第3部-第23章 母の老い
夏の終わり、台所から聞き慣れない音がした。
包丁を持つ母の手が小刻みに震えて、まな板の上の人参をうまく切れないでいた。
「どうしたの?」
「ちょっとね、最近手がしびれるのよ」
笑ってごまかそうとするが、その額には薄く汗がにじんでいた。
それからというもの、母の動作が少しずつゆっくりになった。
洗濯物を干すのにも時間がかかり、階段を上るときは手すりを使うようになった。
買い物から帰ると、「はあ、疲れた」とソファに腰を下ろし、しばらく動かないことも増えた。
ある日、夕食の準備中に母が息を切らして台所の椅子に座り込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫よ……ちょっと貧血みたい」
冷蔵庫から水を取り出して渡すと、母は一口飲んでから笑った。
「もう若くないからね、仕方ないわ」
その笑顔はいつも通りだったが、浩一の胸に小さな不安が広がっていった。
夜、こたつに入りながら母が言った。
「ねえ浩一、もしお母さんが倒れたら……どうする?」
「そんなこと言うなよ」
「いや、本当に。貯金だって無限にあるわけじゃないし」
浩一は黙ってテレビの音に耳を向けた。答えられなかった。
翌日、母は病院へ検査に行った。結果は「年齢相応の衰え」だったが、医者は生活習慣の改善と定期的な検査を勧めた。
母は帰宅しても明るく振る舞っていたが、買い物袋を下ろすときの腰の動きが、以前よりもずっと慎重になっているのを浩一は見逃さなかった。
――もし母がいなくなったら、自分はどうなるのか。
その問いが、夜中に目を覚ましたとき、天井の闇から降りてくるようになった。
答えは、どれだけ考えても見つからなかった。
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