第26話:古い伝承の囁き

王城の書庫は、王国の歴史が時間をかけて沈殿した場所だ。重く分厚いカーテンの隙間から差し込む昼の光は、もはや朝の清冽なそれではなく、熱を帯びた、黄金の光線となって書架に降り注いでいた。その光線は、無数の埃の粒を金色に輝かせ、まるで夜空の小さな銀河のようにゆらゆらと宙を舞っている。光の動きに合わせて、埃の粒が形を変え、王国の歴史の断片を、幻のように描き出していた。書庫に満ちる、古びた革と埃の匂いが、昼の熱を帯びて、より一層濃く鼻腔をくすぐる。その匂いは、この国が背負ってきた、遥かなる過去の重責そのもののようだった。


隣には、護衛のグリムが立つ。彼は、ただそこにいるだけで、書庫の静寂を一層深めていた。リグがページをめくるたびに、乾いた紙が擦れる音が、グリムの規則的な息遣いに重なる。それは、まるで古い伝承が、彼の呼吸を通して語りかけられているかのように聞こえた。


リグは、伝承書に記された、風化して薄れた文字を追った。革張りの表紙は、ひび割れ、指先で触れると、ざらついた感触が伝わってくる。その革は、昼の光を吸収してわずかに温かく、しかし、ページをめくる紙はひんやりと冷たかった。リグは、その温度差を、まるでグリムの心に触れているかのように感じた。光線がページの縁をなぞるたびに、埃の粒が渦を巻き、文字の凹凸が影となって浮かび上がる。リグは、その文字の凹凸を、まるでグリムの肌の起伏を確かめるかのように、丁寧に指先でなぞった。


「守り神は、王家の血を糧に、人の姿を得る。故に、守り神は、人の形を借りる間、己の過去を忘れる。王家の命が尽きるとき、守り神もまた、共に消え去る」


リグの心臓が、ドクン、ドクンと激しく脈打った。その音は、まるで古い歴史が、今、彼の胸の中で蘇ったかのようだった。喉の奥が乾き、呼吸が止まる。その記述は、グリムと自分の関係を、あまりにも正確に言い当てていた。グリムが記憶を持たないこと、そして、自分の命が、グリムの存在を繋ぎ止めていること。すべてが、この古い伝承の中に記されていたのだ。


(ああ、グリム。君は、この伝承書を読んだら、どう思うだろう。いや、君は、この文字を読んだとしても、それが君自身のことだとは、思わないだろう。君は、自分の正体を知らない。だが、俺は、知ってしまった。君の存在は、俺の命と引き換えに存在する、儚い幻だ。この伝承は、俺と君の、避けられない運命を語っているのか?俺は、君の命を奪う存在なのか?それとも、君は、俺の命を食らう存在なのか?この伝承は、俺たちの愛の形を、どうして、こんなにも残酷に示唆しているのだ?これは、単なる書物ではない。これは、俺とグリムを縛る、血と契約の鎖だ。この鎖は、俺の未来を、そしてグリムの未来を制するのか?いや、この鎖は、俺が君にかけたものなのか?それとも、俺が君にかけられたものなのか?俺は、君を支配しているのか?それとも、君に支配されているのか?この関係は、一体、何なのだ?)


リグの指先が、伝承書の文字を震えながらなぞる。その震えは、もはやただの肉体的なものではなかった。それは、彼とグリムを結ぶ、運命の鎖が軋む音のようだった。その文字は、もはやただの文字ではなかった。それは、グリムとリグの、血と契約の鎖のようだった。


「リグ様、何か気になることが?」


グリムが、静かに尋ねた。その声は、書庫の静寂に溶け込み、リグの耳に届くまでに、ずいぶん長い時間がかかったように感じられた。リグは、はっとしてグリムを見た。彼の瞳には、何も映っていなかった。


「……いや。ただ、少し、古い言葉が難しくてな」


リグは、そう言って、伝承書を閉じた。その言葉に、グリムは、無表情のまま、わずかに首を傾げる。彼の視線は、伝承書に向けられていた。


(グリム。君は、この伝承に、何かを感じたのか?君の心の中に、何世紀も前の声が、微かに囁いているのか?)


グリムの体から、微かに、古木の香りがした。それは、書庫の埃っぽい空気とは違う、深く、そして懐かしい匂いだった。リグは、グリムのその匂いに、彼の正体が、この書庫の、この国の、そしてこの伝承の、すべてと繋がっていることを確信した。


リグは、グリムの隣に立ち、彼の肩に、そっと手を伸ばした。手のひらにじんわりと汗が滲み、指先が震える。今度は、グリムは、身を引かなかった。リグの指先が、グリムの肩に触れる。その瞬間、リグの心臓が、激しく脈打った。その鼓動は、グリムの肩を通して、彼の体に微かな振動を伝え、まるで二人の心臓が一つになったかのように感じられた。


(君は、俺を拒まなかった。なぜ?この伝承を知ってしまった俺の、罪深い手を受け入れたのか?)


グリムの肩から伝わる温かさが、リグの指先から、体中に広がる。それは、単なる体温ではなかった。それは、この国の歴史と、守り神の運命が、リグの体に流れ込んでくるかのような感覚だった。


リグは、グリムの肩に触れたまま、静かに瞳を閉じた。彼は、もう、後戻りできないことを知っていた。この伝承が、彼とグリムの、避けられない運命の始まりであることを。そして、この温かさが、いつか彼らの魂を、永遠に結びつけることを。

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