3:傾ぐ

 風の音にまじって、低く虫が鳴いていた。

 湿った回廊に陽はもう届かず、木々の隙間からこぼれる夕光が、斜めに伸びて足元を切り分けている。


 ユエは、またそこにいた。

 森殿しんでんの裏手、香の間を囲む回廊の格子のくぼみ。今日も荷運びのついでに、と言い訳を心の中に浮かべながら、そこに立っていた。


「……なあ。お前、いつもここにいるのか?」


 声は小さく、風と虫のあいだに紛れるような音だった。

 格子の奥、煙の向こうの小さな白い後ろ姿は、今日も微動だにしない。


 それでも良かった。

 ただ、そこに彼がいると、自分の声が聞かれていると。そう思えていることが、ユエにとっては充分だった。


「虫笛、今日は忘れた」

「っていうか、作り直してる。前のやつ、割れた」


 ユエはその小さな背に向かって、語るともつかぬ声を投げた。



 香の中。

 織祀しきは、相変わらず座している。


 香の層は厚く、風は緩やかに循環し、空間は律に満ちている。


 音はすべて届いている。

 風の通り道、香の折れ、回廊の響き──

 それらを読み取る耳は、幾度も訓練されている。


 音の起点を知ることは、うつわの務めの一部だった。

 けれど「知っても、応じない」。それが香の座に座す者の戒。

 あの日──音の輪郭に、耳が向いてしまったことだけが、許されなかった。


「……雨、降るかもな」

「こっちは涼しいな、香のせいか?」


 断続的に差し込まれる声。それは、ただの音ではなかった。

 空気の揺らぎが、風ではなく〝誰か〟のいる場所から届いたのだと──もう、織祀の耳は知ってしまっている。


 そのときだった。


 何度目かの声が格子の向こうから届いた瞬間、織祀の身体の重心が、わずかにずれた。

 それは意図ではなかった。むしろ、それは意思なき応答だった。重さのない一瞬のゆらぎ。

 だが確かに、首が、ごくかすかに──


 ──かしいだ。


 香の煙がわずかに揺れた。

 律の中に、違う風が混じった。


 織祀はすぐに体を戻した。香を乱してはならない。

 だが、その時点でもう、遅かった。

 向いてはいけない方向に、器の感覚が応じてしまった。



 一方、格子の向こうで、ユエは眉を寄せた。

 煙越しに見える白い背中──その一部が、ほんの刹那、動いたように見えたのだ。


 見間違いかもしれない。

 煙の揺らぎ、夕光の屈折、錯覚──


「……今、動いた?」


 返事はない。


 ユエはしばらくそこに立ち尽くしていたが、やがて何も言わず、足音も静かにその場を離れた。



 香の間には再び静寂が戻る。


 だが、織祀の中では、耳が音の方向を覚えていた。

 ユエが葉を踏む足音。遠ざかっていく背中。それに合わせて僅かにたわむ、風のめぐり。

 応じない。けれど追ってしまっている。

 それが確実に、律の中に傷を残していた。


 世界は、ほんの少し傾いた。

 器の背の中で、名前を持たぬ誰かの音が、律の膜を押していた。

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