ルアナの日常

 まだ朝露が残る村の広場に、剣が振るわれる音が響いていた。


 鋭く、しかし力強く、そしてどこか楽しげに。


「はっ!」


 木剣を振り下ろすたび、長い黒髪が大きく揺れる。

 ルアナは誰もいない広場で、一人稽古を欠かさなかった。


 温泉の「魔力強化」の効能により他国を圧倒する精強な王国軍は、もはやこの大陸に敵はいなかった。

 戦が終わり、彼女が剣を取る理由はなくなった。


 けれど彼女の身体には、鍛え続けた日々の習慣が染み込んでいる。剣を握らない朝は、どうにも落ち着かないのだ。


「お、またやってるな。お前、本当に剣が好きだよなぁ」


 声に振り返ると、籠を抱えたケンが立っていた。

 彼は朝早くから村のパン屋に仕入れへ行っていたらしく、湯気の立つパンの香ばしい匂いが風に乗って広がる。


「うるさい! 好きでやってるわけじゃない。ただ……体が鈍らないようにしてるだけだ」


 赤くなった頬を隠すように、ルアナは再び剣を振った。

 だが内心では、彼に見られていることが少しだけ誇らしくもあった。





 昼下がり。

 ルアナは村の子どもたちに剣術を教えていた。


「違う、腰を落として。腕だけで振るんじゃない、全身を使え!」


 彼女の厳しい指導に、子どもたちは泣きそうな顔で必死についていく。だがその瞳は真剣だ。

 ルアナは彼らの姿にかつての自分を重ねる。剣を強く振るうことしか知らなかった少女時代。


 今は違う。戦うためではなく、守るために剣を伝えることができる。


 それは彼女にとって何よりの誇りだった。


「よし、今日はここまで! あとはしっかり食べて、寝るんだぞ!」


「はーい!」


 子どもたちが去っていくと、どっと疲労が押し寄せる。

 広場の隅で腰を下ろすと、そこにまたケンが現れた。


「ご苦労さん。ほら、水」


 差し出された水筒を受け取り、ルアナは一息に飲み干す。喉を潤す冷たさに、全身が生き返るようだった。


「……ありがとな」


 ぽつりと礼を言うと、ケンはニッと笑った。

 その笑顔を見た瞬間、ルアナは顔を真っ赤にして視線を逸らした。


「な、何だお前は……。いちいちニヤニヤしやがって」


「いや、お前、前よりずっと柔らかい顔をするようになったなと思って」


「なッ……!」


 胸の奥が跳ねる。

 戦場では決して見せなかった女の顔を、自分が彼に見せてしまっている──。

 そう気づくたび、恥ずかしくて、でもどこか嬉しかった。





 その日の夕方。

 ルアナは温泉宿『月見ノ湯』の一室で、小さな机に置かれた古い鎧を手入れしていた。

 もう使うことはないと分かっていても、錆びさせるのは忍びなかった。


「やっぱり、お前は剣と鎧が好きなんだな」


 不意に背後から声がする。

 驚いて振り返ると、窓の外にケンが立っていた。月明かりが彼の顔を淡く照らす。


「な、なんでいちいち覗きに来るんだ!」


「心配だからだよ。……でも安心した。お前がこうして笑って過ごしてるのを見てると、俺も救われる」


 言葉に詰まる。

 胸の奥に温かいものが広がっていき、ルアナは俯いて小さく答えた。


「……バカ。そんなこと、簡単に言うな」


 頬を染め、声を震わせながらも、彼の言葉が嬉しくて仕方なかった。





その日の夜。

ルアナは稽古で汗にまみれた身体を温泉に沈めていた。

 湯けむりが白く立ちのぼり、月光が水面に揺らめいている。

 鍛え抜かれた肩や腕には、今もいくつもの古傷が刻まれていた。

 彼女が戦場で過ごしてきた年月の証だった。


「……ふぅ」


 湯に浸かるたび、傷口が浮かび上がるように赤くなり、ひりつく。

 けれどそれは痛みではなく、どこか安堵のしるしのようでもあった。


「やっぱり無理してたな」


 背後から声がして、ルアナは思わず肩まで湯に沈んだ。

 振り向けば、湯煙の向こうでケンが桶を抱えて立っていた。


「おま、お前! 勝手に入ってくるな!」


「心配なんだよ。お前の傷、放っておいたらまた痛むだろ。……温泉でだいぶ良くなってはきているか」


 ケンは湯に入り、彼女の隣へ腰を下ろす。

 そして、湯に濡れたルアナの肩へそっと手を伸ばした。


「っ……!」


 古い傷痕に指が触れた瞬間、ルアナの身体が小さく震える。

 痛みではなく、熱でもなく、ただ彼の掌から伝わる温もりに。


「ずっと無茶してきたんだな。……でも、もう戦わなくていい」


「な、何言ってやがる……」


 強がってはみせるものの、頬は真っ赤に染まっていた。

 心臓が跳ねるたび、湯の温かさとは違う熱が身体を包んでいく。


「今のお前は、剣を教えて笑ってる。それで十分だ」


「……バカ」


 湯面に顔を伏せ、小さく呟く。

 それでも、彼の隣にいるこのひとときが心地よくて……。

 

 戦いのない日常で、彼女はようやく騎士ではなく、一人の女として生きる道を歩き始めていた。

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