第12話 白首の誓い、新たなる家へ
けれど
沈黙の圧が重い。秋音は胸がどきどき、なんだか胃まできゅっと縮むようで、緊張と不安でいっぱいだった。
やがて沈夫人の私室に通されると、彼女は椅子にゆったりと腰を下ろし、扇子を優雅に扇ぎながらにっこりと笑った。
「――さあ、結婚生活のほうはどうだい?」
「な、なにそれ……べつにどうもしてないけど?」
沈夫人はさらりと扇子を閉じると、目を細めてにやり。
「聞きたいのはね――うちの婿殿、夜はちゃんと役に立っているのかどうかってことさ!」
「ちょ、ちょっと待って!?母上、なにを聞いてるのよ!!」
「だって気になるじゃないか。婿殿が『仮病』だの『療養』だの言って寝込んでると聞けば……女房としての務めが果たせているのか、母としては心配になるもんさ!」
「……お母さん、ほんとにやめてぇぇぇ!」
「夫婦は一体――力を合わせて生きていくものだよ。それは寝所のことだけじゃない。日々の暮らしも含めてだ。殿下は少々わがままでも、あなたが支えてあげなくちゃならないんだよ。」
その声は笑みを含んでいたが、瞳には母としての強い光が宿っていた。
「……はい。」
「母が願うのはひとつだけ――秋音、おまえが幸せに暮らすことだ!」
まるで子どものころに戻ったように、少し拗ねた声で口を開く。
「お母さん……もし、いつか私が殿下と和離したら……沈家の恥になっちゃうの? 私、母上と父上のような愛情が欲しいの……」
沈夫人はふわりと笑みを浮かべ、ゆっくり立ち上がると娘の頭を撫でた。
「本当に和離したいと思うのなら、沈家が後ろ盾になるよ。たとえお父さんが官職を退いても、娘ひとりくらい養えないわけがない!」
その手はやがて止まり、今度は秋音の頬を両手で包み込む。子どもをあやすように、けれど真剣な眼差しで言葉を重ねる。
「でもね、秋音……あの殿下の目を見なさい。殿下があんたを見る目はね……まるでお父さんが私を見るときと同じだったよ。
――私とお父さんのような愛情、その半分は、殿下がもう差し出しているんだよ。残りの半分をどう受け取るかは、あんた次第さ。」
その夜――宮を出て三日目の夜のことだった。
「ごめん、秋音……仮病なんてして、君に看病させるべきじゃなかった。」
「もし本当に具合が悪いなら……私に言ってくれればいいのよ。絶対に放っておかないから。 でも、仮病なんてしたら……心配するでしょ。」
「……わ、私じゃなくて。お父さんもお母さんも、心配するからってことよ!」
「景澄……あの日は、私が軽率だったの。助けるつもりで飛び込んだのに、結局あなたが私を庇って毒を飲んでしまった……ごめんなさい。」
「気にするな……君が私のために来てくれた。それだけで、私は嬉しかったんだ。」
「でも……
さらに言葉を重ねようとした瞬間、
「理由なんてどうでもいい。大事なのは――君がどこへ行きたいかだ。私は、君が望む場所ならどこへでも連れて行く。」
「ねえ、
「えっ……いいの?」
「もちろんだよ。秋音があそこの主なんだから!」
いつもなら景澄のこんな言葉に顔を真っ赤にする秋音。だが、この時ばかりは頬を染めるだけではなく、少し言いよどんでしまった。
「……でも、もし私たちが別れることになったら……次のお嫁さんが気に入らないかもしれないでしょ?」
その瞬間、景澄の笑顔はすっと消えた。
控えにいた侍衛・五は、思わず視線を逸らし、額に手を当てる。
――殿下、どうかご自重を……ここで癇癪を起こしたら、せっかくの流れが台無しですよ。恋の道はまたまた長くて、険しいんですからねぇ……
「
……えっ。彼もこの言葉を知っているなんて。だけど……
「でも、帝王の家に生まれた人が妻をひとりだけにしたら、跡継ぎの務めはどうなるの?もし景澄が皇帝になったら、なおさら一人の妻だけなんて許されないんじゃない?」
――胸にしまっておけばいいと分かっている。きっと最後まで続かないかもしれないとも分かっている。期待しないことこそ女の処世術だと分かっているのに。
それでも、どうしても彼の口から直接聞きたくなってしまった。
秋音は思わず息を詰めた。
だが彼は、迷うことなくはっきりと言った。
「私が証明してみせる。たとえ私が皇子でも、皇帝でも、ただの平民でも――私は一人の心を得て、白首まで決して離れずにいる。」
その瞬間、
まるで、彼の瞳がいつもそうであったように――ようやく秋音も、彼だけを見つめることができた。
瞳にただ一人、愛しい人だけを宿す。
その光景がどれほど美しいものか、景澄は幾度となく伝えたくてたまらなかった。
――それは、春に咲き誇る桜の花。
夏に燃えるように太陽を仰ぐひまわり。
秋に鮮やかに散りゆく紅葉。
そして、冬の厳しさの中で凛と咲き誇る一輪の梅。
それほどに、君は美しく――四季の彩りさえも凌ぐほどに。
翌日。
門前で待っていたのは、
「お兄さま!どうしてここで待ってるの?一緒に沈府から出ればよかったのに!」
その笑顔を見た
「今日は
「ここ数日忙しくて家にも帰れなかったし……秋音に会えなくて、兄さんも寂しかったんだ。」
今、秋音は沈言の腕に自分から絡みつき、心底幸せそうに笑っている。
――腕を組むな。頭を撫でるな。そんな笑顔も……全部、私の前だけでしてほしい。
侍衛・五はあわてて肘で
「殿下、顔!相手は兄弟ですよ!」
「……実の兄弟じゃないだろ!」
五は姿勢を正し、唇だけを動かしてぎりぎり声にならない声を絞り出す。
「殿下……ひと言申し上げます。皇子妃殿下の印象をさらに悪くしたくないなら――もう少しお心を広く。」
「
「三殿下、ご機嫌よう。」
「我らの間柄で、そんな堅苦しい挨拶は要らぬ。
「……
「はい――この身、三皇子殿下にお仕えし、三皇子妃殿下を命に代えても必ずお守りします!」
「えっ?私を守るって……どうして?」
「考えてみたんだ。新しい府に移れば、秋音ももっと自由に歩き回れる。もう宮中のように縛られる必要はない。だからこそ、お前を守るために護衛をつけたんだ……彼は林将軍の次子、
「…………!」
――そんな立派な人が、わざわざ私の護衛に?いや待って、それこそ大問題でしょ。禁軍の肩書きを投げ捨ててまで三皇子府に?……正直ちょっと、脳筋じゃない?
もちろん口には出せない。これはあくまで、彼らとの取り決めなのだから。
「林少尉、どうぞよろしくお願いいたします。」
「皇子妃殿下……もう少尉ではありません。
――これ、もしかして自分で情敵を招き入れたんじゃないか? ……ないよね。
だが
そのとき。
「景澄、行こう!一緒に新しい家を見に!」
――家。
そのひと言に、景澄の瞳はぱっと明るく輝いた。
差し込む朝の光が横顔を照らし、この一週間でいちばん澄んだ笑みが浮かぶ。
たとえ今は、彼女が他の誰かのために笑っていたとしても。
それでもやはり、自分は彼女の存在ひとつで幸福になれるのだ。
門の向こうには、白い塀と青い瓦が連なり、朝日を浴びてきらめく三皇子府が待っていた。
宮殿ほどの豪奢さはない。だが眩いほどに輝いていた――まるで、これから始まる日々を祝福するかのように。
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①景澄の誓いの言葉「私は一人の心を得て、白首まで決して離れずにいる」は、漢代の楽府民歌『白頭吟』に由来する表現である。
「願得一人心、白首不相離(願わくば一人の心を得て、白首まで相離れず)」という句で知られ、才女・
一途な愛と貞節を象徴する中国古典の名句として、後世に広く引用されている。
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