第32話 憤怒の花、咲き乱れて
一方、カサドール・ゲレシヤも追い詰められていた。
前方に立ちはだかるのは、クリプトン配下の騎士級魔人・アルゴン。
漆黒の鎧が太陽の光を反射し、威圧的な存在感を放つ。
その隣には、ヨード配下の騎士級魔人・クロルが、瀕死の状態から回復し、
鋭い眼光で戦場を睨みつけていた。
「くっ……ここまでか……!」
アルファが唸り声を上げ、槍を握る手に力を込める。
「親分、まだですぞ!」
ガンマが槍を構え、デルタも並んで身構える。
だが二体の魔人が繰り出す剣撃の前に、
三人の槍は押し返され、吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられる衝撃で、砂埃と小石が舞う。
「ぐあっ! くっそ、押される!」
アルファの声が砂煙の中に響く。
転がる衝撃に巻き込まれ、ベータとゼータも吹き飛ばされる。
「わわわっ、うぅ……!」
ゼータは両手で顔を庇いながらも、
咄嗟に魔力を制御し、身をひるがえす。
「ベータはん、大丈夫どすか?」
アルファは荒い息をつきつつも、仲間を気遣い目を配る。
「……ふうっ、なんとかっ!」
ベータも必死に立ち上がろうとするが、
前方から迫るアルゴンとクロルの剣撃の波に、
じりじりと後退せざるを得ない。
「くそっ、じっとしてられっか……! 後ろに下がるなぁ!」
アルファは地面を蹴り、再び槍ぶすまを試みる。
しかし、衝撃で吹き飛ばされた仲間たち
の位置を気にせざるを得ず、
戦線は徐々に乱れ、後方へ押し戻されていく。
ガンマとデルタも息を切らし、互いに視線を合わせる。
「ここで耐えきるのが肝要でござるな」
「然り……焦れば、命を散らすのみ」
双子の言葉に、戦況の緊迫感が一層増す。
戦場は砂煙と魔力の光で歪み、
仲間たちの呻きと魔人の怒声が入り交じる。
この陣形の崩れ――
もしここで踏ん張れなければ、
カサドール・ゲレシヤは一瞬で壊滅しかねない。
――しかし、アルファは槍を握り直し、目の奥に決意を宿した。
「くそ……くそぉ……俺たちは、ここで死ねるか!」
その間も、エプシロウは孤軍奮闘していた。
敵の連撃を正面から受け止めるのではなく、身のこなし一つで交わす。
ネオンの槍とラドンの黒刃が交差し、
空気を裂く衝撃波が戦場を震わせる中、
彼はあくまで冷静に、しかし圧倒的な速度で動き回った。
「かかってこい、相手は俺だ」
低く渋い声が戦場に響き渡る。彼の手元に集まる魔力の気配が、
周囲の魔物たちの動きを微妙に狂わせた。
攻撃は次々と迫るが、
エプシロウの体は流れる水のように滑らかに回避する。
避けながらも、わずかな間合いの隙間を利用し、
敵を引きつける動き
――まるで戦場の要のように、彼一人が全ての防衛の中心を担っていた。
「……まだまだ、引き下がるわけにはいかぬ」
心中でつぶやきつつ、エプシロウは敵の脚を狙った
蹴りや腕を切り裂くような動作で牽制し、
仲間が後方で立て直す時間を稼ぐ。
砂煙と魔力の光の渦の中で、
彼の瞳だけが冷徹に輝き、孤独な戦いをものともせず、
まるで戦場そのものを支配するかのような威圧感を放っていた。
眠っている怒りの人格は、目を閉じれば頭の中で眠る姿が見える。
それは深い闇の底で膝を抱き、ただ静かに眠るもう一人の自分。
――間違いなく、もう一つの……いや、本当のわたし。
わたしは、その前に立つ。
「……お願い、起きて。あの人たちを、助けて」
囁くような願いが、次の瞬間、爆ぜるように世界へと広がった。
凄まじい怒りの波動がフローラの声と共に戦場に解き放たれる。
大地が震え、空気が軋み、兵たちの心臓を鷲掴みにするかのような重圧。
ガイル、ミナ、バルク、ヒューを嬲っていた魔人たちの動きが、刹那に止まった。
彼らの顔に浮かんだのは嘲笑ではない
――初めての困惑と恐怖だった。
「……っ、なんだあ? この娘の……このオーラは……?」
ヨードがぎらついた目を見開き、髪を逆立てる。
一瞬、背筋を撫でる冷たい感覚に思わず手を止めた。
フローラは一歩、踏み出す。
その足取りはふらついているのに、彼女の周囲だけは
空気が爆ぜるほどの圧力で満ちていた。
瞳は血のように赤く輝き、声なき声が怒りの奔流と共に辺りへ響く。
「……ひッ……!」
ヨードは自分が後ずさろうとしていることに気づき、
慌てて歯をむき出しに笑った。
「へっ、ははは……なんだァこの威圧感はよォ。人間の分際で……
おいおい、冗談だろ……!」
しかし、笑みの裏に隠された動揺は隠し切れない。
フローラの憤怒の気配は、魔人たちすら本能で震え上がらせる
“災厄”の匂いを放っていた。
「お前たち、大概にしとけよ……ぶちのめすぞ、コラァっ!」
フローラの声は低く、唸るように戦場を震わせた。
普段の柔らかな微笑みは消え、
そこにあるのは刃のように研ぎ澄まされた威圧だけだ。
「クソがっ! 誰に向かってそんな口ききやがる!」
ヨードが吐き捨てるように叫び、渾身の拳を振り下ろす。
拳は猛り狂う獣の一撃──顔面を狙った直撃だった。
肉を切る風圧が通り過ぎる。
だが、フローラは微動だにしない。
拳が彼女の頬を打ち抜いた瞬間、
空気が軋むような異様な静けさが走る。
血潮も、叫びも、弾けるような痛みも、そこにはないかのように。
「効かねえんだよっ!」
フローラの低い声が吐き捨てられ、
彼女はそのまま拳を受け流すことなく
――振り返すようにして、ヨードへ拳を叩き返した。
打ち返された衝撃が、ヨードの顔を歪める。
腹部をえぐられるような痛みに、彼は思わず呻きを上げた。
だが、そう簡単に引き下がる男ではない。
歯を食いしばり、
怒りに塗れた咆哮とともにさらに力を込めて拳を叩きつける。
「こんのガキィッ!」
ヨードの声は怒号と化した。
だがその拳も、もう一度フローラの頬を砕くことはできない。
フローラは受け止め、踏み込み、反撃の流れを止めない。
冷たい瞳が、砕け散る風景を静かに見下ろす。
フローラの肘が低く沈み、拳はヨードの腹へと深く突き刺さる。
力が抜けるように、ヨードの身体は屈む。
そこへ畳み掛けるように、フローラは鋭く横回転のフックを打ち込んだ。
動作は無駄がなく、しかし凄まじい威力を帯びている。
「そんなもんかよ、オラァっ!」
ヨードの顔に、初めて驚愕が走る。踏ん張る脚が揺らぎ、
全身がくの字に折れ曲がるように崩れた。
「くっそだらぁッ!」
ヨードは最後の力を振り絞り、全力の一撃を投じる。
しかしその一撃を受け切ったフローラは、
むしろ余裕の薄い笑みを浮かべたまま一歩踏み込み、
沈みゆく相手の横顔へ強烈なアッパーカットを叩き込む。
「死んどけ、ザコォッ!」
叫びがこだまする。衝撃が戻り、ヨードは宙を裂いて吹き飛んだ。
黒いマントが翻り、石畳に激突して大きなひび割れが走る。
戦場は一瞬、呼吸を忘れたように静止した。
魔物たちの嘲笑は消え、兵士たちの恐怖は薄れ、
そこに残ったのはひたすら冷たい静寂と、
フローラの血のように冴えた瞳だけだった。
「貴様ァッ!」
怒声とともに、フロルが鋭い踏み込みで剣を振り抜いた。
刃は唸りを上げ、フローラの肩口を狙う。
ガキィン――!
火花が散った。フローラは素手で刃を受け止める。
腕に食い込む鋼の冷たさと、
押し込む衝撃に全身が軋む。だが彼女は怯まない。
「ぐっ……!」
低く呻いたフローラの唇から、赤い筋が伝った。
鮮血が顎を濡らし、石畳へと滴り落ちる。
仲間を救うために無理やり怒りの力を呼び覚ました反動が、
確実に身体を蝕んでいた。
「フローラ!」
遠くで誰かが叫ぶ。しかし、その声に応じる余裕はない。
フローラの目が鋭く細まった。
次の瞬間、彼女の拳が閃光のように走り、
フロルの腹部を直撃する。
「このカス、寝とけっ!」
ドゴォンッ!
鈍い衝撃音と共に、
フロルの身体は地を離れ、背から石畳に叩きつけられた。
大地が震え、粉塵が舞い上がる。
「……う、ぐ……」
呻き声を漏らしたのも束の間、
そのまま意識を失い、フロルの剣が手から滑り落ちる。
「このッ!」
仲間を討たれた怒りに駆られ、
キセノンが即座に切りかかろうと剣を抜いた。
だが、その一歩を踏み出した瞬間――
「……待て」
低く重い声が戦場を震わせた。
クリプトンだ。巨大な影がゆらりと動き、黒々とした手が上がる。
その一振りで戦場全体の空気が制圧されたように、誰もが息を呑む。
「ですが、クリプトン様!」
キセノンが抗議の声を上げる。
しかし、主の重々しい視線に射抜かれ、思わず足を止めた。
「これだから……人という生き物は、面白い……」
クリプトンの口元がゆっくりと歪む。
笑みとも、威圧ともつかぬ、不気味な表情。
その声は、戦慄を呼ぶ低音となって、
戦場の全員の心臓を掴み潰すかのように響き渡った。
フローラは血の滴る口元を拭いながら、鋭く睨み返した。
二人の間に漂うのは、もはや言葉を超えた圧力。
戦場が、異様な静寂に包まれた。
その時、瓦礫の山を突き破り、ヨードが血走った目で現れた。
髪は乱れ、口端から血を垂らしながらも、
全身から殺気を迸らせている。
「許さねえ……許さねえッ! この女ァ、絶対に許さねえッ!」
耳をつんざく怒号と共に、大地を抉る勢いで突進する。
しかし――その巨体を軽々と止める影があった。
クリプトンだ。
「ぐ、ぬううっ!?」
ヨードは牙を剥き、全力で腕を振り払おうとする。
だが、クリプトンの片手に掴まれた瞬間、
まるで鉄塊に縫いつけられたかのように一歩も動けない。
「……なるほど」
クリプトンの低い声が響く。その瞳は妖しく爛々と輝き、
まるで獲物を前にした獣のように光を宿していた。
「これは憎悪でも怨嗟でもない……“純粋な怒り”。
人間という脆弱な存在の底に、まだこれほどの炎が潜んでいたか。
実に、実に貴重だ」
ヨードが悔しげに唸るが、
クリプトンはまるで興味を失ったかのように視線を逸らす。
「魔王様に献上すれば――
さぞ、お喜びになられるだろう」
その声音には、敬意と共に狂気めいた歓喜が混じっていた。
次の瞬間、クリプトンは冷酷な声音で命じた。
「……遊びは終わりだ。全部、片付けろ」
「「御意!」」
鋭い返答と共に、クリプトン配下の騎士級四体が同時に剣を掲げる。
その背後で蠢く軍勢が咆哮を上げ、地を揺らす足音が
大地を殴打するかのように迫ってきた。
無数の魔物が、一斉に殺到する。
その圧力は、まるで巨大な津波が押し寄せるかのようだった。
――戦場が、絶望に呑み込まれていく。
その轟音とは別に――遠く、かすかな音が耳に届いた。
疲労はすでに限界を超えている。
丸一日も戦い続けた身には、幻聴にしか思えない。
西の空には、沈みゆく陽が最後の光を放っていた。
トワイライトに染まる空は、この絶体絶命の状況とは裏腹に、
あまりに美しく――
まるで現実感を奪うようだった。
そして、その音。
どこかで、聞いた覚えがある。
いや――ここ数日、
確かに耳にしてきた、馴染みのある響きのように思えた。
……ここまで目を通してくださったか。
ならば、闇の契約を結ぶがよい……
「いいね」と「ブックマーク」という刻印をもってな。
フロル「闇に誓え……その指先で光を残せ……」
クロル「影に刻め……その証が我らを強くする……」
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