第5話 猫の名前はトントン

 あの猫は、コーラのダンボール箱に押し込められ、電車に乗って棟山の家へと向かっていた。

 改札で駅員が荷物を怪訝そうにみつめたが、堂々とその前を通過。

「もしも、猫が暴れ出したらどうしょうか?」とか「大声をあげられたら」と、

どれほど冷や冷やしていたことか。動物は人間の知能に及ばないなどといわれるが、この猫に限ってはそうではない。

 なぜなら、猫はすべてを察してずっと眠っていたからで、箱は静寂そのもの、そのため、カケルは別の心配をしなくてはならなかった。

 駐輪場まで来ると、さきほどの心配事を確かめるため、ダンボール箱のガムテをはがす。

「よかった。生きていてくれた」

 猫はカケルをみつめ、窮屈な箱に閉じ込めたことへの不満を訴えた。

「もうすこし我慢してくれ」

 自転車の前カゴに猫を乗せ、街に出た。先程までいた大阪の街とは異質な場所、関西の高級住宅地といえばだれもが知るその街。名家が代々住み続け、その時代のお金持ちが財力を誇示するかのように豪邸を建築する場所。道行く車も高級車ばかり、いまの時間は奥さま方が買い物や習い事の足として走らせている。

 その街をうす汚れた猫を前カゴに乗せてペダルをこぐ、パッと見はETのようで、奥さま方が二度見する。運転しているのは使用人なので安全ではあるが、ジロジロ見ないでほしい。

「棟山さんのところの放蕩息子が汚い猫を前かごに入れていた」

 などと、話のネタにされてはたまらない。上流であろうとなかろうとそういう話を人は好む。

 ひとりと一匹が延々と坂を上っていく。いつものことだが出かける時はいいが、帰宅するのが嫌になってしまう。

 坂の上のとがった三角屋根が彼の家で、正面の白い塔の先端には三角帽子のような赤い屋根がのっかっている。塔は家の両端にもあり、そっちは青い三角帽子がのっかっている。「かわいい家がほしい」という母の意見を取り入れて、今年完成した。

 カケルは、ダンボールを運びながら、きょうは荷物を運んでばかりだ、と思った。ふだん使ってない筋肉を酷使したので、明日は筋肉痛で立ち上がれないかもしれない。

 鍵をあけ、ドアを蹴って全身が入れる大きさにする。五百万円の扉だって、なれてしまえばぞんざいに扱える。

 もう大丈夫と、玄関先で猫を放す。やっと自由になった猫は、前足をおもいっきり伸ばして欠伸した。「疲れたぞ!」とでもいいたそうな顔をした。

「元気そうじゃないか?」

あれ、オレはこいつのことなんて気にしてなかったのに……

「まあ、猫じゃないの?」

 リビングから顔を出した母の喚起の声。四十代の専業主婦は日頃の節制と努力の賜物というべき美貌とスタイルをもっていた。美しい肉体を誇るかのようなからだの線を強調したピチピチの洋服、元宝塚の女優に似ていると近所でも評判の美人の母は、そういわれれるのもまんざらではないらしく、主人や子供に自慢することも。

 騒ぎを聞きつけ、妹のあゆみが二階から降りてきて、すぐさま猫を抱き上げた。中三にもかかわらず、いまだにバンドの追っかけをやめられず、進学校はあきらめお嬢さん学校に行くという。両親もさじを投げてしまって、自由にさせてもらっている。兄からすると、うまいことやっているとしか思えない。

 これを天衣無縫というのだろう。リスのようなまん丸い目をした生まれながらの茶髪の女の子。家の中でもおしゃれで、チエックのシャツに青のベストにミニスカートで現れると、野生のハンターのごとく獲物に飛びつく、

「ぶちゅ」

 キスされた猫がバタバタ暴れているが放さない。いくら猫が好きといってもやりすぎだろう。うす汚れた猫がどんなバイ菌を持っているか知れたものではない。

「お兄ちゃん、この猫どうしたの?」

 しっかり抱きしめられ、猫がもがいている。

「川でひろった」

「桃に入って流れてきたの? どんぶらこ、どんぶらこって」

 妹は少々めんどくさい。

「ハッポウスチロールの箱だよ」

「じゃあ、捨て猫ってことよね」

「飼うつもり? お母さんいいでしょう?」

 妹のお願いはとても有効でほしいものを得るために身に付いた特技だ。

「そうね、いいかもね」

 母の顔は困ったというよりはむしろ嬉しそう。

 実は、猫を助けた時からこうなるような気がしていた。家族は無類の猫好き、そのうえ最近愛猫を亡くして落ち込んでいたから。

 ふと猫を見ると、ニャリと笑ったような。そんなバカな。

「この子、おなか空いてないかしら? キャツトフードはどこにあったかしら?」

 母はキッチンに姿を消す。

「この子の名前、トントンちゃんね」

 ペットの命名権はいつのころからか、あゆみに決まっていた。

「どうぞ、ご自由に」

 猫、いや、トントンを妹にまかせると、冷えた体を温めようと風呂に入る。体の芯まで冷え切っていて、いつもの風呂温度が特別熱く感じた。この自分が、猫を助けるために冷たい川を泳いだことがおかしくて「ふふ」と、笑えてきた。

 だが、突然、肩甲骨に突き刺すような痛みがはしる。

「くそう、まただ!」

 すべての幸せを一瞬で奪い去ってしまう。この痛みこそが彼の苦しみの元凶であった。


 さて、今日はマホ専の一年生にとって大変な一日だったわけで、だれもがヘトヘトになっていた。運悪く生徒会役員にえらばれたものはうまく逃げおおせた連中のことをどれほど羨んだことか。

 ミナモも明日の用意を終えて、ベッドに横になっていた。

「さあ、今日は疲れたから早く寝よう」とするのだが頭が冴えて眠れない。足はこむら返りがなんども起こっていたし、はやくからだを休めたいのに、腹立たしい。

「お姉ちゃん、起きてる?」

 隣の部屋のカイが話しかけてきた。

「うん、起きてる」

 カイはおしゃべりさんである。家の中でいちばんしゃべる。寝る前まで、最後の最後までおしゃべりしたいらしい。

「きょうは、あたらしい友達が八人できたんだ。のりちゃんでしょ、カンちゃん、あと、真希に、ナツに、絵美にマコに亜紀に美奈」

「ふーん」

「明日は、友達と、のりちゃんの家に遊びに行くの」

「ふーん」

 さすがわ、わが妹だ、友達作るのが早い。でも、今回は、ウチだって、ひかりちゃん、湯川、網浜と三人も友達つくったのだからたいしたもんだ。

 いいたいこと言って「もう寝る」という、いつもふたりの決まり事があって「おやすみ」を、ふたりで同時に「おやすみ」といっておしまい。

 妹は寝つきが良い。三秒で眠れるという、1、2、3でスースー寝息を立てて眠っちゃう。正確には2ぐらいで夢の世界にいってるらしい。

 ミナモは寝つきが悪い。だから、いろいろなこと考えちゃう。

 パンドラの箱って中身はいったいなんなのか? 棟山が連れ帰った猫はどうなったか? 答えなんて出ないから迷宮をうろうろしている。そのうち、記憶を失って、眠ってしまった。


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