第四部 エレジアの黒い天秤

プロローグ

 幻影都市アストラルムは、創設以来、最も穏やかで、希望に満ちた時代を迎えていた。

 黒い水晶のように凝り固まっていた最後の『記憶の残滓レムナント』も完全に消え去り、街を彩る幻影は、まるで生まれたての赤子のように、清らかで安定した輝きを放っている。

 都市の誰もが、この平和が永遠に続くと信じ始めていた。


 だが、浄化は、終わりを意味してはいなかった。

 それは、世界の歴史という、より大きな物語の始まりを告げる鐘の音だった。

 これまでアストラルムを外界から隔絶していた魔法的な霧は、浄化が完了したことで、その役目を終えたかのように、ゆっくりと晴れ始めていた。

 歴史の地図から消えていた幻影の都市が、数百年ぶりに、その姿を世界に現したのだ。

 ◇


 エレジア王国の王都。

 宰相執務室の窓から差し込む朝日が、机に広げられた大陸地図を照らしていた。

 若き宰相カイル・ヴァーミリオンは、北西の海域を指でなぞりながら、目の前の報告書から顔を上げた。

「…間違いないか」

「はっ。我が国の測量船及び、複数の商船からの報告が一致しております。これまで航行困難とされていた海域の霧が晴れ、巨大な島と、そこに存在する未確認の都市が姿を現した、と」

 老齢の側近の言葉に、カイルは深く息を吐いた。

 彼の脳裏に、数年前に「世界の病」の調査で密かに訪れた、あの不可思議な都市の光景が蘇る。

「アストラルム…」

 その名を呟くと、執務室の空気がわずかに揺らいだように感じられた。

「宰相閣下。評議会の重鎮方は、これを新たな脅威と捉えております。正体不明の独立都市国家、それも高度な錬金術を有するとなれば、下手に刺激せぬが上策かと…」

「脅威か」

 カイルは、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。

「あるいは、希望かもしれん」

 彼は、執務室の壁に掛けられた、大陸を蝕む「世界の病」の汚染分布図に視線を移した。

 竜の解放後、「世界の病」は確実に薄まってはいる。

 だが、その傷跡は、いまだ大陸の至る所に、癒えぬ古傷のように残っていた。

「世界の病は、まだ完全には癒えていない。民の心にも、土地にも、その澱は残っている。だが、あの都市だけが、あの閉ざされた島だけが、驚異的な速さで完全な浄化を成し遂げた。彼らの幻影安定化技術は、我々が失った古代の叡智そのものだ。脅威として遠ざけるには、あまりに惜しい」

 カイルは、机の上の書類の山から、一枚の羊皮紙を取り出した。それは、彼が以前アストラルムで入手した、アゼル・クレメンスによる論文の写しだった。

「それに、あの都市には、私と同じ言語を話す男がいる」

 彼は決意を固めた。

「直ちに、使節団を編成する。全権大使は、アンブロワーズ・ヴァロワに。目的は、威嚇でも、牽制でもない。対等な立場での、友好と国交の樹立だ。この大陸の真の夜明けのためには、彼らの力が必要になる」

 カイルのその決断が、二つの運命を、再び引き寄せることになるとは、まだ誰も知らなかった。


 アゼルとリリアの、都市を救うための旅は、皮肉にも、都市そのものを、大陸の歴史という巨大な天秤の上へと乗せることになった。

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