第26話 奈落

 外に出ると、頬に針に指されたような痛みに似た感覚が沸いた。

 ついに曇り空から雨が降り出したようだ。


 夏姫は暗澹たる気分になり、頭を垂れた修道士のようにぼこぼことした黒雲を睨んだ。


 竜のような雷鳴が渦巻いている、身の毛のよだつような空模様だ。


 唇を引き結び、聖堂へ通じる石畳を進む。今は碧だ。

 市立聖クルス学園の聖堂は、前にも述べたが本場の石を切り出して建てた本格的なゴシック建築だ。


 ちなみに『ゴシック』との言葉の中に『野蛮』と言う意味があるそうだが、夏姫は聖堂の堂々たる姿を見て、どうしても『野蛮』に結びつけられなかった。


 最も、今は使われなくなり、建物は荒れ出し、薔薇窓やステンドグラスはくすんで汚れ、中程に建てられた聖人の像は崩れ、塔の先にある十字架等も地に落ちていた。


 夏姫はなるべくそれらの破片から目を逸らし、両開きの重い木の扉を押し開いた。


 鍵はかかっていない。使われていないからなのか、本当に聖堂は学園から無視されていた。

 建築にはかなりの年数と費用が嵩んだろうに、上層市民の考えはいつも気まぐれで、冷酷だ。


 聖堂の中は、当然闇一色だ。使わない建物に明かりを灯しておく程、学園はバカじゃない。


 はああ、と夏姫は敢えて肺を震わせた。


 正直怖い。何せ今自覚したが、一人きりだ。勢いで碧を追って来たが、今更になり興奮は冷め、弱々しい冷静が戻ってきた。


 ──どうしよう……。


 扉を開けたまま、しばし夏姫は途方に暮れた。

 このまま突っ込んで碧を探すべきか、他の場所をあたっているだろう級友達が、藍に告げられ集まるのを持つべきか。

 足が竦んでいる。聖堂はこんなにも怖い物である。


 正面の扉から見えるのは木の椅子の連なりだ。それぞれ数人が掛けられる長さで、ニスによりぴかぴかに磨かれている。

 近づけば堆積した埃も確認できるだろうが、無駄な行動だ。

 遙か先には真鍮のパイプをくねらせたオルガンがあり、まだ聖堂が現役だった頃、まだ尊敬されていたシスターが弾いていた。


 その伴奏に合わせて賛美歌を歌う。


 夏姫は身震いした。あの喧しく陰鬱な旋律はもう思い出したくない。木村先生の厳しい目と耳で歌が下手だと見破られ、皆の前で叱責されたくない。


 ──そんなこともあったな。


 彼女にとって、聖堂は決して楽しい思い出がある場所ではない。


 さっと影が走った。


 椅子と椅子の間だった。「ひいっ」と夏姫は思わず悲鳴を上げてしまった。


 短距離走者のようになっている心臓に手を当てると、夏姫は思い切る。

「碧さん! 碧さん、いるの?」

 返事はなかった。ただ耳に痛い程の静寂が帰って来ただけだ。

『碧さん! 碧さん!』

 心の中で問いかけるが、闇からは答えが返ってこない。しょうがない、と夏姫は胸に手を当てながら決心した。


「碧さん……どこにいるの?」 


 聖堂の中に入ると背後の扉は自然と閉まり、より暗くなった。

 電灯のスイッチは……夏姫は目を細めていろいろな場所を見たが分からなかった。

 電灯を点けるのもシスターの仕事だったし、生徒の、しかも高等科からの外部入学の夏姫が、スイッチの場所を知っているはずがない。 


 ふわっと再び影が舞う。


 が、椅子の間の側廊を通って中心部の交差部にたどり着くと、碧らしき姿はなかった。

「碧さん! 碧さん!」

 不安になって夏姫は叫ぶ。声が壁に反響し、耳の奥が痺れる。それだけだ。

「碧さん……」


 暗黒の中、夏姫は混乱した。

 あるいは聖堂に入っていないのかもしれない。ここで見た諸々は幻想なのか。


 くすくすくすくす。


 夏姫の迷いを嘲笑うように、子猫が鳴いているような笑い声が、どこからか上がった。

「碧さん!」

 夏姫は思考の遅れにより訳が分からなくなりながら、声の方向へと足を向けた。

 小柄な姿が、碧の背中がある。


「待って!」それが遠ざかるから、夏姫は焦った。

「いいえ、待たないわご主人様」

 碧の背中が言った。

「だから私を捕まえて、ね」

 歯を食いしばり、夏姫は急ぐ。が、また彼女を見失ってしまう。

「え? どこ? 碧さん」

「ここよ、ご主人様」

 いつの間にか碧は、正反対の扉の前にいる。

「そこにいて!」


 幻を追うようなあやふやな足取りで、夏姫は元来た道を戻った。碧がまたろうそくの火のように消えてしまうのでは、と不安に怯えながら。


 碧は消えなかった。近づいても逃げることなく姿が大きくなる。


 ついにたどり着き、彼女の肩に手を置いた。

「碧さん……心配したんだから」

「違うわ……私は藍よ」


 碧……藍は真っ直ぐに夏姫を見つめる。


「え……」


 もう夏姫は崩壊しかけていた。何が何だか分からない。記憶に浮かぶのは愛した犬の顔だ。


 ──ゆっこ! 助けて!


 圧倒的な孤独が覆い被さってきた。

 くすくすくす……それはいつか聞いた悪意の笑いだ。

 孤独……それはいつだったかの夏姫だ。

「あ、ああ……」

 夏姫は一歩、藍から後ずさった。

「わっっ!!」

 突然、突き落とすような勢いで背中が押された。

「きゃーーー!」


 奈落の底にでも落ちた気分で、夏姫は絶叫した。



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