第一話 開かれた扉

 その日、アストラルムは歴史的な一日を迎えようとしていた。

 外界との本格的な国交樹立を目指し、エレジア王国から正式な使節団が来訪するのだ。


 港には、白銀の鷲の紋章を掲げた、アストラルムの民が見たこともないほど巨大で壮麗な船が停泊していた。

 木材は黒く磨き上げられ、帆は純白の帆布でできている。

 幻影ではない、確かな実体を持つその威容は、アストラルムののどかな港の風景の中で、ひときわ異質な存在感を放っていた。


 船から降りてきた使節団の面々もまた、都市の住民にとって異質な存在だった。

 金糸で刺繍された豪奢な衣服、腰に下げた剣の見慣れない装飾、そしてその引き締まった顔つきは、外界で生きる者たちの、したたかさと強かさを物語っていた。

 都市の子供たちは、物珍しそうに、そして少しだけ怯えたように、彼らを遠巻きに眺めている。


「ようこそ、幻影都市アストラルムへ。エレジア王国の使節団の皆様を、心より歓迎いたします」

 都市真理探求室の室長として、アゼル・クレメンスも、リリア・フローレスやガイウス隊長と共に、評議会の代表として彼らを出迎えた。

 この日のために仕立てた、動きやすさよりも礼節を重んじた式典用のローブの堅苦しさに、アゼルは少しだけ眉をひそめていた。


 使節団を率いていたのは、アンブロワーズ・ヴァロワと名乗る、壮年の外交官だった。

 柔和な笑みの奥に、全てを見透かすかのような、剃刀のように鋭い光が宿っている。

 彼はアストラルムの不可思議な空気を一瞥すると、興味深そうに目を細めた。

「これは、ご丁寧にどうも。アゼル・クレメンス室長殿ですな。宰相閣下より、あなた方の素晴らしい功績については、かねがね伺っております。この都市の幻影が、かつてないほど安定しているとか。その技術の一端、ぜひ拝見したいものですな」

 ヴァロワは、優雅な仕草でアゼルに挨拶を交わすと、ふと視線を彼が身につける首飾りに移した。

 それは、リリアが作った、アゼルの研究の失敗作から生まれた賢者の石のアミュレットだった。

 ヴァロワの瞳が、わずかに、しかし鋭く輝く。

「それは、美しい石ですな。錬金術の結晶とお見受けしましたが、この都市では、このような美しいものが日常的に生み出されているのですか?」

「いえ、これは…」

 アゼルが言葉に詰まると、隣にいたリリアがにこやかに答えた。

「はい!これは、室長が開発された特別な触媒を使って、私が作った、世界でたった一つの作品なんです!」

 彼女の屈託のない笑顔と、その言葉に、ヴァロワは「ほほう」と感嘆の声を漏らした。

 だが、その視線は、アミュレットの輝きを、まるで何かを読み取るかのように、じっと見つめていた。


 最初の公式会談は、評議会の応接室で和やかに行われた。

 大理石のテーブルには、アストラルムで採れた果実や、珍しい幻影の茶菓子が並べられたが、使節団の者たちはそれに手を付けようとはせず、ただ礼儀正しく微笑んでいるだけだった。

 彼らにとって、錬金術で生み出された食物は、まだ未知であり、警戒すべき対象だった。

 表向きの議題は、アストラルムが持つ幻影の安定化技術と、エレジアが持つ資源や食料との交易協定について。

 だが、アゼルは、ヴァロワ大使の質問の端々に、奇妙な棘が隠されているのを感じ取っていた。

「…ところで、室長殿。あなた方の都市を長年蝕んでいたという『記憶の残滓レムナント』ですが、その性質について、もう少し詳しくお聞かせ願いたい。我が国でも、過去に、原因不明の集団失踪事件や、一夜にして廃村と化した村の記録が、いくつか残っておりましてな。あるいは、これらは同種の、未解明な錬金術災害なのではないかと、愚考する次第です」

 ヴァロワの言葉は、アゼルの心の奥底にある、封印された扉を、静かに、しかし確かに叩いノックしていた。

 彼の視線は、アゼルの反応を探るように、その鳶色の瞳をじっと見つめている。

「それは、我々の研究の核心に関わる部分です。安易に情報をお渡しすることは…」

 アゼルが言葉を濁すと、ヴァロワは柔和な笑みを崩さず、しかし有無を言わせぬ圧力をもって続けた。

「我々は、これらを、ただの『不幸な事故』で終わらせるつもりはございません。これらの事件は、すべて、錬金術師を名乗る者たちの存在が確認されているのです。彼らの研究は、常に世界を揺るがす。ゆえに、この問題は、両国の未来のために、決して避けては通れぬ道かと」


 その夜、使節団の歓迎晩餐会が、評議会のホールで盛大に催された。

 楽団が奏でる優雅なワルツの調べ、水晶のゴブレットが触れ合う軽やかな音、そして人々の穏やかな笑い声。

 ホールは、アストラルムとエレジア王国の輝かしい未来を象徴するかのような、華やかな雰囲気に満ちていた。


 テーブルには、アストラルムの幻影料理人が腕を振るった、見る者を楽しませる幻想的な料理の数々が並んでいた。

 だが、エレジアの使節団は、それらの料理をほとんど口にしようとせず、ワイングラスを傾けながら、アストラルムの文化や、建築様式について、熱心に質問を繰り返していた。

 その質問は、表向きは好奇心に満ちていたが、アゼルには、それが全て、この都市の「防御」を測るための、入念な調査に思えてならなかった。


 宴の半ば、ヴァロワ大使が「少し夜風にあたる」と言って席を立ったきり、戻ってこないことに、彼の一番弟子である副官が気づいた。

「大使閣下が、いらっしゃらないのですが」

 副官の顔には、隠しきれない焦りの色が浮かんでいる。

 ガイウス隊長が、すぐさま守衛隊に捜索を命じる。

 アゼルとリリアも、不安に駆られながら、捜索に加わった。

 そして、最悪の事態は、使節団が宿泊する迎賓塔の、大使の私室で発見された。

 厳重な警備が敷かれていたはずの部屋の扉は、外側から施錠されていた。

 不審に思ったガイウスが扉をこじ開け、中へ踏み込む。

「…大使閣下!」

 副官の悲鳴に、アゼルたちが駆けつける。アンブロワーズ・ヴァロワは、書斎の椅子に深く腰掛けたまま、絶命していた。

 その顔は、まるで筆舌に尽くしがたい恐怖を見たかのように、大きく見開かれたまま硬直し、その瞳には、あり得ないはずの幻影の光が、まだらに揺らめいていた。

 外傷も、毒物の痕跡もない。

 だが、彼の精神だけが、内側から完全に破壊されていた。

 アゼルは、大使の遺体に手をかざし、その魔力の残滓を読み取ろうとした。

 すると、彼の脳裏に、あの幻影毒の特異な「香り」が、強烈に蘇る。

 それは、灼熱の炎、人々の絶叫…アゼルが長年うなされてきた、あの悪夢の香りそのものだった。

「幻影毒…」

 アゼルは、激しい頭痛に耐えながら、その特異な魔力の残滓に、即座に結論を下した。

「それも、極めて高度で、特殊な…。アストラルムの、それもごく一部の錬金術師にしか合成できない類の代物だ」


 密室で、アストラルムの錬金術師にしか使えない幻影毒によって、エレジア王国の特命全権大使が殺害された。

 その事実は、アストラルムの、そしてアゼルたちの未来を、一瞬にして暗黒の淵へと突き落とした。

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