第2回 母の涙、娘の決意

「やめさせて! トミをそんなところに行かせられない!」

 母は取り乱し、座敷の真ん中で泣き叫んだ。

 いつもは明るくて、近所でも評判のしっかり者。そんな母が、今はまるで別人みたいに泣き崩れている。


「トミはね、何だって覚えたのよ。掃除も炊事も針仕事も……大店の女将さんになれる娘に育てたのよ!」

「……母様」


 母はわたしの手を握りしめ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら続けた。


「それなのに、妾奉公めかけぼうこうだなんて……! もし器量がいいから望まれたのなら、今すぐ頬に傷でもつけてやりたいくらいよ! あんまりじゃないか……」


 わたしも涙があふれそうになった。

 でも、相手はお侍。母がここまで声を荒げては、何をされるかわからない。


「失礼つかまつる」


 ――障子が、音もなく開いた。

 入ってきたのは、紋付きの着物をまとった侍だった。背筋をぴんと伸ばし、冷たい眼差しをこちらに向けている。


「わしは長府藩士、江尻と申す。おトミ殿は妾奉公にいくのではない。高貴なお方に仕える侍女となるのである」


「侍女……?」


 父が声を震わせる。母はなおも泣き叫んだ。


「どんな言い方をしても同じことです! 娘を奪っていくんでしょう!」


「決まったことだ。正月四日に出立する。命令に背くことは許されぬ」


 母は泣き崩れ、父は頭を抱えた。

 重苦しい沈黙が部屋を支配する。


長府藩士、江尻様の腰の物が気になる。

(……どうすればいいの? お父様もお母様も泣いてる。けど、このまま逆らえば、二人が殺されるかもしれない)


 胸が締めつけられる。怖い。悔しい。だけど――。両親を助けたい。


「……トミは、行きます」

 わたしの声が、静寂を破った。

 母の腕がわたしを強く抱きしめ、涙が肩に落ちる。


「トミ……!」

「母様。もう十分です」


 父は立ち上がり、涙を拭って言った。


「……江尻様。娘を、どうかよろしくお願いいたします」


 その瞬間、運命が決まった。

 年明けには花嫁として大店に嫁ぐはずだったわたしは、見知らぬ公子のもとへと連れ去られる。

 逃げ場のない未来へ――。



 出発の日。小雪のちらつく夕暮れ。

 旅籠の表に家族と使用人たちが並んでいた。


「いとさん、お達者で」


 兄嫁のおチヨさんが風呂敷包みを手渡してくれる。その底には、母が「魔よけだ」と言って鏡を忍ばせてくれた。

チヨさんが寂しそうに声をかけてくれた。

「また一緒に芝居見物に行けたら嬉しいんだけど。おトミちゃん。お達者で」


「笑って送り出そう。泣くなよ!」


 父の声が震えていた。

 母は泣きながらも、最後までわたしを抱きしめて離さなかった。


 やがて駕籠かごが動き出す。

 花嫁行列になるはずだった道を、今はただひとり、侍女として――いや、人質として。


(なるようにしか、ならない……)


 そうつぶやいた途端、涙があふれ、景色がにじんだ。

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