【TS】トイレのドアを開けたら、自作アバター(女神)になった

川辺文月

第1話 トイレのドアを開けたら森でした

気がつけば、俺は森の中に立っていた。

最初に感じたのは湿った土の匂い。鼻の奥に残る、雨上がりみたいな香り。風がゆるく吹き、草の先が指で撫でられたみたいに揺れる。遠くで小さな鳥が鳴き、どこかで葉が一枚、少し遅れて落ちた音がした。


「……ここ、どこだ?」


声は森に吸い込まれていく。返事はない。ゆっくり記憶をたぐる。さっきまで俺は――そう、トイレにいた。用を足して、いつもの癖で手を洗って、何も考えずにドアを開けた。その瞬間、見慣れた廊下が消えて、木々の壁が俺を迎えた。

左も木。右も木。前も木。もちろん後ろも木。

上を見れば、枝のあいだから青空がのぞく。雲はほとんどない。薄い白い膜みたいなのが一枚、ゆっくりと流れていく。足元は柔らかい土と短い草。踏むたびに、くぐもった音がする。


「なんで……?」


ひと呼吸おいて、違和感に気づいた。自分の身体が、明らかに違う。視線が少し低い。手足が細い。肩まわりが軽い。頭だけ不自然に重く、首の根元がじんわり疲れている。


「髪……長い?」


そっと指を入れると、柔らかな束がからみついた。膝どころか、その先まで続いている。なのに地面には触れず、ふわりと空気に浮いて、絡まらないように自動で流れている。不思議だ。いや、不思議なのはそれだけじゃない。

服も違う。さっきまで着ていた安いパジャマはどこへやら。今まとっているのは白い一枚布――古代ローマのトーガみたいに肩から斜めにかける衣だ。薄いのに透けない。不思議と汚れがつかない。胸元から腰にかけて金色の細い紐がゆるく結ばれている。


「……嘘だろ」


こめかみが冷たくなる。震える手で裾をそっと持ち上げ、そこに“あるはずのもの”を右手で確かめる。


「……ない」


乾いた空気の中で、声だけが湿っていた。21年、一度もまともに使われなかった俺の“息子”は、どこにもいない。足から力が抜け、膝が土に沈む。しばらく呼吸の仕方を忘れていた。


「……くっ」


痛いわけじゃない。けれど、胸の真ん中が抜け落ちたみたいに空っぽになる。失って初めて“あった”ことを強く知る、そんな感覚。自分が自分じゃなくなった気がして、視界がぐにゃりと歪む。

どれくらいそうしていただろう。鳥の声が二回、三回。風が葉を撫でる音が何度か重なって、やっと肺に空気が戻ってきた。


「……落ち着け、俺。深呼吸。吸って、吐いて。そう。状況を整理する」


地面に手をついてゆっくり立ち上がる。草の先が膝に触れて少しくすぐったい。もう一度自分を見下ろす。白い衣、金の紐。――そして頭には金色の月桂冠。鏡はないのに“ある”とわかる。触れると冷たい金属の感触。重くはない。むしろ頭が澄んで、汚れや穢れが寄ってこないような静けさが広がる。

さらに、俺の周囲を四つの光る宝玉がゆっくり回っている。赤、青、緑、透明。色が正しいか自信はないのに、意味はなぜか分かる。耳の奥で細い鈴の音が鳴るたび、宝玉は軌道を変え、肩越しにまた巡っていく。


「……見覚えがある。いや、これは――」


嫌な答えが形になって口元までのぼる。言葉にするのは怖い。だが逃げても仕方がない。


「これ、俺の“アバター”だ」


言ってしまえば、胸のつかえがすっと落ちた。俺はVtuberじゃない。けれどアバターは持っている。ビデオ会議で素顔を晒すのが嫌で、代わりに使うためのやつだ。中学高校で顔のことで散々いじられ、笑いの種にされた。高校をやめて部屋にこもった。外に出ない暮らし。救いは絵だった。小さいころからの癖が仕事になり、イラストの依頼で食えるようになった。家族も何も言わなくなった。俺が飯を食えているなら、それでいい。


ここ数年でVtuberが流行って、アバター需要が一気に増えた。流れで、自分用のアバターも作った。配信する気はなく、主に会議やSNSで顔の見えない対応をするときに使うだけ。ありがたいことに、俺の絵を好きだと言ってくれる人たちがいて、このアバターはちょうどよかった。

そして――遊び半分、いやだいぶ本気で――“設定”を盛った。創造の神、という肩書。現実には存在しない“他次元”から来た来訪者。

“他次元から来た創造神の来訪者が、この世界に降臨した。だがこの世界は信仰が薄い。だから完全には具現化できず、半ばだけ姿を結んだ存在として、ネットの海をとおして人々と交流している。”

SNSのプロフィール欄にふざけて書いたあの文を思い出す。今は笑えない。背筋がすっと冷える。


「じゃあ……今の俺は、“半具現化”どころじゃないよな。どう見ても、具現化してる」


冗談めかした声は喉の奥でほどけただけ。視線を落とし、身体のディテールをひとつずつ確認する。身長は151センチくらい。胸はほぼ平ら。髪は銀色で、光を受けるたびに色が変わる。赤い瞳――これは視界の縁や反射で推測しているのに、なぜか確信がある。髪は見えない力で支えられ、地面に触れずにすべっていく。

衣は純白。汚れない。指先で触れるとさらりと冷たい。頭の月桂冠は淡く光り、心がざわつくと光も少し強くなる。額に「守られている」感覚が集まる。


そして四つの宝玉。飾りのはずが、いまは現実にある。

――ひとつは「魂の生成と転生」。

――ひとつは「信者の因果と運命」。

――ひとつは「生命の循環と永劫」。

――最後のひとつは「真理の覚醒と解説」。

設定を考えた当時のテンションを思い出し、思わず眉が寄る。


「……やりすぎ、だったかもしれん」


小さくつぶやく。声に出さないと正気を保てない気がした。指輪やピアスも足そうと思ってやめたことも思い出す。飾りすぎは野暮。シンプルがいちばん。そう決めて完成させたアバターだ。

両手を胸の前で軽く合わせ、深くゆっくり呼吸する。森の音が、また戻ってくる。


「確認。俺はトイレから出て、いつの間にか森にいた。着ているのはアバターの衣

装。身体もアバター通りで、性別も変わっている。頭には月桂冠。周りには宝玉。……つまり、俺は“俺のアバターになっている”」


言葉にして並べると、地に足がつく。俺は首を回して周囲を見る。木の幹に苔。陽の差す方向。風の流れ。人の気配はない。――遠くで、水の匂いがしたような気がする。


「まずは落ち着いて状況把握。次に安全確保。できれば、服の構造も把握。風が吹いたら危ないからな」


自分に言い聞かせるように淡々とつぶやく。声に出して手順を刻めば、パニックは遠のく。トーガの裾を少し握り、足の運びを確かめる。布は足にまとわりつかない。不思議なほど動きやすい。さすが“設定上の神具”。自分で描いたとおりだ。


「……なあ、俺。本当に“創造の力”とか使えるのか?」


四つの宝玉が、かすかに鈴の音で応える。肯定にも否定にも聞こえる曖昧な音。たぶん試せばわかる。けれど今はまだ怖い。もし本当に使えたら、俺は何を創る? 何から始める? その問いの重さに、思考が一瞬止まる。


「焦るな。順番だ。――水、休める場所、そして情報。今後の行動の考えはあとでいい」


もう一度空を見上げる。青は深く、雲は薄い。目を閉じると、まぶたの裏に赤い残像が広がる。新しい身体は軽い。心はまだ追いついていない。


「……大丈夫。生きてる。息もできる。考えられる。だったら、進める」


ぎこちなく笑ってみる。笑えた。俺は耳を澄まし、風下の匂いを探る。――湿った清涼感。たぶん水だ。方向を決める。


「目標は水源。できれば川。まずは30分、いや1時間を目安に歩いてみよう」


四つの宝玉が、その歩みに合わせてゆっくり軌道を変える。森は相変わらず静かだが、さっきより少し優しい。俺はその優しさに背中を押されるみたいに、木々の間へ歩き出した。ゆっくり、確かめるように――まるで長い物語の一行目を書き始めるみたいに。


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