第2話 森を抜けて、川へ
30分か1時間か、よくわからないがだいたいそれぐらいの時間がたったと思う。そのあいだずっと、俺は森の中を歩いていた。目標は水源だ。できれば川がいい。池でもいいが、衛生的には川のほうが自分の中がきれいだと考えている。それを目標に、俺は今も森の中を歩いている。
木々は背が高く、幹は苔むしていて、風が通るたび葉のこすれる音が層になって流れていく。枝に止まった小鳥が、俺の足音に合わせて短く鳴いた。土は乾きすぎず湿りすぎず、踏み込むたびに柔らかく沈む。斑に落ちる木漏れ日が、歩幅に合わせて右へ左へとすべっていく。
「……川、どこだ」
独り言は返事を寄こさない。ただ、遠くのほうでかすかに水のはねるような気配がして、次の瞬間には風の音に飲み込まれた。気のせいかもしれない。
不思議なことに、現代人で引きこもりの俺はけっこう歩いているのに、まったく疲れない。このアバターは一応、創造神だから、それと関係があるのかな。知らんけど。汗も出ないし、呼吸も乱れない。息はしているのに、胸の上下がいつもより静かだ。
それと、やっぱり感覚が変だ。足から感触はちゃんと来る。石や枝を踏めば形がわかる。だが、痛くない。体と服装も、さっき沼の縁を踏んで泥をはね上げたのに、俺は汚れない。
このアバターの設定を作った張本人として、理由はわかっている。――月桂冠の機能のせいだ。汚れをはじき、破損を自動修復し、歩行時は足裏に薄い膜のような防護を展開する。資料にそう書いたのを覚えている。だから、どうして汚れないのかは理屈としてわかる。だが、実際に自分の体で起きている現象は、やっぱり不思議だ。
生足で歩いているのに傷ついていない。足が薄い膜みたいなもので守られている。透明で目に見えないのに、踏み抜いた枝のとがりを鈍く受け止める感触がある。
「この膜、最高。……でも、深入りして仕組みを疑問視したら消えたりしないよ
な?」
縁起でもないので考えるのをやめる。疑問にしてこの膜が消えたら損するのは俺だからね。
まぁ、それはさておき、俺は森の中を歩いているが獣に遭遇していない。――いや、訂正しよう。遭遇はした。耳に房毛のついた鹿のようなやつや、低い草むらを横切る小さな四足の影。だが彼らは俺の道を塞がない。というか、塞ぐどころか、敬意をもって譲っている。距離を取り、視線を下げ、静かに身を引く。神だからなのかな。これも、いいものだ。
最初の1時間で太陽が頭上に寄り、木漏れ日の角度が短くなった。2時間目には腹の底に軽い空虚さが生まれる。けれど空腹感は刺さらない。体が省エネモードでも入っているのかもしれない。三時間目、光はわずかに黄みを増し、影の輪郭がはっきりしてきた。
そのあいだ、俺は創造神として力を使っていた。歩きながら、手持ち無沙汰に、けれど真剣に。この力の使い方は本能的だ。思考の奥に下りていって、イメージを組み、線で縁取り、面で満たしていく。絵描きみたいな感じで、頭の中でやる。
理屈は分からない。だが、創造している最中の俺は、自分の頭の中に絵を描いているみたいだ。最初に創造したものは、普通の石ころだった。0からその石の形、色、重さと大きさを考えて具体に落とす。握りこぶし大、黒から灰へ向かう斑模様、片側だけが少し平たい。そう決めると、空気の密度が変わって、手のひらへ重みが落ちてくる。石ころを作るのに、2分ぐらいかかった。
「……うん、これは石だな」
指先で表面をなでると、ざらつきがある。爪で弾くと、低い音が返ってくる。森の脇の草地へトン、と投げると、葉を揺らして止まった。変なことに、作った直後なのに“使い古された”感じがする。俺が設定した「歴史」を、世界側が補完しているのかもしれない。
次に、百合の花を想像した。流れは石と似ている。けれど今回は、生命の息吹が要る。四つの宝玉――俺がこのアバターに与えた概念装置――のうち、「生命の循環」と「永劫」に意識を軽く触れ、微細な糸を引くように力を入れる。白い花弁、厚みのある葉、しっとりと水をはじく表面張力、花粉の粉っぽさ、茎の中を通る見えない水路。それらを重ね、花は静かに出来上がった。
「……きれいだ。けど――ごめん」
俺はすぐに、花を死なせた。花は抵抗せず、ただ形を保ったまま機能を止める。生かすと世界にどんな影響を与えるか分からない。外来種を野に放すみたいな真似はしたくない。俺はここでは“新参者”だ。線引きは、最初に決めておくべきだろう。
このアバターの力の使い方が、なんとなく分かってきた。後で練習するのみ。歩きながら、たまに葉を、砂粒を、短い棒を、創っては消し、消しては創った。時間の感覚は薄く、けれど確かに進む。光が移ろい、風の温度が少しずつ変わる。
「しかし……本当に異世界に来ちゃったんだな」
先から薄々感づいていたが、一般人で引きこもりの俺が異世界転移者になるなんて、まだ信じきれていない。そういう小説を読むのは好きだった。だが、当事者になるとは思っていなかった。
それと、力を初めて使うと自分がもっと感動するのかなと想像していたが、俺の中では“当たり前”のことをやっている感覚が勝って、驚けない。
「自分、こんなにドライな性格だったっけ」
苦笑して、肩をすくめる。
だって、魔法だからね。創造だから、魔法の上位版だけどね。はぁぁ~。この話はやめよう。なんか悲しくなる。
……そうして、俺はついに川を見つけた。
最初に耳が拾ったのは、風の帯の底に混じる、連続する泡立ちの音だった。近づくにつれて、音は層を増し、石を打つ水の硬いリズムと、浅瀬のささやきに分かれていく。木々がまばらになり、視界が開けた。陽光が水面で砕けて、きらきらと跳ねた。
「やっと……見つけた」
声が自然に漏れた。川幅は10メートルに満たないが、流れは速すぎず遅すぎず、両岸の土は硬い。澄んだ水の底に、丸く削れた石が見える。手を伸ばして、すくった。冷たさは指の骨に届くが、痛いほどではない。匂いは鋭くなく、草の湿気と混じって清潔だ。
「いただきます」
両手を器にして、少しだけ口へ運ぶ。舌に雑味はない。喉を通る水の筋が、腹の奥の空虚さをやさしくなぞっていく。
次は何をするかな。
状況確認……トイレの後で異世界に転移した。
現状……自分が作ったアバターの体になっただけではなく、そのアバターの力も使える。
「そして――一番の問題。ここで俺は何を成し遂げるつもりなのか」
今困っているのは、この世界に来て“何かを成し遂げる”目的がないことだ。異世界に来たから旅をする? それは無理だ。俺は引きこもりだから。じゃあ、この世界の住民と交流する? それも無理だ。今はアバターの体になったが、昔いじめられていた影響で、俺は他人と話すのが苦手だ。目を見られると、心がひっくり返る。
「結論。引きこもる。――俺は俺の領域を作る」
引きこもるためには、拠点が必要だ。できれば川が近いところがいいと考えたから川を探した。水は生き物の基本だし、眺めていても落ち着く。
え? 月桂冠の機能で自分が汚れない? それはそれ。シャワーやお風呂に入りたいかどうかは、理屈ではない。気持ちの問題だ。湯気に包まれて深呼吸して、「ふぅ」って言いたい。そこに理由は要らない。
「作戦会議だ。場所決め、材料、仮設。今日は土台まで、かな」
川岸を歩いて地形を確かめる。増水時の痕跡――草の倒れ方や漂着した枝の高さ――を目印に、少し高台になった場所を選ぶ。大木の根が地面を抱えるように張り出していて、背には岩の壁がある。風の向きも悪くない。朝日は木々で柔らかく、夕方は川面から涼しさが上がってくるだろう。
「ここ、いいな」
足元の小石を拾って、目印に三つ積む。すぐ隣の土を手のひらで固め、試しに小さな杭を一本、創る。木目と年輪を創造し、節を二つ入れ、根元に逆さの返しを作る。杭は指の間でひんやりとした。地面に差し込み、体重をかけると、きゅっ、と土が締まる。
「よし。拠点の仮称は――『川辺ベース』でいいか。センスは後で考える」
空はゆっくり色を変え始めている。緑の濃さの裏側に、夕方の気配が潜む。時間は、確かに流れている。さっきまで真上だった太陽は斜めになり、影が長く伸びた。水面のきらめきは白から金に、金から淡い橙に寄っていく。
今日は、ここまでにしよう。無理に一気に作らない。明日も時間はある。焦る必要はない。俺の時間は、俺のものだ。
「腹も、少しは空いたしな」
河原の平たい石に腰を下ろし、改めて川を眺める。流れは止まらない。俺の中の不安も、同じように止まらない。けれど、動いているものは腐らない。動いている限り、変わっていく。
深呼吸。鼻から入った空気が、冷たくて気持ちいい。月桂冠がかすかに光り、膜の保護が足裏でやわらかく鳴った。
「じゃ、明日は土台。床。雨避け。……それから、風呂の構想」
口に出して計画を並べると、心が少しだけ静まった。紙もペンもないが、言葉は記憶に刻まれる。俺は立ち上がり、もう一度、川岸をひと回り見て歩く。西の空が、ゆっくりと群青へ変わる。
時間は流れる。俺も流れる。その流れのなかで、ここに、最初の一点を打つ。
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