4:こたえ

 昼過ぎの雨が上がった森殿しんでんは、濡れた木々の匂いがまだ空気に残っていた。

 苔が水を含み、石段はしっとりと冷たい。どこかで鳥が羽音を立て、遠くで香炉の金具が軋んだ。


 ユエは、板材の束を片腕にぶら下げ、森殿裏の小道を抜けていた。

 仕事を終えて家に帰るまで、ここを通る理由はない。けれど、なぜか足が勝手に寄ってしまう場所があった。

 回廊の隅。香の間の格子窓。その向こうに、今日も──いた。


「っと、また来ちゃったな俺」


 独り言めいた声でそう言いながら、ユエは壁にもたれた。足先で土を軽く蹴る。泥にまみれた音が木霊する。

 視線は自然と格子の奥へ。煙と光の向こう、白い背。今日も変わらない。


「兄ちゃんには『またかよ』って呆れられた。木こりんとこの爺ちゃんにも『恐ろしいところに近づくな』とか言われるし」

「……なあ、お前、そんなに怖いか?」


 香の奥、返事はない。いつも通りだ。けれど、それが嫌ではなかった。


「まあ、怖くはないか。動かねえし。喋らねえし。うん、たぶん俺の方がうるさいな。悪いな」


 笑いながら、ちょっとだけ格子に近づく。

 足音ひとつ立てるのも、香の間に向かってはどこか緊張する。それでも、風が通るたびに、そこで彼が〝聴いている〟気配だけが確かだった。


「虫笛、また壊れた。また作るけど……お前、あれ好きだったろ?」


 小さく笑って、また背を壁に預ける。自分でも何を話しているのか分からない。ただ、喋ってしまう。

 誰かがそこにいると分かってしまったら、もう黙っていられないのかもしれない。


「……いや、好きだったかどうかは知らねぇけどさ」

「でも、なんとなく、耳動いてた気がするんだよな。こっち向いてたような、そんな……気のせいだとは思うけど」


 自嘲気味に息を吐いて、それでも話は止まらない。


「昨日の雨、うるさかったよな。お前、こういうとこで座ってて、うるさくないのか?」

「ていうか、お前って誰なんだろな。〝織祀しきさま〟って呼べって教わってるけどさ、俺は正直よく知らねぇんだよな。名前も、歳も、声も、顔も、なーんも分かんねぇ」

「〝律の御方おんかた〟なんて仰々しく呼ばれてさ、誰も寄りつかなくて、怖いものみたいに言われて……」


「──でも、いるんだよな、ちゃんと」


 それだけ喋ってから、ユエはふと黙った。

 香の奥。微動だにしない白。煙に包まれた静けさ。

 彼はぽつりと、問いかけるように言った。


「……また、来ていいか?」



 織祀は、座していた。

 香は満ち、音は流れ、律は整っている。

 けれどその日、音はひとつだけ、〝まっすぐ〟届いてしまった。


 ──また、来ていいか?


 その言葉はただの音ではなかった。

 誰かが、誰かに向けて放った、問いだった。

 その音を、織祀の中の何かが〝選んでしまった〟。


 本来、器は応じない。

 語らず、意味を与えず、ただ律を通すだけ。

 けれどその瞬間。


 ──頷いていた。


 呼吸と変わらぬほどの動き。香の膜を揺らさない、ごくごく微かな首の落ち。

 だが、それは確かに答えだった。



 香の奥で律が微かに軋んだ。

 香炉の煙が、ふと一筋だけ別の方向へ流れた。

 律はまだ保たれている。けれど、その応答は確かにそこにあった。



 格子の外。

 ユエは何気なく目を向けて──その瞬間、眉を寄せた。


「あれ、今──動いた?」


 じっと目を凝らす。煙、光、影。

 見間違いかもしれない。風かもしれない。

 でも。


「……今のはさすがに……気のせいじゃねぇよな?」


 笑って、肩をすくめる。

 けれど、どこか嬉しそうだった。

 返事なんて、期待していなかった。なのに──


「ありがと」


 それだけ小さく呟いて、ユエは立ち上がる。

 今日も満足げに帰っていくその背に、もう迷いはなかった。



 香の中で、織祀は、再び静かに座している。


 律は破れていない。香は流れ、煙は薄く満ち、座はまだ崩れていない。

 けれど、今日──


 器は、問いに応じた。


 語らなかった。けれど、意味は生まれた。

 それは律の構文を、静かに、確かに、揺らしはじめていた。

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