第2話
第七章 白衣の仮面
橋田は里崎クリニックを訪れた。
「橋田と申します。医療ジャーナリストをしております」
里崎は警戒しながらも、応接室に橋田を案内した。
「どのようなご用件でしょうか?」
橋田は単刀直接に切り出した。
「商店街のミスト発生器の水に、高濃度の亜硝酸ナトリウムが含まれています。そして、この地域でメトヘモグロビン血症の患者が激増している」
里崎の表情が一瞬強張った。だが、すぐに困惑した表情を作る。
「それは...大変な事態ですね。配管の老朽化でしょうか?すぐに保健所に連絡すべきでしょう」
「配管の問題で亜硝酸ナトリウムが混入することはありません」
橋田は冷静に応じた。
「これは人為的に添加されたものです。あなたがその発生器を寄贈し、患者の大半があなたのクリニックから水上総合病院に紹介されている」
沈黙が流れた。
里崎は窓の外を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「橋田さん...あなたは真実を知りたがっている。だが、その真実があなたの想像を超えた時、受け入れられますか?」
「どういう意味ですか?」
里崎は振り返ると、その瞳には狂気に近い光が宿っていた。
「私の妻は、三年前に大学病院の医療事故で死にました。娘はまだ十一歳でした」
橋田は身を乗り出した。
「医師たちは謝罪しました。でも、それだけです。妻の命は統計上の一件として処理され、誰も真の責任を取らなかった」
里崎の声が震え始めた。
「この腐った医療界に、本当の『治療』を施しているんです」
「治療?人を毒殺することが治療だというのですか?」
「誰も死んでいません」里崎は静かに言った。「私は医師です。適切な濃度で、適切な症状を作り出している。そして、必要な医療体験を提供している」
橋田は愕然とした。
目の前の男は、自分の行為を正義だと信じ込んでいた。
「あなたは狂っている」
「狂っているのはこの世界です」里崎は立ち上がった。「私は医療への復讐をしているだけ。
そして、娘だけは絶対に守る」
その時、里崎の携帯電話が鳴った。
「美咲?どうした?...え?商店街で友達と遊んでる?」
里崎の顔色が変わった。
「今すぐ家に帰りなさい!霧には近づくな!」
電話を切ると、里崎は橋田を鋭く見つめた。
「今日の話は忘れてください」
「それはできません」
「ならば...飯田さんにしか書けないネタをお教えしましょう」
里崎の目に、危険な光が宿った。
第八章 記者の最期
その夜、橋田は商店街の「夜霧」というバーに呼び出された。
「こんな話は、人目につかない場所で」
里崎は既にカウンターに座っていた。
薄暗い店内で、四十代のバーテンダー・井上が無言でグラスを運んできた。
里崎にはウイスキー、橋田には透明な液体。
「私は酒が飲めないので」橋田は軽く笑った。
「特製の炭酸水です」里崎は安心したように頷いた。「今日は私の告白を聞いてください」
橋田は疑い深い目でグラスを見つめた。記者としての本能が警鐘を鳴らしていた。
「まず、あなたが飲んでください」
里崎は動揺した。
「え?」
「私のグラスの中身を、あなたが先に飲んでください。安全なら問題ないでしょう」
井上が慌てたように割って入った。
「お客さん、失礼ですよ。里崎先生は地域の名士で...」
「いいえ」橋田は冷静に言った。「医師なら、患者の安全を最優先するはずです。私の不安を取り除くために、先に飲んでもらえませんか?」
沈黙が流れた。
里崎は追い詰められた表情を見せた。
「それでは」
里崎は橋田のグラスを手に取り、一口飲んだ。
「ほら、何ともありません」
橋田は安心したように残りを飲み干した。
しかし、里崎が飲んだのは表面の部分だけ。底に緩くゼリーのように沈殿した高濃度の亜硝酸ナトリウムは、橋田の口に入っていた。
再度、二人はグラスを合わせた。橋田は一気に半分ほど飲み干した。
微かに金属的な味がしたが、炭酸の刺激でほとんど気にならなかった。
「実は私も、最初はあなたと同じ正義感を持っていました」
里崎が話し始めた時、橋田は急に頭がくらついた。
「どうしました?」里崎が心配そうに声をかけた。
「少し...頭が...」
橋田の唇が青紫色に変わり始めた。呼吸が浅くなり、手足に痺れを感じる。
「まさか...この水...」
橋田はグラスを見つめ、愕然とした。
「申し訳ありません」里崎の表情が冷たく変わった。「亜硝酸ナトリウムの高濃度溶液です。致死量ギリギリの濃度に調整してあります」
橋田は立ち上がろうとしたが、膝から崩れ落ちた。
急性メトヘモグロビン血症の症状が急速に進行していく。
「助け...て...」
「大丈夫です。ここでは死なせるつもりはありません」
里崎は医師らしい冷静さで橋田の脈拍を確認した。
「クリニックで治療しましょう」
井上は、亜硝酸の水の濃度調節をやってる里崎の部下だ。
里崎と井上で、橋田を運び出した。
第九章 偽りの治療
里崎クリニックの入院室で、橋田は意識を失っていた。
里崎はメトヘモグロビン血症の標準治療薬であるメチレンブルーを投与したが、通常の半分の量に留めた。症状は改善するが、完全回復までは時間を要する絶妙な調整だった。
「伊集院先生、急患です」
里崎は水上総合病院の伊集院に直接電話をかけた。
「メトヘモグロビン血症の重症例で、集中治療室での管理が必要です」
『どうした?』
「実はこの患者、医療ジャーナリストでして...当地域の医療について調べ回っていたようです」
電話の向こうで、伊集院が息を呑む音が聞こえた。
『まずいな...我々の関係も表に出る可能性があるということか』
「ええ。もし回復して記事を書かれたら...」
『分かった。こちらで受け入れよう。ICU管理ということにすれば、面会も制限できる』
「ありがとうございます」
『それで、その後の処置は?』
「集中治療中の合併症ということで...いくらでも理由はつけられるでしょう」
翌朝、橋田は水上総合病院のICUに運ばれた。
伊集院は看護師に指示を出した。
「この患者の面会は一切禁止だ。感染症の疑いがある」
第十章 妻の直感
橋田雄一郎の妻・恵子は、夫の異変に気づいていた。
前夜、「取材で遅くなる」と連絡があったきり、音信不通。携帯電話は電源が切られているようだった。
恵子は夫のデスクを調べた。
メモ帳に「里崎クリニック」「亜硝酸ナトリウム」「水上町」という単語が書かれていた。
その時、電話が鳴った。
「橋田さんのお宅でしょうか?水上総合病院の者です。ご主人が急病で当院に緊急入院されました」
恵子の血の気が引いた。
「主人が?どのような状態なのですか?」
「メトヘモグロビン血症という病気で、現在集中治療室で治療中です。すぐにお越しください」
恵子の頭に、夫のメモにあった単語が蘇った。
これは偶然じゃない。
第十一章 最後の証人
水上総合病院のICUで、恵子は夫と対面した。
人工呼吸器に繋がれた夫の顔は青白く、意識はなかった。
「面会は短時間でお願いします」
伊集院部長が説明した。
「化学物質による中毒症状ですが、里崎先生の迅速な処置のおかげで一命は取り留めました」
恵子は違和感を覚えた。夫のメモには里崎クリニックを調査対象として書いていたのに、その医師が治療したという矛盾。
「面会時間です」
看護師が声をかけた時、恵子は夫の指がわずかに動くのを見た。
夫はまだ意識があった。
無念の気持ちと、妻への愛があった。
その夜、橋田雄一郎は静かに息を引き取った。
死因は「治療困難な多臓器不全」とされた。
「残念でした」
伊集院は恵子に深々と頭を下げた。
「我々も最善を尽くしたのですが...」
恵子は夫の頬に残る涙の跡を見つめていた。
夫は最期まで、何かを伝えようとしていたのだ。
第十二章 復讐の設計
葬儀の後、恵子は夫の残した資料を整理した。
断片的な情報が、夫の死とともに一つの絵を描き始めていた。
恵子は元新聞社記者の吉村に連絡を取った。
「吉村さん、主人の遺したものを見てください」
四十二歳の吉村は、橋田の後輩として数々の調査報道を手がけてきた。資料を見て、彼は眉をひそめた。
「これは明らかに計画的犯行ですね。でも、証拠が不十分だ」
「どうすれば?」
「病院の内部情報が必要です」
その時、恵子の携帯電話が鳴った。
「橋田さんのご家族ですか?水上総合病院の看護師の田中と申します。ご主人のことでお話が...」
田中看護師は、橋田の治療過程で伊集院部長の不審な行動を目撃していた。
「通常の治療では、あのような経過はありえません。部長が特別な薬物を追加投与されました」
恵子と吉村は決意を固めた。
夫の仇を取る。そして真実を明らかにする。
だが、恵子にはもう一つの計画があった。
里崎には、中学生の娘がいる。
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