馬関物語 ~婚約破棄された町娘トミと公子の逃避行~

さとちゃんペッ!

第1回 馬関の町に迫る影

「おい聞いたか? 異国の軍艦がまた攻めてくるらしいぞ」

「エゲレスに、メリケンに、おフランスまでだってよ。馬関なんざ、ひとたまりもねえ」


 文久三年の年の暮れ。馬関――今の下関の町は、うわさ話とため息でいっぱいだった。

 港を吹き抜ける潮風に混じって、火薬のにおいがまだ残っている。萩から来た長州藩の侍が異国船にちょっかいを出したせいで、報復に町が焼かれた。年越しだってのに、誰も浮かれちゃいない。


「長府の殿様は、もう勝山に避難されたそうな」

「身を寄せる親戚のいねえ奴は……まあ、一緒に地獄を見るしかねえわな」


 そんな噂話を横目に、わたしは旅籠の暖簾をくぐった。

 わたしの名はトミ。町人の娘として、ささやかに生きてきた。来年の正月が明けたら、いよいよ大店の跡取りに嫁ぐ。





 その頃。別の場所でため息をついていた男がいた。


(ったく、ろくでもねえ仕事ばっかり回ってくる……)


 それがしは、三浦家の次男坊に生まれた三浦次郎。

 一応は侍の家柄だが、実態は下っ端の雑用係。

刀だってろくに持たせてもらえず、危ない仕事や嫌われ仕事ばかり押し付けられている。


 今日の任務もひどかった。

 商家の奥方から鏡を取り上げろ。

寺の鰐口わにぐちを没収しろ。

――要は「大砲を作るための金属を集めろ」という名目の、半分ゆすりみたいな仕事である。


「ま、これも馬関を守るためだって言われりゃ、従うしかねえけどな」


 ため息をつきながら木刀を担ぎ、それがし・三浦は呼び出しを受けた上役のもとへ向かった。


「……なんですと?」

話を聞いて、思わず声を裏返した。

――上役の侍・松村様が言い放った命令は、あまりにも衝撃的だったのだ。


「年明けに嫁入りが決まっている旅籠の娘トミ。その縁談を破談にせよ」


「は、破談……!? 嫁入り先は、本陣の跡取り息子だと聞いておりますが」

「そうだ。だがそれを潰す。理由は言うな。『馬関のため』と言えばよい」


 それがしは頭を抱えた。

 次に続いた言葉はさらに重い。


「そして、その娘を連れて来い。延行のぶゆきの里の隠れ家だ。……潜伏しているお方に……差し出す」


「潜伏……? そのお方というのは……」


「口外するな。いいか、誰にもだ」


 差し出された紙に書かれていた名を見て、それがしは青ざめた。


「ひっ……! あの狂った公子ですか!?」

「そうだ。命を落とすかもしれぬ任務だ。おぬしも父母と今生こんじょうの別れをしておけ」



 口では「はっ!」と返事をしながら、腹の中では絶叫していた。

(いやいやいやいや! 嫌じゃ嫌じゃ! なんで俺なんだ!)


 けれど命令は絶対だ。断れば自分の首が飛ぶ。





 一方その頃、わたし・トミは、年の瀬の支度に追われていた。


 黒豆の匂い、炭火のはぜる音。旅籠の奥では母と兄嫁が忙しく立ち回っている。

 わたしは大きな花器に松や南天を生けていた。新しい年を迎える準備だ。

「はあい」

 父に呼ばれ、花を整えて立ち上がる。足元では子猫のミケが「にゃあ」と鳴いた。

 なんだか不思議な胸騒ぎがする。


その時、父の口から出たのは、人生をひっくり返す言葉だった。

「トミ、大店の跡取り息子との縁談は……なくなった」


「えっ……?」


 最初は冗談かと思った。だが父の顔は泣きそうに歪んでいて、母はうつむいたまま震えていた。


「そ、その代わり……とある貴公子のもとに行くことになった」


「……は?」


 頭が真っ白になる。

 母が突如として叫んだ。


「やめさせて! そんなのやめさせてぇ!」


 母は叫び、泣き崩れ、顔を手でおおった。

 わたしはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった――。




★ノート★

長府藩…長州藩(毛利氏)の支藩。こちらもやはり毛利の殿様です。

馬関、今の下関を治めていました。


このお話は、その長府藩の武士と京都から来たお公家様、そしてトミについて、史実に基づいて描いています。この事実は、長く秘密とされていました。

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