第三話 ちぐはぐな旅路

 西へ。

 リィナが指し示した方角に、地図にも載っていない廃村があるという。

 いがみ合うドワーフとエルフ、そしてその仲裁役である人間の特使という、奇妙で、どこかちぐはぐな三人組の、最初の冒険が始まった。


 森に入って一時間もしないうちに、最初の口論が勃発した。

「こちらの獣道を行くのが最短ルートだ。俺の計算によれば、日没までに村の入り口まで到達できる確率は八十七パーセント」

 ゴリンは、広げた地図とコンパスを交互に見比べながら、断言した。

 彼の指し示す道は、確かに鬱蒼とした森を一直線に貫いている。

「駄目よ」

 即座に、ライラがそのルートを否定した。

 彼女は、道の入り口に茂る羊歯しだの葉を指差した。

「この道の先には、気難しいアナグマの長老が住んでいるわ。彼の昼寝の時間を邪魔すれば、岩を投げつけてくる。それに、道の真ん中には『囁きの泉』がある。水を飲んだ者の秘密を、森中に大声で暴露する、とても意地悪な泉よ」

「アナグマの気分だと? 泉の性格だと?」

 ゴリンは、こめかみに青筋を浮かべた。

「非科学的にもほどがある!そもそも、なぜお前はそんなことを知っている!」

「森が教えてくれるからよ。あなたには聞こえないでしょうけど」

 二人の間に、早くも険悪な空気が流れる。

 リィナは、慌てて二人の間に割って入った。

「お、お二人とも、落ち着いてください!ええと、私が王都から持ってきた最新の測量地図によりますと…」

 彼女は、懐から一枚の立派な羊皮紙を取り出した。

 宰相府お墨付きの、最新の地理情報が記されているはずの地図だ。

「こちらの、少し南に迂回するルートがあります!これなら、アナグマさんの縄張りも、おしゃべりな泉も避けられますし、ゴリンさんのルートからの遅れも、ほんのわずかです!」

 リィナが、自信満々に指し示したその道は、確かに合理的に見えた。

 ゴリンは、おしゃべりな泉という単語に納得がいかない顔をしつつも、宰相特使の顔を立てて渋々頷いた。

 ライラも、森を大きく迂回するその道に、異論はないようだった。


 だが、そのリィナが示した「最新の地図」は、数十年前に作られたものを写しただけで、一度も現地調査が行われていない、机上の空論の産物だった。

 三人がその道を進んで一時間後、彼らの目の前に広がっていたのは、道ではなく、膝まで浸かる広大な沼地だった。

「……宰相特使殿」

 ゴリンが、泥水に足を取られながら、低い、地の底から響くような声で言った。

「この沼に関する記述は、その『最新の地図』とやらに、記載されていたのか?」

「え、ええと…ここには、『かつて湿地帯だったが、現在は乾いている』と…」

 リィナの声が、蚊の鳴くように小さくなる。

 ゲコ、ゲコ、と、彼女の言葉を嘲笑うかのように、周囲から無数の蛙の鳴き声が響き渡った。

「森の地図は、毎年書き換わるものよ。大地は生きているのだから」

 ライラが、呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。

 結局、三人は日没までに沼地を抜けることができず、泥と水草の匂いが立ち込める沼地の小島で、最悪の野営を余儀なくされた。


 ◇


 その夜、小さな焚き火を囲む三人の間には、気まずい沈黙が流れていた。

 湿った薪は、ぱちぱちと不満げな音を立て、煙ばかりが目に染みる。

「…やはり、野営地はあちらの岩陰にすべきだった」

 ゴリンが、濡れた服を乾かしながら、ぶっきらぼうに言った。

「あそこは地盤が安定し、風向きを計算した結果、最も効率的に体温の低下を防げる場所だった。それに比べて、ここは…」

「ここは、水の精霊が安らげる場所よ」

 ライラが、焚き火で乾かした苔を地面に敷きながら、反論した。

「岩陰は、たしかに乾いているかもしれないけれど、岩の精霊がとても不機嫌だったわ。あんな場所で眠ったら、悪夢を見ることになる」

「精霊の機嫌だと? いい加減にしろ!第一、お前が昼間に『このキノコは食べられる』と言って採ってきたそれは、俺の図鑑によれば猛毒の『ワライダケ』だぞ!もし食べていたら、今頃俺たちは腹を抱えて笑い死にしていた!」

「あら、あの子たちは、ただ誰かに笑ってほしかっただけよ。悪意はなかったわ」

「善意で人を殺す気か!」

 またしても、二人の間に火花が散る。

 リィナは、おずおずと、仲裁に入った。

「あ、あの、お二人の言うことは、どちらも正しいと思います!つまり、その…ゴリンさんの論理的な安全性と、ライラさんの自然との調和、その両方を満たす場所が、きっと最高の野営地になるのではないでしょうか!」

 彼女の真面目すぎる意見は、火に油を注いだだけだった。

「「そんな場所があるなら最初からそうしている!!」」

 ゴリンとライラの声が、珍しく完璧に重なった。

 リィナは、シュン、と肩を落とす。

 だが、そんなちぐはぐなやり取りの中にも、変化は生まれつつあった。

 ゴリンは、ライラが淹れてくれた、奇妙だが体の芯から温まる薬草茶を黙って飲み干し、ライラは、ゴリンが文句を言いながらも、火傷しないようにと器の周りに巻いてくれた革紐を、そっと撫でていた。

 リィナは、そんな二人の姿を、少しだけ嬉しいような、寂しいような気持ちで見つめていた。


 ◇


 数日後、三人はようやく、目的の廃村へと続く最後の森にたどり着いた。

 だが、森に一歩足を踏み入れた瞬間、三人は同時に足を止めた。

 空気が、違う。

 これまでの森に満ちていた、混沌としながらも力強い生命の気配が、嘘のように消え失せていた。

「…静かすぎる」

 ゴリンが、警戒を込めて呟いた。

 鳥の声も、虫の羽音も、風が木々の葉を揺らす音すらしない。

 まるで、巨大な何かが息を潜め、森全体が恐怖に凍りついているかのようだった。

「森が…怯えている…」

 ライラは、青ざめた顔で、目の前の木にそっと触れた。その樹皮は、本来の温もりを失い、氷のように冷たい。

「何かに、生命力を吸い取られているかのようだわ。それも、とても乱暴に」

 リィナは、大地に手を触れた。彼女が感じ取ったのは、もはや「沈黙」や「無」ではなかった。

 それは、純粋な「恐怖」。

 大地が、これから自分たちの身に起こるであろう何かを予期し、赤子のように震えているのだ。

「行きましょう」

 リィナは、覚悟を決めた顔で言った。

「この先に、全ての答えがある」


 森を抜けた先、丘の下に、その廃村はあった。

 夕暮れの赤い光が、静まり返った村を、まるで血のように染めている。

 家々は、朽ち果てているのではなく、まるで時間が止まったかのように、奇妙な静寂を保っていた。

 だが、その全てが、分厚い灰色の苔のようなものに覆われ、その物が持つ固有の色彩という色彩が、完全に失われている。

 村の中央にある井戸は、黒く、油のような液体で満たされ、夕暮れの光を一切反射していなかった。

 人の気配はない。

 争った形跡も、逃げ出した痕跡もない。

 まるで、村人たちが、ある日突然、神隠しにでもあったかのようだった。

「これは…自然の腐敗ではないな」

 ゴリンは、崩れかけた家の石壁に触れ、その表面が砂のように脆くなっているのを確かめた。

「石材を結合させている鉱物の分子構造が、内側から破壊されている。これは、極めて高度な錬金術か、あるいは、それに類する呪いだ」

「この苔も、植物じゃないわ」

 ライラは、地面を覆う灰色の苔を、木の枝でつついて言った。

「これは… 『固形化した沈黙ソリダム』。この場所に満ちていた恐怖や絶望が、形を持ったものよ。この村の記憶を、今も喰らい続けている」

 リィナは、何かに引き寄せられるように、村の中央にある井戸へと、ふらふらと歩いて行った。

 ゴリンとライラが、慌てて彼女の後に続く。

 井戸に近づくにつれて、リィナの耳にだけ、微かな声が聞こえ始めた。

 それは、何百という人々の、声にならない囁き。

 後悔、悲しみ、そして、助けを求める声。

 彼女が井戸の縁に手をかけた、その瞬間だった。

 囁き声は、突如として、一つの、鋭い刃のような精神的な絶叫へと変わった。

「「「あああああああっ!」」」

 三人は、同時に頭を抱え、その場に崩れ落ちた。

 脳を直接、灼熱の針でかき混ぜられるような、凄まじい痛み。


「——ようこそ、客人たち」


 乾いた、木の葉が擦れるような声が、どこからともなく響いた。

 三人が、痛みに耐えながら顔を上げると、村で最も大きな、崩れかけた教会の廃墟の入り口に、一人の男が立っていた。

 ぼろぼろのローブをまとい、その顔は、不気味な笑みを浮かべた、粗末な木の仮面で隠されている。

 その男の手には、ゴリンが盗まれたはずの精密測量器具の一つが握られていた。

 だが、その銀色の器具は、禍々しい紫色の光を放ち、まるで生きているかのように、不気味に脈動していた。

「私の静かな食事の時間を邪魔するのは、どこのどなたかな?」

 仮面の男は、芝居がかった仕草で、ゆっくりと三人に歩み寄ってきた。

「まあ、良いでしょう。あなた方には、私の芸術の、最初の観客となる栄誉を差し上げますから」

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