第9話 甘く熱い衝動は、実は二人分!

「よかろう。」

 皇帝は軽く手を振り、大声で命じた。

「秦総管、禁軍の少尉ショウイ林蕭リンショウを呼べ!」


 禁軍――それは皇帝直属の精鋭部隊。その少尉・林蕭リンショウは、かつて皇帝の旧友であった林将軍の息子であり、武の腕にかけては朝廷で二番目と謳われる男。いや、彼の前で「第一」を名乗れる者など、誰ひとりいないだろう。


 謝景澄ケイチョウは悟った――これが初めて、父に真正面から視線を向けられた瞬間だと。

 母妃が亡くなって以来、彼と父との関係は氷のように冷え切っていた。自分が父を直視できないように、父もまた彼を直視できなかったのだ。


 本当なら、まだ力を隠しておくつもりだった。すべてが落ち着き、秋音シュウインに迷惑をかけないと確信してから、その時に初めて自分を示すつもりでいた。

 だが、秋音シュウインが「宮にはいたくない」と言ったのなら……もう理由は必要ない。


 これからどれほどの嵐が待ち受けようとも、謝景澄ケイチョウはそのすべてを受け止め、彼女の前に立ちはだかると決めていた。


 林蕭リンショウは、何が何だかわからないまま呼び出され、慌てて駆けつけた。

「陛下、謹んで拝謁いたします。陛下、臣をお呼びとはいかなるご用でしょうか?」


林少尉リンショウイ。今すぐこの不孝者を打ち倒せ。倒せなければお前の負けだ。たとえ打ち殺しても、責任は問わぬ!」

 皇帝は淡々とした口調で言い放つ。


「えっ……そ、それは……」

 林蕭リンショウは顔を引きつらせ、視線を逸らした。頭の中は困惑でいっぱいだ。

 ――いやいや、なんで父子げんかにまで俺を巻き込むんだ!?林家とあんたらに、そんな因縁ありましたっけ!?


「朕の命令が聞けぬのか、林少尉リンショウイ!」

 皇帝は立ち上がり、怒気を込めて指を突きつける。


「……臣、承知いたしました。」

 林蕭リンショウは左手を掌に、右手を拳にして拱手し、一礼する。


 ――これ、どうすりゃいいんだ……

 ……本気で殴り倒すべきか、それともわざと負けてやるべきか?


 林蕭リンショウがまだ迷い続けている間に、景澄ケイチョウは宦官から剣を二振り受け取った。

 そのうち一本を林蕭リンショウへ放り投げ、もう一方を手にすると、自らの袖をばっさりと斬り落とす。


 次の瞬間、両脚で剣を支えながら布を折りたたみ、それを目隠しのように結びつけ――視界を閉ざした。


 皇帝はその様子に歯ぎしりし、玉座から怒声を放つ。

「見せびらかしおって……林蕭リンショウ!遠慮はいらん、かかれ!」


 林蕭リンショウは、皇帝に名を呼ばれた瞬間、びくりと身を震わせた。慌てて構えを整え、大きく息を吸い込む。

 次の刹那、彼の剣は雷鳴のごとく疾く、豪雨のごとく荒々しく振り下ろされる。天地を裂く勢いで放たれた剣圧は、空気すら震わせた。


 対する景澄ケイチョウは、素帛で目を覆いながらも山のように静かに立ち尽くしていた。微動だにせず、剣光が迫ろうとも動じる気配はない。


 ――だがその瞬間、彼はつま先で床を軽く蹴り、身を燕のように宙へと躍らせる。

 鋭い刃が迫る寸前、紙一重でその軌道をかわしてみせた。


 林蕭リンショウは思わず声を漏らした。

「……三殿下?」


 ――病弱キャラだと思ってたのに……これ、詐欺じゃないか!?


 だが林蕭リンショウも簡単に引き下がる男ではない。心の中で驚嘆しながらも、すれ違いざまに剣を反転させ、ためらいなく二撃目を突き込んだ。


 対する景澄ケイチョウは、まるで天地の呼吸を聞き取っているかのように、袖を翻し、足取りはあくまで落ち着いている。

 そして次の瞬間、二本の指が閃き――凄まじい剣圧の中で、その刃をがっちりと挟み止めた!


「……すご。」

 林蕭リンショウが思わず小声でつぶやいた。


 その言葉を聞き取った景澄ケイチョウは、にやりと笑みを浮かべ、あえて指を離す。次の瞬間、振り抜いた剣先は林蕭リンショウ自身ではなく、その剣を狙った。


 金と鉄がぶつかり合い、火花が飛び散る。甲高い金属音が長く響きわたった。


 景澄ケイチョウは、林蕭リンショウにしか届かない声でささやく。

「……お前、私の人にならないか?」


 林蕭リンショウの顔は一気に赤く染まり、思わずためらった。

 ――な、何だこの皇子殿下ケイチョウ……俺を弄んでやがる!?


 次の瞬間、林蕭リンショウは大きく後ろへ跳び退き、宙を蹴って景澄ケイチョウの剣へと猛然と蹴り込んだ。

 だが景澄ケイチョウは一歩も退かない。


 林蕭リンショウの剣は次第に荒れ狂い、雨のように途切れぬ連撃を繰り出す。


 それでも景澄ケイチョウは目隠しをしたまま、糸に導かれるような軽やかな足取りで舞い、笑みを浮かべていた。

 彼の身のこなしは、まるで全ての軌道を最初から知っていたかのようだった。


「……そんなに私の命令を聞きたくないのか?」

 景澄ケイチョウはふいに身を滑らせ、一瞬で間合いを詰める。

 風のような反掌で剣を押さえ込み、その切っ先を林蕭リンショウの喉元、わずか一センチにまで迫らせた。

 そして、林蕭リンショウにしか聞こえないほどの小声で囁く。

「……お前の腕、私の三皇子府で――妻を守るのにちょうどいいと思うんだ。」


 林蕭リンショウは、はっと気づいたように目を見開くと、突然片膝をついた。

 剣を反手に握り、もう一方の手を拳にして合わせ、皇帝に向かって拱手礼をとる。

「陛下――臣は、負けを認めます!」


 皇帝の瞳が一瞬だけ鋭く光り、冷ややかな面持ちにかすかな驚きが走った。

 だがすぐに表情を崩し、口元に笑みを浮かべる。

林少尉リンショウイ、本当に手を抜かなかったのだろうな?」


「臣は手を抜いておりません。ただ、全力を尽くしたわけでもございません。しかし三皇子殿下もまた、目隠しをしたまま全力ではなく、終始余裕を見せておられました……正直に申し上げれば、もし殿下が目隠しを外して本気を出されたなら、私は到底勝てなかったでしょう。」

 林蕭リンショウは心中の想いをありのまま口にした。


 皇帝は手をひらひらと振り、ため息交じりに言う。

「……よい、よい。退がれ」


 その頃、秋音シュウインは後宮の学堂で、大人しく『詩経』を書き写していた。

 ――はずだった。


 白紙の上に、突如としてコメントが流れ出したのだ。

『皇帝も本当に心が冷たいな、自分の息子に毒酒を下すなんて!』

景澄ケイチョウが可哀想だよ。幼い頃から毒を盛られて育ったんだ。』

『三皇子府なんて、いずれ与えるものだったはずなのに!』

『でも自分から父帝に楯突いたら、そりゃあ面倒になるわな。』

『どうせ嫡子ちゃくしじゃないし!』

嫡子ちゃくしじゃなきゃ毒を盛られても仕方ないってこと?』

『死にはしないよ。せいぜい数日寝込むくらいさ。』


「……っ!」

 秋音シュウインは思わず筆を止めた。


 これまで目にしてきたコメントは、すべて自分に関するものだけだった。

 だが今流れているのは――まるで別の話。それも、とんでもない内容で。


 ちょ、ちょっと待って……これって……今、起こってること?

 まさか……皇帝が景澄ケイチョウに毒酒を?

 信じられない。

 景澄ケイチョウは、今ごろ夫子の下にいるはずじゃないの?


 秋音シュウインは不安と恐怖に突き動かされ、筆を握る手が震えた。

「お腹が痛いので、少し下がらせてください!」

 顔を青ざめさせながら立ち上がり、彼女はそのまま、一目散に学堂を飛び出した。


 学堂の回廊を飛び出すなり、秋音シュウインは空へ向かって大声を張り上げた。

「二?三?五?七? 誰かいるの!?」


 ……しかし、返事はない。


「一、二、三、四、五、六、七!本当に誰もいないの!?」

 あまりの必死さに、近くの烏でさえ彼女を避けるように羽ばたき、頭上を素通りしていった。


「三!今すぐ、ここに出てきなさい!」

 秋音シュウインは喉が裂けそうなほど必死に叫ぶ。


 やれやれ、とでも言うように声が降ってきた。

「わかったわかった、そんなに呼ばなくても……危ない目に遭ってないんだから静かにしなよ。殿下からは『護衛』を命じられてるけど、『おしゃべり相手』になれとは言われてないんだぞ!」

 不満げにぶつぶつ言いながら、侍衛・三はどこからともなく姿を現し、近くの樹の枝に軽やかに腰を下ろした。


 秋音シュウインはぷくっと頬をふくらませる。もっと言い返したかったが、彼は自分の部下ではない以上どうにもならない。

「三、殿下は今日、学堂に行ったの?それとも父上のところへ?」


 侍衛・三は落ち着きなく視線を泳がせ、口ごもりながら答える。

「……学堂には、行ってないよ。とにかく。」


 秋音シュウインは裳裾をつまみ上げ、そのまま駆け出した。もう侍衛・三に構っている暇などなく、とにかく一直線に走る。


 ――今の時間、皇帝は御書房にいるはず。けれど、あんな場所に私が入っていいの?

 心臓がばくばく鳴る。怖い、でも……もう考えている余裕はなかった。


 内宮を抜け、正殿へ。わかっている、こんな行動は間違っているって。


 着ている衣もあまりに目立ちすぎる。


 けれど三皇子妃であり、兵部尚書の娘である自分を、軽々しく止められる宦官や宮女はいない。


「三!早く出てきなさい!」

 侍衛・三は結局、ずっと彼女の後をついていた。もしもの時に何かあれば殿下に申し開きができないからだ。

 だが姿を現した途端、秋音シュウインは彼の衣の襟をわしっと掴み、逃がさなかった。


 ……無茶でも、怖くても。やっぱり私は、彼を置いてはいけない。

 だって――今の彼は、名目だけでも、私の夫だから。

 唇を噛みしめ、駆け出す胸の内に渦巻くのは、恐怖ではなく……それを上回る、甘く熱い衝動だった。


 けれど秋音シュウインは、まだ気づいていなかった。

 その甘く熱い衝動は――二人分の想いが重なり合ったものだということに。


 ーーーーーーーー

 後書き:

 本当は一話でまとめたかったのですが、気づけば七千字を超えてしまったので、可読性を考えて二話に分けました。

 そして、景澄ケイチョウの束髪デザインを描いてみたので、ぜひこちらもご覧ください!

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440265367226

 今回の景澄はまだ衣装の細部が決まっていないので、髪型や表情で個性を出してみました。描きやすかったけれど、とても気に入っています。みなさんにも気に入ってもらえたら嬉しいです~

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