亜硝酸の霧

奈良まさや

第1話

第一章 白衣の下の闇


地方都市・水上町の外れに建つ「さとざき内科クリニック」。

院長の里崎啓介(四十一歳)は、三年前に大学病院を飛び出した開業医だった。


彼の胸には、消えることのない怒りが燃えていた。

妻・由美子を失ったあの日のことを、里崎は決して忘れない。


『申し訳ございません。手術中の医療事故で...』

大学病院の医師たちは頭を下げただけだった。謝罪も補償も、すべて形式的なものに過ぎない。

由美子の死は、病院にとって単なる「統計上の一件」でしかなかった。


「お父さん、お母さんはいつ帰ってくるの?」

当時十一歳だった娘・美咲の言葉が、里崎の心を引き裂いた。


――この世界は腐っている。患者の命よりも保身を優先する医療界、真実を隠蔽する権力構造...

だが、俺だけは違う。俺は本当の「治療」を施してやろう。


里崎は高額な内視鏡システムを導入し、地域医療の「救世主」として活動を始めた。

しかし、彼の真の目的は別のところにあった。


この腐った世界に、本当の「治療」を施すこと。

そして何より、愛する娘だけは絶対に守り抜くこと。


第二章 恩人との再会


開業から1年後、里崎の前に懐かしい顔が現れた。


「先生、覚えていらっしゃいますか?」

陳明華(四十五歳)は、4年前とほとんど変わらない笑顔を見せた。


里崎は思い出した。大学病院時代、自分が担当した中国系の青年の父親の早期胃がんを発見し、命を救ったのだ。

その患者の息子、陳さんだった。


「陳さん...まさか、あの時の」


「おかげさまで父は八十五歳まで生きました」

陳の目に感謝の涙が浮かんだ。

「先生が見つけてくれなければ、父はあの時死んでいました」


当時、陳は純真な青年だった。父親の手術費用を稼ぐために昼夜働き、里崎に深々と頭を下げていた姿を、里崎は鮮明に覚えていた。


「今は何を?」


「便利屋のような仕事をしています」

陳は曖昧に微笑んだ。

「人の悩みを解決する仕事です」


その日から、陳は里崎の「友人」として定期的にクリニックを定期的に訪れるようになった。

表向きは健康診断と称していたが、二人の間には別の空気が流れていた。


里崎には分かっていた。

陳の言う「便利屋」とは、おそらく社会の闇に関わる仕事だろう。

だが、命の恩人に対する陳の忠誠心は、十五年経っても変わっていなかった。


第三章 善意という名の兵器


開業から2年後、里崎は商店街の入り口に「クールミスト発生器」を寄贈した。


「地域の皆様の健康のために」

新聞記事には、地元医師の善意として美談が掲載された。


だが、その専用タンクには秘密があった。

亜硝酸ナトリウム――通常は食品添加物として使われる物質を、里崎は致死量には至らない絶妙な濃度で混入させていた。


医学部時代の法医学の知識が役立った。

亜硝酸塩は体内でヘモグロビンを酸化し、メトヘモグロビンに変える。酸素運搬能力を奪い、長期的には胃粘膜でニトロソアミンを生成して発がんリスクを高める。


霧となって漂えば、住民たちは知らぬ間に少しずつ毒を吸い込んでいく。


「先生のおかげで、夏も涼しくて助かります」

商店街の人々は感謝を込めて里崎に頭を下げた。


子どもたちが歓声を上げて霧の中を駆け抜ける姿を見ながら、里崎は独り言のように呟いた。

「美咲だけは、絶対にあの霧に近づけさせない」


愛する娘を守るために、他人の子どもを犠牲にする。

その矛盾に彼自身も気づいていたが、もはや後戻りはできなかった。


陳は黙って里崎の行動を見守っていた。すべては分かっていたが、恩人のすることを見守っていた。


第四章 計算された症状


一年が過ぎた頃、町に異変が現れ始めた。


「最近、疲れやすくて...」

「顔色が悪いって言われるんです」

「なんだか息苦しくて」


患者たちの訴えは漠然としていたが、里崎には手に取るように分かった。

亜硝酸中毒の初期症状。血中酸素飽和度の低下、軽度のメトヘモグロビン血症。


「この地域は、最近消化器の病気が増えているんですよ」

里崎は患者にさりげなく不安を植え付けた。

「念のために、内視鏡検査を受けておいた方が安心ですね」


こうして一人、また一人と検査に誘導していく。

実際に軽度の胃炎や大腸のポリープが見つかることも多かった。亜硝酸の長期摂取による影響だったが、患者たちは里崎の「早期発見」に感謝した。


クリニックの経営は急速に改善し、予約表は三カ月先まで埋まった。


そして里崎は、さらなる「治療」の準備を始めていた。


第五章 医療という名の支配構造


大学時代の先輩、伊集院雅彦は水上総合病院の消化器内科部長だった。

エリート医師として順調にキャリアを積んできた男だが、里崎は彼の弱点を知っていた。


「伊集院先生、最近手術件数が伸び悩んでいるそうですね」

里崎は巧妙に相手の不安を突いた。

「病院経営陣からのプレッシャーも大変でしょう」


「ああ...君のところからの紹介患者、助かってるよ」

伊集院は苦笑いを浮かべた。


里崎は提案した。

「お互いに協力し合いませんか?私が適切な患者を紹介し、先生は手術実績を積む。そして経過観察は再び私の方で...」


こうして「医療回廊」が完成した。

里崎→水上総合病院→里崎のループで患者を循環させ、両者が利益を得る構造。


さらに里崎は、経過観察の患者に自費治療を提案し始めた。

「免疫力強化の特別な点滴です。癌の再発リスクを下げることができます」

科学的根拠は薄弱だったが、不安を煽られた患者は喜んで金を支払った。


その売上の一部は、伊集院への「コンサルタント料」として還流される。


完璧なシステムだった。

患者は感謝し、医師は稼ぎ、病院は実績を積む。

誰も疑わない善意の循環構造。


だが、この完璧で歪んだ「治療」に、ひとつの誤算が生じようとしていた。


第六章 記者の直感


フリーランス医療ジャーナリスト・橋田雄一郎(四十八歳)は、偶然この異変を嗅ぎつけた。


かつて大手新聞社で医療担当記者として活躍していた橋田は、製薬会社の癒着問題を追及したために会社を追われた過去がある。以来、医療の闇を暴くことに人生を捧げていた。


きっかけは、水上総合病院の看護師からの内部告発だった。

「最近、メトヘモグロビン血症の患者が異常に多いんです。みんな里崎クリニックからの紹介で...」


橋田の記者魂が疼いた。

メトヘモグロビン血症は珍しい疾患だ。特定の化学物質への暴露が原因となることが多い。


「具体的にはどのくらい?」

「ここ三カ月で十二件。通常なら年に一件あるかないかです」


橋田は水上町に向かった。

商店街を歩きながら、彼は異様な光景に気づく。「さとざき内科クリニック」の広告が至る所に掲示され、街の中央には大型のミスト発生器が設置されていた。


「これは寄付なんですよ」

八百屋の店主が教えてくれた。

「里崎先生が商店街に寄贈してくれたんです。本当にありがたいことで」


橋田は発生器に近づき、霧を手で受けた。無色透明で特に異臭もない。

だが、二十年の記者経験が培った直感が警鐘を鳴らしていた。


その夜、橋田は発生器のタンクから水のサンプルを採取し、信頼できる分析機関に送った。


一週間後、結果が届いた。

「亜硝酸ナトリウム検出。通常の上水道基準の約四十五倍の濃度」


橋田の背筋が凍った。

これは明らかに意図的な投毒だった。

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