っているかしら」

「池が凍ってしまえばね」

「それなら、まだ起きている?」

「そうでしょうね。彼らはどん欲だから」

「どういうこと?」

「彼らは餌だけが生きがいだもの。眠ってしまえば当分、食べられないでしょう。お腹が空いて起きているのよ」

「そうなのね」

「つまらないわ」


 つる子さんは鯉に向かって「餌よ」と叫び、うめ子からおはじきを奪って池に投げました。つる子さんのおうちのお庭には大きな池があって、そこには綺麗な鯉が何匹もいます。自然みたいに周りの岩がごつごつしていて、水底に石だって置いてあります。つる子さんはソッと裸足でお庭に降りて、鯉が右往左往しているのをそれはいとおしそうに見つめていました。うめ子は寒くて仕方ありませんでしたが、つる子さんは温度など全く気にならない様子で、いつまでも鯉を愛でています。

 もしおはじきを飲んだらうめ子も鯉になれるかしらん。つる子さんに熱っぽく見つめてもらえるような、そんな鯉に。

 うめ子はその場でそっとおはじきを飲んでお家に帰り、さっそく夜におなかを痛めて、お医者様にたいそう怒られました。


「いい加減に、おし」


 お母様はビシッとうめ子を打ちなさりました。そして、うめ子がお小遣いで買ったおはじきを、みんな捨ててしまいました。一日に一つまで、と決めて、やっと十ほど飲んだときでした。キイロとかアカのガラスはみなごみの袋に収まって、遠くへ運ばれて行きました。

 うめ子は泣きながら、つる子さんのおうちへ行きました。そうして、お母様にもお医者様にも話さなかった計画を、すっかり打ち明けてしまいました。


「ばかな娘ね」


 つる子さんは今日も綺麗でした。つる子さんは笑って、うめ子をお家に上げてくれました。お部屋には今日も、たくさんのおはじきが散らばっていました。


 これ、みんな飲めばうめ子の皮フ、おはじきみたいにならないかしらん。

 ガラスのうろこの鯉に、なれないかしらん。


 うめ子は泣きながらつる子さんに訴えました。つる子さんは学校に通っていらっしゃるので、きっとうめ子より頭がいいのでした。だからきっと、鯉になる方法だって知っていらっしゃるはずでした。

 つる子さんはしゃがんで泣いているうめ子の唇におはじきをソッと添えました。


「泣くくらいなら、お飲み」

「でもね、お医者様は駄目だって、おっしゃるの。お母様もよ」

「そのお医者様、あなたを鯉にしてくださるの」

「ううん」

「あなた、お母様のために鯉になるの」

「ううん」


 つる子さんは「なら、飲めるわね」と、うめ子の唇にぐいぐいおはじきを押し付けます。歯にガラスがあたって、チリッと痛みました。

 痛みでいじわる虫が目を覚ましたようです。


「なんでつる子さんに命令、されないといけないの」


 うめ子は涙でつっかえる声をしぼって言いました。ゆらゆらする水膜の向こうでつる子さんのお顔がサッと赤くなりました。


「うめ子、つる子さんのために鯉になるなんて、言ってないわ」


 おはじきが落ちました。

 ああ、うめ子の嘘吐き。本当は、つる子さんのためにこんなにしているくせに。


「ひどいわ」


 うめ子より苦しそうな声で、つる子さんは言いました。


「それってずるいわ。あんまりじゃない」

「ごめんなさい」


 うめ子は思わずあやまりました。つる子さんはすっかり、うめ子ぐらいしゃがんでしまって、泣いています。


「ごめんなさい。うめ子、つる子さんのために鯉になるわ、きっとよ」

「……嘘じゃないわね」

「本当よ。あのね、うめ子、つる子さんが愛でてくださるような鯉になりたくって、おはじき、飲んでいるのよ」

「そんなら、お飲みなさい」


 つる子さんはおはじきをくわえてグイッと顔を近づけました。うめ子はこばみませんでした。のどを通ったガラスで、シンとおなかが冷えました。


「また、痛めてしまわないかしら」

「大丈夫よ」


 つる子さんの手がうめ子のおなかにそえられました。着物越しでも冷たい手でした。でも、冷たい、とは言えませんでした。

 つる子さんは楽しそうに「今にうろこができるわね」と言いました。


「今にあなたのおなかにあるおはじきが溶けて身体に染みわたって、うろこができて、呼吸だって苦しくなるわ」

「苦しくなるの」

「大丈夫」


 つる子さんは笑いました。


「そしたらお池に入ればいいんだもの」

「どういうこと?」

「お魚はね、陸じゃ呼吸できないのよ。それぞれ、合った場所で活動しなければならないの。適材適所と言うのだわ。うめ子さんだって、人間の世界じゃばかだけれど、お魚の世界じゃ優等生かもしれないわね」


 次の日も、その次の日もうめ子は、つる子さんのおうちの門をたたいて、おはじきを飲ませてもらいました。

 一年経つうちに、目方がずいぶん増えたような気がします。でっぷり肥えた鯉のようです。うめ子はずいぶん醜くなりました。でも、おはじきを飲むうめ子は醜いのに、飲ませるつる子さんは、いつまでも、いつまでも美しいのでした。


 最近はつる子さんの唇が近づくたび、息がすぐにあがります。もう、限界なのかもしれないと思いました。そう言うとつる子さんは怖い顔をして「鯉になりたくないの」と言います。


「なりたいわ。なりたいけれど、もう、無理なの」

「そんならこの逢瀬も終わりだわ」


 つる子さんはわざといやらしい言い方をしました。


「とっととお池にお入りになったら。だってもう、息、できないのでしょう」


 つる子さんはそのままお庭に降りて、しゃがんで池を眺めました。うめ子は自分がどん欲になっているのを感じました。まるで、寒いのにまだ餌をねだるために起きている、鯉のようでした。


「つる子さん」

「なあに」


 うめ子はつる子さんをつかまえて池に飛び込みました。もう、息が苦しかったのです。つる子さんはキャッと言っただけで、あとは静かになりました。池の水は身を切るように冷たかったけれど、すぐに呼吸は楽になりました。


「つる子さん」


 うめ子、やっと鯉になれたのだわ。

 うめ子は喜んで話しかけましたが、つる子さんは頭から錦鯉のようなもやもやを流して、目を見開いて黙ったままです。その瞳にまともに見つめられて、うめ子はポっと頬が火照るのを感じました。

 その日も、しんしんと雪の降る日でした。

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