第12話 白首の誓い、新たなる家へ

 秋音シュウインは母に連れられて、廊下をとことこと歩く。

 けれど沈夫人シンふじんは一言もしゃべらない。

 沈黙の圧が重い。秋音は胸がどきどき、なんだか胃まできゅっと縮むようで、緊張と不安でいっぱいだった。


 やがて沈夫人の私室に通されると、彼女は椅子にゆったりと腰を下ろし、扇子を優雅に扇ぎながらにっこりと笑った。

「――さあ、結婚生活のほうはどうだい?」


「な、なにそれ……べつにどうもしてないけど?」

 秋音シュウインは思わず眉をひそめ、母の真意を測ろうと首をかしげる。


 沈夫人はさらりと扇子を閉じると、目を細めてにやり。

「聞きたいのはね――うちの婿殿、夜はちゃんと役に立っているのかどうかってことさ!」


「ちょ、ちょっと待って!?母上、なにを聞いてるのよ!!」

 秋音シュウインは声を裏返し、顔を真っ赤にして机をばんっと叩いた。


「だって気になるじゃないか。婿殿が『仮病』だの『療養』だの言って寝込んでると聞けば……女房としての務めが果たせているのか、母としては心配になるもんさ!」


「……お母さん、ほんとにやめてぇぇぇ!」

 秋音シュウインの顔は真っ赤を通り越し、今にも湯気が立ちそう。


 沈夫人シンふじんはそんな娘を見て、ふっと扇子をたたんだ。

「夫婦は一体――力を合わせて生きていくものだよ。それは寝所のことだけじゃない。日々の暮らしも含めてだ。殿下は少々わがままでも、あなたが支えてあげなくちゃならないんだよ。」

 その声は笑みを含んでいたが、瞳には母としての強い光が宿っていた。


「……はい。」

 秋音シュウインは小さくうなずく。


「母が願うのはひとつだけ――秋音、おまえが幸せに暮らすことだ!」


 沈夫人シンふじんの言葉を聞いたあと、秋音シュウインは母の瞳をじっと見つめ、そっとその手を握った。

 まるで子どものころに戻ったように、少し拗ねた声で口を開く。

「お母さん……もし、いつか私が殿下と和離したら……沈家の恥になっちゃうの? 私、母上と父上のような愛情が欲しいの……」


 沈夫人はふわりと笑みを浮かべ、ゆっくり立ち上がると娘の頭を撫でた。

「本当に和離したいと思うのなら、沈家が後ろ盾になるよ。たとえお父さんが官職を退いても、娘ひとりくらい養えないわけがない!」

 その手はやがて止まり、今度は秋音の頬を両手で包み込む。子どもをあやすように、けれど真剣な眼差しで言葉を重ねる。

「でもね、秋音……あの殿下の目を見なさい。殿下があんたを見る目はね……まるでお父さんが私を見るときと同じだったよ。

 ――私とお父さんのような愛情、その半分は、殿下がもう差し出しているんだよ。残りの半分をどう受け取るかは、あんた次第さ。」


 その夜――宮を出て三日目の夜のことだった。

 秋音シュウイン景澄ケイチョウは、ようやく「毒騒ぎ」のあと初めて、きちんと向き合って言葉を交わした。


「ごめん、秋音……仮病なんてして、君に看病させるべきじゃなかった。」

 景澄ケイチョウはそう言って、逆に自分が菓子とお茶を盆に載せて差し出してきた。


 秋音シュウインは母の言葉と、あの月明かりの下での景澄の言葉を思い返しながら、振り返る。

「もし本当に具合が悪いなら……私に言ってくれればいいのよ。絶対に放っておかないから。 でも、仮病なんてしたら……心配するでしょ。」


 景澄ケイチョウの瞳は、灯された燭火よりもなお明るく輝き、心から嬉しそうに笑った。


 秋音シュウインは慌てて顔を赤らめ、つい言い訳を口にする。

「……わ、私じゃなくて。お父さんもお母さんも、心配するからってことよ!」


 景澄ケイチョウはその言葉さえ愛おしそうに受け止め、満面の笑みで何度もうなずいた。


 秋音シュウインは少しうつむき、衣の裾をきゅっとつまんで景澄ケイチョウの袖口を引いた。

「景澄……あの日は、私が軽率だったの。助けるつもりで飛び込んだのに、結局あなたが私を庇って毒を飲んでしまった……ごめんなさい。」


 景澄ケイチョウは静かに首を振り、持っていた茶と菓子を卓に置くと、まっすぐ秋音を見つめて言った。

「気にするな……君が私のために来てくれた。それだけで、私は嬉しかったんだ。」


 秋音シュウインは唇を噛みしめ、ためらいがちに続ける。

「でも……元々景澄ケイチョウが父上のもとへ行ったのも、私が『宮を出たい』って言ったからじゃないの?」


 さらに言葉を重ねようとした瞬間、景澄ケイチョウはすっと割り込んだ。

「理由なんてどうでもいい。大事なのは――君がどこへ行きたいかだ。私は、君が望む場所ならどこへでも連れて行く。」


 景澄ケイチョウは突然、両手を机に突き、首を左右にぶんぶん振りながら子どもみたいに甘えた。

「ねえ、秋音シュウイン。もう三皇子府は手に入ったんだし、秋音の好きなように飾り付けたり整えたりしてみない?」


「えっ……いいの?」

「もちろんだよ。秋音があそこの主なんだから!」


 いつもなら景澄のこんな言葉に顔を真っ赤にする秋音。だが、この時ばかりは頬を染めるだけではなく、少し言いよどんでしまった。

「……でも、もし私たちが別れることになったら……次のお嫁さんが気に入らないかもしれないでしょ?」


 その瞬間、景澄の笑顔はすっと消えた。


 控えにいた侍衛・五は、思わず視線を逸らし、額に手を当てる。

 ――殿下、どうかご自重を……ここで癇癪を起こしたら、せっかくの流れが台無しですよ。恋の道はまたまた長くて、険しいんですからねぇ……


 景澄ケイチョウは、無意識のうちに机の下で拳をぎゅっと握りしめ、それから作り笑いのように整いすぎた笑みを浮かべた。

弱水ジャクスイ三千サンゼン、ただ一瓢イッヒョウを飲む――」


 ……えっ。彼もこの言葉を知っているなんて。だけど……


「でも、帝王の家に生まれた人が妻をひとりだけにしたら、跡継ぎの務めはどうなるの?もし景澄が皇帝になったら、なおさら一人の妻だけなんて許されないんじゃない?」

 秋音シュウインは苦笑いを浮かべた。その笑みは切なく、どうしようもない無力さを帯びていた。


 ――胸にしまっておけばいいと分かっている。きっと最後まで続かないかもしれないとも分かっている。期待しないことこそ女の処世術だと分かっているのに。

 それでも、どうしても彼の口から直接聞きたくなってしまった。

 景澄ケイチョウの答えは、悲嘆か、弁解か――?


 秋音は思わず息を詰めた。


 だが彼は、迷うことなくはっきりと言った。

「私が証明してみせる。たとえ私が皇子でも、皇帝でも、ただの平民でも――私は一人の心を得て、白首まで決して離れずにいる。」


 その瞬間、秋音シュウインの瞳には本当に景澄ケイチョウしか映っていなかった。

 まるで、彼の瞳がいつもそうであったように――ようやく秋音も、彼だけを見つめることができた。


 瞳にただ一人、愛しい人だけを宿す。

 その光景がどれほど美しいものか、景澄は幾度となく伝えたくてたまらなかった。

 ――それは、春に咲き誇る桜の花。

 夏に燃えるように太陽を仰ぐひまわり。

 秋に鮮やかに散りゆく紅葉。

 そして、冬の厳しさの中で凛と咲き誇る一輪の梅。

 それほどに、君は美しく――四季の彩りさえも凌ぐほどに。


 翌日。

 秋音シュウイン景澄ケイチョウは沈府を後にし、新しく与えられた三皇子府へと移った。

 門前で待っていたのは、沈言シンゲン林蕭リンショウだった。


「お兄さま!どうしてここで待ってるの?一緒に沈府から出ればよかったのに!」

 秋音シュウインはぱっと顔を輝かせ、沈言のもとへ駆け寄る。

 その笑顔を見た景澄ケイチョウは、結婚してからの一週間で見たどの笑顔よりも明るいと感じ、思わず眉をひそめた。


「今日は林蕭リンショウ少尉が来ると聞いてね。彼とは旧知の仲だから、一緒に来たんだ!」

 沈言シンゲンはそう言いながら、当然のように秋音の頭を撫でる。

「ここ数日忙しくて家にも帰れなかったし……秋音に会えなくて、兄さんも寂しかったんだ。」


 景澄ケイチョウの笑みはそこで完全に消え落ちた。

 今、秋音は沈言の腕に自分から絡みつき、心底幸せそうに笑っている。


 ――腕を組むな。頭を撫でるな。そんな笑顔も……全部、私の前だけでしてほしい。



 侍衛・五はあわてて肘で景澄ケイチョウをつつき、声を限界までひそめてささやいた。

「殿下、顔!相手は兄弟ですよ!」


 景澄ケイチョウは深く眉を寄せ、ちらりと鋭い視線を返すと、口元を手で隠しながらぼそり。

「……実の兄弟じゃないだろ!」


 五は姿勢を正し、唇だけを動かしてぎりぎり声にならない声を絞り出す。

「殿下……ひと言申し上げます。皇子妃殿下の印象をさらに悪くしたくないなら――もう少しお心を広く。」


 景澄ケイチョウはふいと顔をそらし、何事もなかったかのように笑みを浮かべて一歩前へ進み出た。

沈言シンゲン、久しいな!」


「三殿下、ご機嫌よう。」

 沈言シンゲンは恭しく拱手して礼をとる。


「我らの間柄で、そんな堅苦しい挨拶は要らぬ。秋音シュウインの親族であるお前は、すなわち私の親族でもあるのだから。」

 景澄ケイチョウは品よく微笑みながらそう告げ、視線を林蕭リンショウへ移す。

「……林蕭リンショウ、お前も来ていたのか。決心はついたのだな?」


 林蕭リンショウはすぐさま片膝をつき、拱手して声を張り上げた。

「はい――この身、三皇子殿下にお仕えし、三皇子妃殿下を命に代えても必ずお守りします!」


「えっ?私を守るって……どうして?」

 秋音シュウインは首をかしげ、不思議そうに問いかける。


 景澄ケイチョウはにこりと笑い、柔らかく答えた。

「考えてみたんだ。新しい府に移れば、秋音ももっと自由に歩き回れる。もう宮中のように縛られる必要はない。だからこそ、お前を守るために護衛をつけたんだ……彼は林将軍の次子、林蕭リンショウ。かつて禁軍の少尉を務めていた男だ。」


「…………!」

 秋音シュウインの目はまん丸になった。

 ――そんな立派な人が、わざわざ私の護衛に?いや待って、それこそ大問題でしょ。禁軍の肩書きを投げ捨ててまで三皇子府に?……正直ちょっと、脳筋じゃない?


 もちろん口には出せない。これはあくまで、彼らとの取り決めなのだから。


 秋音シュウインは深く息を整え、礼を失しないように丁寧に会釈した。

「林少尉、どうぞよろしくお願いいたします。」


 林蕭リンショウの顔は一気に赤くなり、あわてて口を開いた。

「皇子妃殿下……もう少尉ではありません。林蕭リンショウとお呼びください!」


 景澄ケイチョウは三皇子府の門前に立ちながら、胸の奥に小さなざらつきを覚えていた。

 ――これ、もしかして自分で情敵を招き入れたんじゃないか? ……ないよね。


 秋音シュウインは楽しげに府へ足を踏み入れようとする。沈言シンゲン林蕭リンショウもそれに続いた。

 だが景澄ケイチョウだけはその場に立ち尽くし、わけもなく心が重くなって、思わず俯いた。


 そのとき。

 秋音シュウインがぱっと振り返り、嬉しそうに駆け戻ってきて、景澄ケイチョウ左袖ひだりそでをきゅっと掴んだ。

「景澄、行こう!一緒に新しい家を見に!」


 ――家。

 そのひと言に、景澄の瞳はぱっと明るく輝いた。

 差し込む朝の光が横顔を照らし、この一週間でいちばん澄んだ笑みが浮かぶ。


 たとえ今は、彼女が他の誰かのために笑っていたとしても。

 それでもやはり、自分は彼女の存在ひとつで幸福になれるのだ。


 門の向こうには、白い塀と青い瓦が連なり、朝日を浴びてきらめく三皇子府が待っていた。

 宮殿ほどの豪奢さはない。だが眩いほどに輝いていた――まるで、これから始まる日々を祝福するかのように。


 ーーーーーーー

 ①景澄の誓いの言葉「私は一人の心を得て、白首まで決して離れずにいる」は、漢代の楽府民歌『白頭吟』に由来する表現である。

「願得一人心、白首不相離(願わくば一人の心を得て、白首まで相離れず)」という句で知られ、才女・卓文君タクブンくんが夫・司馬相如シバショウじょに側室を迎えることを諫めて詠んだと伝えられている。

 一途な愛と貞節を象徴する中国古典の名句として、後世に広く引用されている。

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