第13話 遠征隊 その1-ルカ-

第十二章 月の下の野営

 あの御方――ソラ様――が与えてくださった安寧の地を発ってから、今日でちょうど一か月になる。


 いまのところ、俺たち遠征隊の暮らしは長年の遊牧の癖が生きていて、手順も心も安定している。だが、この安定は永遠じゃない。いずれ崩れる。鉄製品は摩耗するし、矢尻も鍋も釘も足りなくなる。魔道具や薬草、保存具も買わねばならない。


 “共存派”の吸血鬼は、この世界の容赦のなさに何度も失望してきた。だから多くは神域に引きこもって外のものと関わりたくない、と心の奥で願っている。けれど、いまはできない。準備が要る。逃げ切るためではなく、生き残るための準備だ。


 それに――俺たちの仲間は吸血鬼だけじゃない。共に旅する人間がいる。世話になっているなら、恩は返すべきだ。俺個人としても、あの神域で受けた赦しに報いねばならない。


「ルカ様。まもなくバレットの町が見えます」


 木々の影から、斥候隊の吸血鬼が低く報告した。もう俺たちは日の下を歩ける身だというのに、彼は無意識に陰を選ぶ。長い暗闇の生活で身についた癖は、そう簡単には抜けない。


 ……まあ、仕方がない。ソラ様の宗教に入って日がまだ浅いだから。けれど、太陽の下を歩くというのは、こうも心地よいものか。俺だけじゃない。ほとんどの吸血鬼が、できる限り日向に立って、ぼんやりと空を見上げる時間を作るようになった。皮膚の奥で冷たい血が、陽光に温められて動きだす感覚――あれは、何度やっても不思議だ。


「ご苦労。先にこの地に住みついた者たちと連絡を取る段取りを整えろ」

「承知いたしました」


 旅の途中で、恋に落ちたり、疲れ果てたり、さまざまな理由で俺たちから離れ、その土地で暮らしはじめた者たちがいる。彼らも仲間だ。向こうもそう思っているのだろう、俺たちがどの国へ渡っても、細い糸のような連絡は途切れない。暗号の印、物資の受け渡し場所、夜明け前の挨拶――別れても、繋がっている。


 しばらくして、進軍の列の先に、木柵と土塁の重なりが見えてきた。町の外縁だ。


 空はすでに茜へ傾きはじめ、門前の広場には他所の隊商がいくつも野営の支度をしている。焚き火の煙が薄灰となって斜めに流れ、革の匂いと汗の塩気、干し肉を煮る鍋の脂の匂いが入り交じる。


 俺たちも、町の外で野営の準備に入った。馬車の車軸に油を差し、轅(ながえ)の当たりを布で巻き直し、天幕の綱を湿らせて締める。古い麻縄は夜露で伸びるから、こうしておくほうがいい。


 地面は乾ききっておらず、靴底がわずかに沈む。踏み固める歩調のリズムが、隊の緊張をゆっくりほどいていく。鍛冶用の小炉に火を入れると、炭の匂いに古鉄の匂いが重なり、鉄槌の一打が夜の準備に合図を送った。


「報告します。明朝一番、門が開き次第、案内の者が迎えに来るとのことです」


 今度は人間の斥候が膝をついて報せた。


 この一言で、明日の予定が固まる。陣地の配置、買い付けの割り振り、資金の把握。鉄器、釘、鍋、鎖、布、塩、酵母、油、薬草、魔道具――優先度を決めて順番に。


 今夜、眠れそうにない。


 ……とはいえ俺たちは吸血鬼だ。夜に寝ないのは昔から普通。ソラ様のおかげで人間と同じ時間帯にも合わせられるようになったが、徹夜の体に戻るのも、べつだん苦ではない。


「あい、わかった。君たちもゆっくり休め」

「ありがとうございます」


 斥候が去るのを見送ってから、俺は腰の革袋をほどいて簡易机を開き、木札の上に墨で走り書きをはじめた。

 すると――


「……あまり無理をなさらぬよう、ルカ卿」

「……マルコか」


 焚き火の縁に、修道服の人影。俺の家臣筋の末裔、司祭補マルコが近づいてきた。火が彼の頬の古傷を浅く照らし、瞳に赤い粒を散らす。


「俺より君らが休め。俺は吸血鬼だ。人間より身体は頑丈だ」


 そう言うと、マルコは苦笑した。笑い皺が、煙に揺れた。


「身体は頑丈でも、心は別だ。疲れは肉だけを削らん」

「それも道理だ。……だが大したことはない。俺の心配より、自分の身を気遣え。君ら人間は――ソラ様を、そう簡単には信じ切れぬ者も多い」

「無理もあるまい。俺たち人間は、昔から“神々に守られている”と教わってきた。吸血鬼とは違う、という思い込みも、根が深い」

「うむ。その心構えは、悪くはない。……ただ、その宗教の上に立つ“人間”がな」

 マルコは薪を足し、火の粉が星のように上がるのを目で追った。

「それも仕方がない。力は、人を堕落させる。神の名は、ときに刃よりも鋭くなる」

「……そうだな」


 その言葉は、人間に限らない。俺たち吸血鬼も同じ過ちを犯した。

 でなければ、王国は滅びなかった。

 栄光は鈍感を産み、鈍感は暴走を呼ぶ。あの崩落の手触りは、いまも掌に残っている。


「さて――ここに来た本当の理由は?」

「今夜の月が、あまりにきれいでな。……一杯、どうだ」


 彼は聖職者だが、俺たちの仲間だ。規則を杓子定規に守る性質ではない。

 革袋から注がれた酒は、安い。だからいい。喉を焼く熱と粗い香りが、遠征の夜にふさわしい。


「それも、悪くない。今宵の月はたしかに見事だ。仕事に差し障りのない程度に付き合おう」

「ありがたい」


 二人で野営地を外れ、少し高台の、枯れ草が風に伏す場所に腰を下ろす。

 月は大きく、冷たい。音は少ないが、ないわけじゃない。馬が鼻を鳴らす音。鍋の蓋がかすかに震える音。遠く、子どもが悪夢から覚めて短く泣く声。夜は、全部を静かに混ぜて運んでくる。

 天幕の影から、磨り減った靴底がのぞく。布の擦れで素肌が赤くなった足首。手の甲についた古い血の色。俺は視線をそらさない。目に入る現実から顔を背けると、次の現実の刃はより深く刺さるからだ。


「……腹は、どうだ。君らの」

「持つ。今日のうちは、な」マルコは笑い、酒を舌で転がした。「明日は町で、塩、穀、乾燥豆、油。できれば干魚と果。子どもに甘いものを少し。……贅沢だろうか」

「贅沢でいい。生きるための贅沢は、罪ではない」


 火の粉がひとつ、風に攫われて闇へ消えた。

 俺は酒をひと啜りし、喉の奥の熱が胸の冷えを少し溶かすのを待つ。


「ルカ卿」

「何だ」

「ソラ様を、どれほど信じておられる?」

 

焚き火がぱち、と弾ける。問いは煙の向こうから落ちてきた。無理もない。あの夜、彼はオリヴィエと並び、門前で立ち止まったミレナ様に「これは最後の奇跡かもしれない」と背を押した。その言葉の重みは胸に残っている。だから、いま確かめたいのだ。俺がどこまで信を置いているのかを。マルコ自身のためにもね。


 ソラ様は神であり、同時に“人”の匂いがする。赦しは与えるが、監視はしない。力はあるが、節度を求める。

 俺は空を見て、短く答えた。


「――礼を尽くすに足る方だ」

「それなら、俺の信仰の形とも矛盾はしない」

「信仰を重ねるのは、悪いことではない」


 マルコは小さく頷き、革袋を差し出す。

 酒の匂いのむこうに、焚き火の煙。煙のむこうに、血と鉄と皮革の刻んだ暮らしの匂い。

 俺たちの現実だ。きれいごとではない。だが、汚れたままでもない。汚れを認め、洗う術を探す――それが、俺たちのやり方だ。

 野営地へ戻ると、天幕の間を冷たい風が抜けた。番兵の足取りは一定で、剣の鞘が腿に軽く当たる音が規則正しく響く。


 帳場ではミハイルが銀貨を数え、指先の黒い汚れが小さな円を木札に残していく。子どもを寝かしつける女は、焚き火の残りを壺に入れて抱え、夜泣きを鎮める温もりを確保している。

 鍛冶の小炉では、鍛冶見習いの少年が、割れかけの鍋底を叩き直していた。火を見つめる目が、眠気と責務の間で揺れている。

 こういう夜を、俺は知っている。何度も繰り返してきた。繰り返すたび、少しずつ違う。今夜は、匂いの底に“希望”がある。


「ルカ様」

 

事務の女官が、油紙で包んだ紙束を差し出した。買い付け予定の目録だ。

 鉄器、鋲、馬蹄、革、粗布、塩、胡椒、保存壺、針、糸、角灯用の油、乾燥薬草、魔道具の触媒。端に、子どもたちのための飴玉、と小さく書き足されている。


 俺はそれに頷き、明朝の行動表の木札を並べ直す。入城班、買い付け班、交渉班、警護班、連絡班――そして“旧友接触班”。

 古い約束は、果たさねばならない。

 空が白みはじめる少し前、俺は眠らぬまま天幕を出た。

 草は露で濡れ、踏むと冷たさが足首を刺す。遠くの東の端で、夜が薄紙のように剥がれていく。


 俺は胸に手を当て、短く、静かに祈った。誰に向けてか、自分でも定かではない。けれど、言葉は確かに胸の奥に落ちた。

 ――驕らぬように。

 ――必要なものだけを、必要な分だけ。

 ――生き延びるのではなく、生きるために。


「ルカ様、出立の時刻です」

 副官の声。

 俺は顔を上げ、隊へと向き直る。

 日が昇りきる前に、門前の列へ着く必要がある。今日の交渉は長くなるだろう。

 だが、怖くはない。俺たちは一人じゃない。吸血鬼も人間も、今は同じ列に立つ。知られていないけどな。

 そして、背中の遠くには、あの神域がある。俺たちの帰る場所が、ようやくできたのだ。

 最後の確認を終えると、俺はマルコの肩を軽く叩いた。


「今夜も月が出ていたら、続きをやろう」

「酒か、祈りか、それとも愚痴か」

「全部だ」

 

 二人して、笑った。

 朝の冷えは変わらないが、胸の中心に小さな火種がある。その火は、月夜の酒でも、日の下の労でも消えない。

 俺たちは列に加わり、ゆっくりと門へ向かった。

 踏みしめる土は湿り、車輪は軋み、革は鳴る。

 都市の石壁が、白い光を受けて目を覚ます。


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