第四話 忘れられた村の芸術家

「私の静かな食事の時間を邪魔するのは、どこのどなたかな?」

 仮面の男の声は、乾いた木の葉が擦れるように、静かな村に不気味に響いた。

 その手には、ゴリンが盗まれた精密測量器具が握られている。

 だが、その姿は変わり果てていた。

 本来なら寸分の狂いもない直線を引くための銀色の定規は、禍々しい紫色の光を放つ歪な杖へと改造され、先端の水晶は、まるで脈打つ心臓のように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。

「まあ、良いでしょう。あなた方には、私の芸術の、最初の観客となる栄誉を差し上げますから」

 男が芝居がかった仕草で杖を掲げると、三人の足元を覆っていた灰色の苔が、意思を持った生き物のように蠢き始めた。

「来るぞ!」

 ゴリンが叫ぶのと同時に、苔は無数の触手となって三人に襲いかかった。

 熟練の戦士であれば一瞬で切り払えたであろうその攻撃も、今の三人にとっては致命的な脅威だった。

「下がれ!」

 ゴリンは、リィナとライラを背後にかばい、腰に下げた手斧を構えた。

 彼は技師であり、戦士ではない。

 だが、その目には、自らの誇りを汚されたことへの、燃えるような怒りが宿っていた。

「俺の道具で、ふざけた真似をしやがって…!」

 彼は、苔の触手を力任せに叩き斬る。

 だが、斬られた触手はすぐに再生し、まるで嘲笑うかのように、再び彼に襲いかかった。

「無駄ですよ、ドワーフさん」

 仮面の男は、ククク、と喉の奥で笑った。

「それは、ただの苔ではない。この村に満ちる絶望と悲しみが、形を成したものです。物理的な攻撃では、決して滅することはできない」

「なら、これはどう!」

 ライラが、背中の弓に矢をつがえ、放った。

 彼女の矢は、仮面の男ではなく、男の背後にある崩れかけた教会の鐘を正確に射抜いた。

 カーン、という澄んだ、しかしどこか悲しげな音が響き渡る。

 その聖なる音波に、苔の動きが一瞬だけ、確かに鈍った。

「なるほど…」

 男は、感心したように手を叩いた。

「エルフの番人、でしたか。さすがに、浄化の力の本質を理解している。ですが、その程度では、私の芸術は止められませんよ」

 男が杖を振るうと、今度は村の中央にある井戸から、黒く粘ついた液体が溢れ出し、苔の触手と融合して、より強力な絶望の化身へと姿を変えた。

「リィナさん、何か手は!」

 ゴリンが、再生する触手をいなしながら叫んだ。

「分かりません…!大地が、あまりに深く傷つきすぎていて、声が…声が聞こえないんです!」

 リィナは、大地に手を触れ、必死にその心と対話しようと試みていた。

 だが、彼女の意識に流れ込んでくるのは、ただ、終わりのない絶望の奔流だけだった。(このままでは、ジリ貧だ…!)

 ゴリンの脳が、高速で回転する。

 敵の力は、絶望を糧としている。

 ならば、その供給源を断てばいい。

 だが、どうやって?

 彼の視線が、男が持つ改造された測量器具に釘付けになった。

 あれは、俺が作ったものだ。

 構造は、俺が一番よく知っている。

「ライラ!あいつの注意を引け!リィナ、俺の言う通りに動け!」

 ゴリンの、決死の覚悟を秘めた声が響いた。

 ライラは、躊躇なく弓を構え、次々と矢を放ち始めた。

 矢は男を狙うのではなく、男の周囲の壁や地面を正確に射抜き、その動きを巧妙に制限していく。

「お見事。ですが、いつまで持ちますかな?」

 男がライラに気を取られた、その一瞬の隙。

「リィナ、今だ!あいつの足元、三歩先の石畳だ!そこだけ、苔の再生が僅かに遅い!」 ゴリンの鋭い指示が飛ぶ。

 リィナは、言われるがままに、持っていた水袋の水を、その石畳めがけて投げつけた。

 清らかな水に触れた苔が、ジュッ、という音を立てて僅かに退く。

「そこだ!」

 ゴリンは、手斧を構えたまま、一直線に男の懐へと突進した。

 彼は、男を攻撃するつもりはなかった。

 彼の狙いは、ただ一点。

 男が持つ、自らの測量器具だけだった。

「なっ…!」

 仮面の男は、ゴリンの捨て身の突撃に、一瞬だけ反応が遅れた。

 ゴリンは、男の腕をすり抜け、その手から測量器具をひったくるように奪い取ると、そのまま地面を転がった。

「返せ!」

 男が叫ぶが、もう遅い。

 ゴリンは、奪い返した器具を、躊躇なく、近くの石壁に叩きつけた。

 甲高い金属音と共に、彼の誇りであったはずの測量器具が、無残に砕け散る。

 先端の水晶が砕け散った瞬間、苔の動きが完全に停止した。

「…ああ…私の、芸術が…」

 男は、力なくその場に膝をついた。

 ライラの矢が、彼の木の仮面を正確に射抜き、地面に弾き飛ばす。

 その下に現れたのは、ドワーフでも、エルフでもない、一人の、疲れ果てた人間の男の顔だった。

 頬はこけ、その瞳は、深い絶望の淵の色をしていた。

「…お前は、誰だ」

 ゴリンが、息を切らしながら問うた。

「私は…サイラス」

 男は、虚ろな声で答えた。

「この村の、最後の生き残りだ」


 ◇


 サイラスが語り始めたのは、絶望と、そして狂気に満ちた、一人の男の物語だった。

 彼は、かつてこの村で、歴史を研究する学者だった。

 この村は、数十年前、原因不明の疫病によって、一夜にして滅んだ。

 人々は、苦しみながら死んでいったのではない。

 ただ、静かに、生きる気力そのものを失い、眠るように消えていったのだという。

 サイラスだけが、偶然村を離れていて、助かった。

「私は、全てを失った。そして、この村に残された、巨大な『沈黙』と、二人きりになった」

 彼は、村を覆う灰色の苔を指差した。

「私は、この苔が、村人たちの最後の想いが形になったものだと気づいた。そして、それを制御する方法を、見つけ出してしまったのだ。君の道具は、素晴らしかったよ、ドワーフ。その精密な構造は、この混沌とした感情のエネルギーを、完璧に制御し、増幅してくれた」

 彼が、二つの事件を起こした犯人だった。

 彼は、街道建設が、この村の静かな眠りを妨げ、いずれ、この村を完全に破壊するだろうと恐れた。

 だから、彼は、両種族の間に争いの種を蒔き、工事そのものを頓挫させようとしたのだ。

「銀葉樹を枯らしたのは、この苔の力の一部を使ったまでだ。生命力を吸い取るのではない。生命そのものを『忘れさせる』力だ。そして、君の道具は…」

 サイラスは、ゴリンを見つめた。

「あの夜、私はこの苔の力で、君たちの野営地の記憶そのものを、大地から一時的に消し去った。だから、警報の鈴は鳴らず、見張りは何も気づかなかった。君たちの誇る錠前も同じこと。あれは物理的にも魔法的にも破れないだろう。だが、私の力は、物事の『記憶』そのものに干渉する。私は錠前に、ほんのわずかな時間だけ、『自分は施錠されていない』と忘れさせたのだ。錠前が自らの役割を忘れた一瞬の隙を突いて、鍵のかかっていない箱から道具を取り出した。ただ、それだけだ」

 あまりに常軌を逸した犯行の手口に、三人は言葉を失った。

「なぜ、こんなことを…」

 リィナが、震える声で尋ねた。

「なぜだと?」

 サイラスの顔が、憎悪に歪んだ。

「あの日、村が疫病に襲われた時、私は助けを求めた!森のエルフに!だが、彼らは森の掟を理由に、見殺しにした!近くの鉱山で金を掘っていたドワーフたちも、見て見ぬふりをした!この村は、お前たち両方に見捨てられたんだ!だから、私は誓った。この村の静寂を、誰にも邪魔させはしない、と!」

 サイラスの言葉に、ライラの脳裏で、幼い頃に肌で感じた、あの古い悲劇の記憶が、稲妻のように結びついた。

 数十年前、森を襲った原因不明の呪い。

 木々が歌うのをやめ、多くのエルフが生きる気力を失って、光の中へと還っていったという「大いなる枯死」の時代。

 その時期が、この村が滅びた時期と、あまりにも正確に重なる。

「違う!」

ライラが叫んだ。その声は、サイラスの悲しみと、自らの民の悲しみの両方を代弁するかのように、悲痛に響いた。

「私たちは、見捨ててなどいない!あなたの村を襲った疫病…それは、私たちが『大いなる枯死』と呼ぶ、あの強大な呪いと同じものだったのよ!あの呪いは、森さえも蝕み、私たちも多くの仲間を失った。自分たちの森を守ることで精一杯で、ただ耐えることしかできなかったの!」

「言い訳だ!」

 サイラスは、残された最後の力を振り絞り、井戸から溢れ出す黒い液体を、その身に浴びた。

 彼の体が、みるみるうちに巨大な苔の怪物へと変貌していく。

「この村と、村人たちの悲しみと、私は一つになる!そして、お前たち全てを、この永遠の沈黙の中へと引きずり込んでやる!」

 苔の巨人が、三人に襲いかかる。

 もはや、言葉は通じない。

「やるしかない!」

 ゴリンが手斧を構え、ライラも弓をつがえる。

 だが、その時、リィナが二人の前に立ちはだかった。

「待って!戦っては、駄目!」

 彼女は、怪物と化したサイラスに向かって、一人、歩き出した。

「リィナ、危ない!」

「大丈夫」

 リィナは、振り返らずに言った。

「この人の心は、憎しみだけじゃない。本当は、ただ、誰かにこの悲しみを、分かってほしかっただけなのよ」

 彼女は、怪物の目の前で、そっと膝をついた。

 そして、大地に手を触れ、静かに、歌い始めた。

 それは、かつて彼女が、アルドゥスの呪いに苦しむ大地に歌いかけた、鎮魂の子守唄だった。

 彼女の澄んだ歌声が、絶望に満ちた廃村に響き渡る。

 怪物の動きが、ぴたりと止まった。

その巨体を構成していた、苔や黒い泥が、まるで涙のように、ぽろぽろと剥がれ落ちていく。

 歌声は、サイラスの魂の奥底に、固く閉ざされていた、家族との温かい記憶を呼び覚ましたのだ。


 やがて、苔の巨人は完全に崩れ落ち、後には、元の姿に戻ったサイラスが、子供のように泣きじゃくっていた。

 彼を縛り付けていた、数十年の孤独と絶望が、リィナの歌によって、ようやく解き放たれた瞬間だった。


 ◇


 事件の真相は、リィナの報告書によって、宰相府に届けられた。

 サイラスは、殺人未遂と窃盗の罪で裁かれることになったが、リィナとライラの嘆願により、極刑は免れ、王都の修道院で、その罪を償うことになった。


 数日後、街道建設の現場には、以前とは違う、穏やかな空気が流れていた。

 ゴリンは、新しい測量器具を手に、ライラに頭を下げた。

「…悪かった。俺は、お前たちの森が感じていた痛みを、何も見ようとしていなかった」

「ううん、私もよ」

 ライラも、静かに首を横に振った。

「私も、あなたの仕事に込められた誇りを、理解しようとしなかったわ」

 しばしの沈黙の後、ゴリンは、どこか決まり悪そうに、しかし真っ直ぐにライラを見つめると、ごつごつとした右手を差し出した。

 ドワーフの流儀ではない、人間たちの和解の作法だった。

「俺は、ゴリン・スティールシェイパーだ。よろしく頼む」

 ライラは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに森の湖のような瞳を優しく細めると、その手を柔らかく握り返した。

「ライラ・メドウライトよ。こちらこそ、よろしくね、ゴリン」

 二人の間にあった、最初の、そして最も深い亀裂は、一つの悲しい事件を経て、ようやく、癒やされようとしていた。

 リィナは、そんな二人の姿を、少し離れた場所から、穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。

 ようやく、本当の意味で、この道の建設が始まる。

 その確信が、彼女の胸を温かくした。

 だが、彼女の心には、一つの、消えない染みのような不安が残っていた。

(あの疫病…サイラスさんの村を滅ぼしたという、あの呪い。あれは、本当に終わったことなのだろうか…?)


彼女の予感が、的中することになるのは、それから、まだ少しだけ先の話である。

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