第53話 別れをこえて、また歩き出す
釣りギルドを出ると、
辺りはもう昼と夜のあいだの曖昧な時間に沈んでいた。
西の空にはかすかな橙が残り、
雲の縁だけがほんのりと金色に縁取られている。
街の屋根や石畳は紫がかった影を伸ばす。
光と闇がせめぎ合うその景色は、
一日の終わりを告げると同時に、
これから訪れる静かな夜を
そっと迎え入れているようだった。
僕は家へと歩き出す。
「チョリオに、
この顔を見られないようにしないとな……」
涙で赤くなった目を袖でごまかしながら、
何度も深呼吸する。
胸の奥には、まだ温かい余韻が残っていた。
石畳の向こうから、
一人の人影がこちらに近づいてくる。
えーと、確かあの人は……。
「ああ、お帰りになられたのですね。
ご無事で何よりでした」
気さくな笑みと、
どこかエレガントな立ち居振る舞い。
その人は――
ハーゲン商会のコペンさんだった。
「ええ、どうも……」
まだ別れの余韻を引きずっていたせいか、
うまく返せない。
「この後、何かご予定でも?」
コペンさんが軽やかに問いかける。
「あ、いえ……ちょっと家に人を待たせています」
僕は少し言いよどむ。
「そうですか……」コペンさんは一度視線を落とし、
しかしすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「もしよろしければ、
このすぐ近くに私どもの商会があります。
少しお話など、いかがでしょう?」
ほんの数秒、迷った。
胸の奥でまだ別れの残響が疼いている。
だけど、今は――
人と会話することで、
気持ちを前に進められる気がした。
ハーゲン商会はすぐ近くだった。
コペンさんに案内され、通された部屋は、
木製の温かみのある調度品で統一された、
落ち着いた雰囲気だった。
ふかふかのソファーに腰を下ろすと、
すぐに商会の若い女性がお茶を運んできてくれた。
香ばしい匂いが立ち上り、少しだけ緊張が和らぐ。
「さて、何か気になることがおありではないですか?」
コペンさんが、
優しげな笑みを浮かべて僕に問いかけた。
僕は少し考えを巡らせる。
エレレ村へのルートのことだろうか?そう思い、
僕はコペンさんの目をまっすぐ見て尋ねた。
「エレレ村への道は、もう一つあったんですね」
「ええ、そうですね」
コペンさんは、僕の言葉に小さく頷いた。
その表情には、
すべてお見通しだと言わんばかりの余裕がある。
「理由は分かりますか?」
「祠……ですか?」
僕が答えると、
コペンさんは満足そうに微笑んだ。
「ええ、そうです。
ですが……そもそもシュン坊のことを
フィルネルさんにお話ししたのは、私です」
コペンさんの言葉に、僕の思考は一瞬停止した。
「トマの町で私に直接いろいろと
聞いた方が早かったのでは?」
その言葉は、僕の頭の中でバラバラだった
情報が一つの線で繋がるのを助けた。
「ということは……
ギルドマスターがあえて伏せてたと?」
「ええ、そうなりますね」
コペンさんは、楽しげに笑って言った。
その笑顔は、どこか悪戯っぽい。
そうか……。
最初から知り合いの商人だと聞いていたのに、
フィルネルさんはトマの町の
コペンさんのことは言わなかった。
最初からコペンさんに話を聞きに行った方が、
よほど確実だっただろう。
「ふぅー……」
僕は深くため息をついた。
「試されていたんですかね……」
僕がぼそりと呟くと、コペンさんは
「ええ、そうみたいですね」
と、あっさり肯定した。
「いろいろ大変だったことは
カサドール・ゲレシヤから聞いてますよ」
「大変なんてものじゃなかったですよ!
何度死にかけたことか……!」
僕は思わず声を荒げてしまった。
エレレ村への旅路が、
いかに過酷だったかを思い出すと、
こみ上げてくるものがあった。
コペンさんは、
そんな僕の様子を面白そうに眺めている。
その視線が、なんだか悔しかった。
コペンは柔らかく笑い、
膝を組み直してこちらを見た。
「だが、無事に戻られた。
まずはそれを喜びましょう。
話してくださって、ありがとうございます」
コペンさんは……
最初からご存じだったんですね」
問いかけると、コペンは軽く笑った。
「ええ。ですが、やり方は人それぞれです。
ギルドマスターのフィルネルさんも、
君を試す理由があった。
君のような若者が人を率い、
訪れ、別れを惜しむほどに
人を想える──
それは、とっても貴重な経験ですよ。
あなたはまだ若い。
でも今日のような旅を経て、
少しだけ世の中の見方が変わったはずです。
人を守るとは何か、仕事とは何か──
小さな答えを積み重ねることです」
穏やかな励ましに、僕は小さく笑った。
「ええ、そうですね。ありがとうございます。
では、そろそろ戻ります」
立ち上がると、胸の奥がまた少し疼いた。
ふと、どうしても気になることが口をついて出た。
「……もし帰りのルートが違っていたら、
あんな目には遭わなかったんでしょうか……」
コペンは一瞬だけ目を細め、ゆっくりと答えた。
「分岐した選択肢が、
枝分かれしてまったく別の結果を生むのか……
それとも、分岐のように見えて
結局は同じ結末に収束するのか。
正直、私にも分かりません」
小さく息をついて、彼は言葉を続けた。
「ですが――
あの経験があったからこそ、
ミドルガードの皆さんは確かに“得たもの”があった。
少なくとも、私はそう思っています」
コペンさんは僕を見送ると、ふと一言付け加えた。
「もし、また何かあれば声をかけてください」
僕は深く頭を下げ、外に一歩踏み出す。
廊下を抜けると、夕暮れの風が顔をなでる。
――戻らなきゃ。僕は家へと歩き出した。
「おーい、チョリオ、お待たせ!
夕飯食べに行こうか……」
ドアを開けながら声をかける。
……返事がない。
「あれ? いない……
あれだけ家にいろって言ったのに、
あいつどこ行ったんだ?」
ベッドの下を覗き込み、窓の周りを見て、
外の廊下に顔を出し、天井まで見上げる。
「……まさか、本当に言うこと聞かずに
勝手に出てったんじゃ……」
小さく息をついて、部屋に戻る。
「まあ、ちょっと遅くなっちゃったしな……
悪いとは思ってるよ……」
ドサリ、とベッドに横になり、天井を見つめる。
部屋の中は薄暗く、
物音といえば自分の衣擦れだけ。
……静かだ。
目を閉じる。
旅に出る前までは、
こうしてひとりでいるのは当たり前で、
むしろ気楽ですらあった。
けれど今は――
胸の奥にひんやりとした空白が広がっていく。
笑い声も、足音も、軽口のやりとりもない。
あの賑やかさを知ってしまった今、
ただの沈黙がやけに重たい。
目を閉じても、
耳の奥にまだ仲間たちの声が残っている。
「……バルクの笑い声も、
ガイルの落ち着いた声も、
もう聞こえないんだな……」
小さく呟いた途端、
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
ミナの、ちょっと棘のある冷静な声。
フローラの、おっとりとした調子で場を和ませる声。
そしてヒューの、時々何を言っているのか分からないけれど、
不思議と安心させられる低い声。
その全部が、耳の奥でまだ反響しているのに、
現実の部屋はあまりにも静かだった。
「……もう、ないんだ」
小さく呟いて、自分で自分の声に驚く。
やけに震えて聞こえた。
こんなにも、声って――
ぬくもりになるんだな。
旅の中で、僕はようやくそれを知ったのかもしれない。
お腹は空いているのに、
起きて食べる気がしなかった。
「……もう今日はこのまま寝ようかな……」
ベッドにになり、暗い天井を見つめると、
また仲間たちの笑い声が蘇ってきて胸が締めつけられる。
しばらくそうしていると――
ドンドン!
ドアを叩く音が響いた。
「……チョリオが帰ってきたかな?」
僕はむくりと起き上がる。
だが、すぐに首をかしげた。
「……あれ? 鍵閉めちゃったかな?」
袖で慌てて涙を拭ってから、ドアノブに手をかける。
ガチャリ。
「いよう! お帰り! 無事に帰ってきたな!」
そこに立っていたのは――
釣りギルドの先輩、ペーターだった。
「……あれ? 先輩、どうしたんですか?」
思わず間の抜けた声が出てしまう。
ペーターは大きな腕を組み、にやりと笑った。
「なーに、後輩が旅から戻って、
ちょっとおセンチになってんじゃねえかと思ってよ!
様子を見に来てやったのさ!」
そして、僕の顔をじろっと覗き込む。
「……ってやっぱり
ちっとウルウルきてたんじゃねえの?」
「ち、違いますよ!
目にゴミが入っただけで……!」
僕は慌てて手を振る。
「ははっ、強がるなって!
まあいいからいいから!」
ペーターは僕の肩をドンと叩いた。
「ほら、メシ食いに行くぞ!」
「えっ、でも……もう一人ツレが……」
「いいんだよそんなの!」
ペーターは豪快に笑って片手を振った。
「なんか持ち帰りゃいいだろ! ほれ行くぞ!」
有無を言わせぬ調子で僕の腕をぐいっと引っ張る。
「あ、ちょ、ちょっと……!」抵抗する間もなく、
僕の体はずるずると廊下へと引き出されていった。
石畳を並んで歩く。
街はもう夜の気配に包まれて、
灯りの点いた窓からは人々の
笑い声や器のぶつかる音が漏れていた。
僕は歩きながら、ふと左右に目をやる。
――チョリオがどこかで野垂れ死にしてないか、
そんな馬鹿な心配をしてしまう。
まあ、ほんの数時間しか経ってないんだけど……。
「ペーター先輩、どこ行くんですか?
いつものとこは、この時間じゃもう閉まってますよ」
「まあ、ちっと遅いからな」
ペーターは大股で歩きながら、得意げに胸を張った。
「俺の知ってるとこでな、
メシも出してくれるいい飲み屋があるんだよ!」
「は、はあ……。僕、あんまり飲めないですけど」
「オゴリだから気にすんな!」
ペーターは腕を組んで笑い飛ばす。
「……相変わらず、人の話聞かないな」
僕は小声でぼやいた。
その瞬間、ペーターが不意に立ち止まった。
「お! ここだここだ!」
赤い提灯のような灯りが下がった店先を指差し、
彼は振り返りもせずドアを押す。
「入るぞ! ほら!」
僕は思わず溜息をつきつつも、後に続いた。
店に足を踏み入れた瞬間、
ざわざわとした活気に包まれた。
笑い声や皿の音が飛び交い、
カウンターの向こうからは弾けるような声が響く。
ふと目をやると、
明るい顔立ちの女性客がジョッキを掲げ、
隣に立つ店員と身振り手振りを交えて盛り上がっていた。
「だからさぁ~!
ウチの旦那がまた魚釣ってきたんだけどさぁ!
さばけもしないくせに“俺の獲物だ!”とか言うんだよ?
バッカじゃないのって思わない~?」
「えーマジっすか!?
それ完全に“調理スキルLv.1”っすよ!
しかも奥さん任せって、
旦那さんちょっと甘えすぎじゃないっすかぁ?」
「でしょでしょ!?
あたし一人で台所で格闘してんのに、
後ろで『まだか~?』とか言ってんのよ!」
「いやそれ完全にボス戦中に後衛が待機してるやつっすね!
“まだかー? ヒールまだかー?”って!
マジ笑えるっしょ!」
「ぶはっ! それそれーっ!」
女性客はテーブルを叩いて爆笑し、
周りの客もつられて笑い声を上げる。
チャラっとした店員の軽妙なツッコミと、
客の愚痴が漫才のように噛み合って、
場の空気を一層にぎやかにしていた。
……そして、その店員の声に僕の耳はピクリと反応する。
どこか聞き覚えのある調子、あの軽すぎるノリ。
「……まさか、そんなはず……」
けれど、次の瞬間――
「あっ! チョリーっす!
いらっしゃいませぇーーー!」
……やっぱり聞き慣れた声が響いた。
「え……?」振り向いた先。
そこには、腰にエプロンを巻き、
片手でお盆を軽々と扱うチョリオの姿があった。
髪はちょっと跳ね気味、
口元にはいつもの調子の抜けた笑み。
「チョ、チョリオ!? なんでお前ここに……!
ていうか、あれほど家にいろって……!」
僕が口をあんぐり開けると、
チョリオは肩をすくめて、チャラっと片手を振る。
「え?いやーフィリオ先輩!
ずっと家で待ってろとかマジ無理っしょ?」
「おまっ……!」僕は頭を抱えた。
「あれ?知り合い?」
「いやさっき言ってたツレってこいつのことで……」
ペーターが大笑いする。
「ガハハ! おいフィリオ、コイツ最高じゃねえか!
待ってろって言われてんのに飲み屋でバイトってよ!」
「笑い事じゃないですよ!」
僕は声を荒げたが、チョリオは全然悪びれない。
「ま、まあまあ落ち着いて!
とりあえず席空けときますから、
座ってってくださいっす!」
「おや? コイツの知り合いかい?」
店の奥から、ずんぐりした体格のマスターが現れた。
腕を組んでニヤニヤとこちらを見やる。
「いやー、ちょうど良かったよ。
前に働いてたやつが辞めちまってね」
「そしたらこいつが、金もないのに道具屋でゴネててさ。
“面白いやつだな”と思って声をかけたんだ。
聞いたらダッカールに来たばかりで、
家に帰る道も分からなくなったとか言うじゃないか」
「そう! そーーーなんすよ!
オレシー、スカウトされちゃった? みたいなー?!」
チョリオはジョッキ片手に、肩をすくめて満面の笑み。
「メシも食わせてくれるっていうし、
もうマジ神対応っしょ!
んでそのまま“住み込みで働かね?”って言われて、
“やるっきゃなくね!?”ってなったんすよねー!」
「……お前、何やってんだよ……」
僕は思わず額を押さえた。
「いやいやいやー、安心してっす!
オレシー超人気出てんすから!
お客さんから“チョリくんまた来るね~”とか言われて、
マジ指名とまんねえっす!」
「指名って……お前はホストか」
「いやいや! オレ接客エースっしょ!?
ここ、俺がいなきゃマジ店まわんねーって感じ?」
チョリオは自慢げに胸を張り、
客席からは「チョリくんカワイイ~!」
なんて声まで飛んでくる。
ペーター先輩はというと、
そんな様子を見ながらゲラゲラ笑っていた。
「はっはっは! おいフィリオ、
こいつ案外適職なんじゃねぇのか?」
「適職どころか……悪化してませんか……?」
僕はため息をついた。
そんなこんなで行方不明のチョリオは無事(?)発見され、
しかも仕事も住処も得てしまったのだった。
食事を終え、
酒の酔いもほんのり回ったところで帰ることにする。
「じゃあなチョリオ。
何かあったら釣りギルドに来いよ」
「ダイジョーブっすよ!
あ、オレシーの荷物、
明日持ってきてもらってもいいっすよねー?」
チョリオが悪びれもなく言う。
「……お前ね……」思わず頭を抱える。
だが、それもまたチョリオらしい。
「分かったよ」苦笑しながらそう答えた。
そのまま家に帰る道すがら、
胸の奥に残っていた寂しさも、
少しだけ和らいでいることに気づいた。
部屋に閉じこもっていたら、きっとまだ沈んだままだった。
けれど先輩に無理やり連れ出されて、
チョリオの騒がしい姿を見て、
酒場の喧噪に混ざっているうちに――
胸の重さが、少しずつほどけていくのを感じた。
別れの痛みが消えるわけじゃない。
でも、僕はきっとまた歩いていける。
そう思えたのは、今夜のこの賑やかさのおかげだった。
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