第三話 絆の解法

 混乱は、丸一日続いた。

 ライラの身体に入ったゴリンは、その軽すぎる身体と、あらゆるものから流れ込んでくる膨大な「声」に耐えきれず、何度も気を失いかけた。

 彼の魂は、論理と数字で構築された静寂の世界に生きてきた。

 だが、今、彼の五感は、風のささやき、木々の喜び、そして石ころ一つ一つの不満といった、定義不能な情報の大洪水に晒されている。

 一歩歩けば大地がその重みに文句を言い、手を伸ばせば触れた枝がその無作法を嘆く。

 それは、彼にとって耐え難い苦痛であり、自らの世界そのものが崩壊していくような恐怖だった。

「…もう、駄目だ…」

 ライラの姿をしたゴリンが、地面に突っ伏したまま、か細い声で呻いた。

「一歩歩くだけで、地面の文句が聞こえてくる…。石ころ一つにも感情があるなど、俺の論理が崩壊する…」

 一方、ゴリンの身体に入ったライラもまた、その頑丈だが絶望的に鈍重な身体と、何も聞こえない「沈黙」の世界に、精神が悲鳴を上げていた。

 彼女の世界は、森羅万象が奏でる生命の歌で満ちていた。

 だが、今、彼女が感じるのは、自らの肉体を流れる血の音、重々しい心臓の鼓動、そして、ゴリンの身体が発する、底なしの食欲だけ。

 森が死にかけているというのに、その悲しみを共有できない。

 それは、彼女にとって、生きながらにして魂を殺されるに等しい、絶対的な孤独だった。

「あなたこそ、どうなのよ…」

 ゴリンの姿をしたライラが、岩に背を預けたまま、低い声で答えた。

「この身体、木々のささやきが全く聞こえないわ。聞こえるのは、自分の腹の虫の音と、心臓の音だけ。こんな孤独な世界で、あなたたち、よく正気でいられるわね…」

 二人の絶望的なやり取りを聞いていたリィナの表情から、ふっと、これまでの困惑したような、素朴な少女の面影が消えた。

 彼女がすっと背筋を伸ばすと、その瞳には、ゴリンもライラも見たことのない、鋼のような強い意志の光が宿っていた。

 それは、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが持つ、静かで、しかし揺るぎない覚悟の色だった。

「しっかりしてください、お二人とも!」

 リィナの、いつになく厳しい声が、二人の意識を現実に引き戻した。

「あなたたちが、入れ替わってしまったのは、事実です。ですが、森が死にかけているのも、事実。今、あなたたちが持っているのは、ゴリンさんの『知識』と、ライラさんの『身体』、そして、ライラさんの『直感』と、ゴリンさんの『身体』です。嘆いている暇があるなら、その二つを組み合わせる方法を考えるべきです!」

 リィナの言葉に、二人ははっとしたように顔を上げた。

 彼女の言う通りだった。

 今は、失ったものを嘆く時ではない。

 手にしたものを、武器に変える時だ。

「ゴリンさん、あなたは今、ライラさんの身体を使っています。その感覚で、もう一度、森の声を、感じてみてください。あなたの分析では、何が原因だと考えられますか?」

「…感じる、だと…?」

 ライラの身体を通して、ゴリンは、自らの魂に直接、石の悲しみの声が流れ込んでくるのを感じた。

 それは、ただの比喩ではない。

 物理的な腐食とは違う、存在そのものが汚染されていくような、絶対的な拒絶の感覚だった。

 彼は、その感覚を、必死に自らの知識と結びつけた。

「…分かったぞ。犯人は、毒を川に流したんじゃない。石そのものに、呪いを刻み込んだんだ。特殊な錬金術で、物質の構造を内側から崩壊させる、一種の共鳴呪詛だ。その呪いが、川の水を通して、森全体の『絆』を、ゆっくりと断ち切っているんだ!」

「石に刻まれた共鳴呪詛…」

 ライラの魂が宿るゴリンの身体が、低い声で呟いた。

「それなら、話は別よ。ゴリン、あなたの身体は、石の響きにとても敏感だわ。私には聞こえなかった、石の奥底にある、微かな不協和音が感じられる。呪いの中心は、橋の基礎、その中でも一番大きな礎石よ。そこから、全ての不協和音が生まれている」

「ライラさん、その不協和音を、ゴリンさんの身体の力で断ち切ることはできますか?」

「…無理ね。あまりに強固すぎるわ。でも…」

 ゴリンの姿をしたライラは、ライラの姿をしたゴリンを見つめた。

「もし、あの礎石の共鳴を、逆の振動で打ち消すことができれば…」

「…相殺か!」

 ライラの身体から、ゴリンが叫んだ。

「そうだ、それしかない!ライラ、お前のその身体なら、森の奥深くにある、清浄な力を持つ水晶の原石まで、誰よりも早くたどり着いて持ち帰れるはずだ!あの水晶を削り、特殊な音叉を作れば、呪詛の振動を打ち消すことができるかもしれない!」

「分かったわ」

 ゴリンの身体に入ったライラは、自らの頑丈な身体を見下ろした。

 確かに、この足と腕なら、普段は行けないような険しい道を踏破し、重い水晶の原石を持ち帰ることができるかもしれない。

 二人の間に、新たな協力の形が生まれようとしていた。


 その時だった。

「——見つけたぞ、裏切り者ども」

 あの旧英雄派の男が、数人の部下を引き連れて、再び姿を現した。

「まだ生きていたか。だが、その滑稽な姿で、何ができる?」

 男が、嘲笑うように剣を構える。

 ゴリンとライラは、咄嗟に身構えたが、慣れない身体では、まともに動くことすらできない。

 絶体絶命だった。

 だが、その二人の前に、リィナが、静かに立ちはだかった。

 彼女は、いつも手にしている、ただの樫の木の杖を、ゆっくりと構えた。

 その佇まいは、これまでの素朴で真面目な少女のものではない。

 幾多の死線を乗り越えてきた、戦士のそれだった。

「小娘が!どけ!」

 男が、斬りかかってくる。

 リィナは、動かなかった。

 ただ、男が踏み込む直前、とん、と軽く、杖で地面を突いた。

 その瞬間、男の足元の地面が、まるで生き物のように盛り上がり、その体勢を崩した。

「なっ…!?」

 リィナは、その一瞬の隙を逃さない。

 彼女は、驚くべき速さで男の懐に潜り込むと、杖の先端で、男の鳩尾を正確に、しかし加減して打ち据えた。

 男は、「ぐえっ」という蛙のような声を上げて、その場に崩れ落ちる。

「その程度の覚悟ですか」

 リィナの、氷のように冷たい声が響いた。

「もっと深い闇を、絶望を、私は知っています。あなた方程度の覚悟では、この先の未来を切り拓くことはできません」

 その圧倒的な気迫と、無駄のない動きに、残りの部下たちは、恐怖に凍りつき、一歩も動くことができなかった。

 ゴリンとライラもまた、言葉を失い、目の前で起きている光景を、ただ呆然と見つめていた。

 彼女が、ただの天然な少女ではない、宰相特使という地位に相応しい人物であったことを、二人は、この時、初めて知ったのだった。

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