アルーシャの日常

 鐘の音が山間の村に響き渡ると、聖堂の扉が静かに開いた。

 白い修道衣に身を包んだアルーシャは、まだ朝の光に眠そうな瞳を細めながら、差し込む光の中を歩み出た。


「今日も……祈りからですね」


 小さく息を整え、両手を胸の前で組む。


 かつては戦や病に傷つく人々に癒しの奇跡たる治癒魔法を授けていた彼女も、今はただ、人々の安らぎを祈る役目を担っていた。


 窓から射す光が金糸の髪を淡く照らし、その横顔はまるで宗教画の一場面のように荘厳だった。


 祈りを終えたアルーシャを待っていたのは、村の子どもたちだった。


「聖女さま、今日は一緒に遊んでくれる?」


「もちろんです。……でも宿題を終えてから、ですよ」


 柔らかく微笑むと、子どもたちは「ええ〜!」と声を揃えながら駆けていく。


 人々に慕われ、必要とされる日々。

 それでもアルーシャの胸の奥には、ふと影が差す瞬間がある。


 ──私は、本当にこれでよかったのか。


 聖なる力を振るい、血に染まった戦場を渡り歩いた日々。その記憶は、簡単に拭い去れるものではなかった。






 午後になると、彼女は温泉宿の手伝いに立つ。

 手伝いといっても彼女は働くことはない。ただ温泉に浸かり、軒先で涼を取る。その繰り返しだ。


 それでも、彼女の荘厳で艶やかな姿は、そこにいるだけで通行人の関心を集める良い広告塔であった。


 彼女がふらりと広場に顔を出すと、客人たちの視線が自然と彼女に集まった。白い修道衣が温泉宿の柔らかな灯に映え、まるで一夜の幻のように人々の記憶に刻む。


 しかし彼女自身は、見られていることなど気にしていない。


 気まぐれに食事を終えた客に声をかけ、子どもがこぼした汁をさりげなく拭き取る。

 その一つ一つが自然体で、気取ったところがない。


「こんな日々が永遠に続くことを、神に祈りましょう……」


 ふと呟いた言葉は誰に聞かせるでもなく、湯気の向こうに溶けていった。






 夜。

 宿の仕事を終えたアルーシャは、湯屋の脱衣所で衣を脱ぎ捨てた。

 修道衣の下に隠されていた滑らかな素肌があらわになると、思わず自分で頬が熱くなる。


「……いつか聖女と呼ばれなくなる日も、そう遠くはないのでしょうね」


 そんな独り言をこぼし湯に身を沈めると、疲れの芯まで解けていくようだった。


 白い肩が湯気の中に浮かび、月光が差し込む窓から柔らかな光が彼女を照らす。

 濡れた金髪は背に貼りつき、わずかにのぞく胸元は熱に紅潮している。


 浴場の隅に咲く花のように、その姿はどこか艶やかだった。


「教会に閉じこもる日々に戻りたいとは思いません。けれど……」


 思わず口をついて出た独り言。

 そのとき、湯屋の外から声が響いた。


「魔力を使うって、すごく疲れるよな。だけどこれからは、無理して治癒魔法を使わなくてもいい。君がここにいるだけでみんな癒されてるから」


 思わず振り返ると、障子越しに月明かりを受けたケンの影が浮かんでいた。

 アルーシャの頬が一瞬で紅潮する。


「……ッ! そんな言葉、軽々しく言わないでください! 第一、治癒魔法を使うのはいつも貴方にばかりです! 貴方が無茶ばかりするからですよ!」


「ははっ、そうだったな。悪い悪い。……だけど、夜ベッドの上で使ってくる治癒魔法はノーカンで頼むぞ?」


 ケンはそう言っておどける。

 清廉潔白で通る聖女に対し、こんなことを言うのは彼だけだった。


 だからこそ、アルーシャ自身も本当の自分を彼の前にさらけ出すことができた。

 身も心も裸で向き合う、この温泉で。


「……それは今後も使います。貴方の体力不足が悪いのですから」


「言うじゃないかアルーシャ。今夜が楽しみだな?」


 ケンが笑って近寄ると、アルーシャ慌てて湯の中に沈み視線を逸らす。

 けれど胸の奥にあった影は、彼の言葉と温かな湯気に包まれ、少しずつ溶けていく。


 聖女の使命に縛られていた彼女は、ようやく一人の女としての未来を、その胸に密かに思い描き始めていた。

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