第17話 床になりたい

「雫! 行くよ!」

 唖然として口を開けたまま固まっている雫に、凛が勢いよく声をかけた。

「え? どこへ行くの?」

 そう言って首をかしげる雫に、結芽がいつもより少し大きな声で言う。

「キクラゲ、行きまーす」

 胸ポケットのぬいぐるみをスポッと取り出し、なぜか両手で頭上に掲げた。

「トカゲはポケットにいていいから!」

 凛にそう言われ、不服そうに頬をふくらませる結芽。

「キクラゲも、行くと言ってる」

 そんな結芽の隣で、まだ不思議そうな目をしているる雫に、凛がちょっと慌てたように言う。

「喜久子さんに、あいさつしなきゃ!」

 確かにそうだ。

 つい先日、放送室で声優について色々なことを教えてくれたのは井上である。いや、それ以前に、雫が声優という仕事に興味を持ったのは、彼女の声を、朗読を聞いたからなのだ。

 落ち着かず中腰になっている凛とは違い、いつもと同じ上品な物腰で座っていた麗華が、ゆっくりと髪をかきあげながら言う。

「確か、お二人は井上さんにとてもお世話になったのでしょう? ちゃんとごあいさつをしなければいけませんわ」

 麗華の言葉にハッとして、勢いよく立ち上がる雫。

「そ、そうだね! ちゃんと、あ、あいさつしなくちゃ!」

 カチンコチンである。

「ぶ、部長」

 しゃべらなければイケメン男子の英樹が、本性である小心者の声をもらした。

「あれって、ほ、ホンモノですかね!?」

 姫奈の声も、英樹同様に少し震えている。

「わ、私に聞かないで。私だって、生の声優さんなんて、イベントの客席からしか見たことないのよ。こーんなに小さい、たった2センチぐらいの! だからホンモノかどうかなんて、判断できるわけないでしょ!」

「部長、声優イベントに行ったことあるんですか!? 勇気あるぅ!」

「勇気なんかないわ! でも、アニヲタに必要なのは、努力と根性なのよ!」

 きっぱりと言い切る姫奈。

 英樹が首をかしげる。

「それ、どこかで聞いたことあるセリフだなぁ」

 そんな英樹の鼻先に、ビシッと人差し指をつきつけて姫奈が言った。

「アニ研の部員なら、一発で気付かないとダメよ! このセリフはね――」

 いつものヲタトークに逃避行動中の二人である。

そんなアニ研二人のやりとりさえ全く目に入っていない雫が、不安げな目で凛を見た。

「ねぇ、心細いから……みんなであいさつしない?」

「うん、それには私も賛成!」

 雫の提案に賛同した凛が、ボックス席の一同を見回す。

「いいよね? 六人全員で、喜久子さんにあいさつしようよ!」

 こくこくとうなづく結芽。

 柔らかな笑顔を浮かべる麗華。

 ギョッとして固まる姫奈と英樹。

「待って、ムリ」

 姫奈の口から、女子ヲタ特有のセリフが漏れる。

「ボクもムリですよぉ」

「床になりたい、壁になりたい、いやいっそ醤油皿になりたい……」

 そのまま聞くと意味不明の言葉だが、ここ数年、主に腐女子を含む女性オタク界隈で使われる、推しに対する強い愛情や欲望をユーモラスかつ誇張して表現した言葉である。

“床になりたい”は、

「推しがそこにいるなら自分は床でいい! 踏まれてもいい! その一番近くで存在を感じられればいい!」

 要するに「近くにいたい」「一部になりたい」「尊すぎて自分の存在を消したい」などの感情が込められた言葉だ。

“壁になりたい”は、

「推しのいる部屋の壁になって、ずっと見ていたい」

 つまり、盗み見でもいいから間近で見守りたいという「観察者としての欲望」が強めの表現である。

「醤油皿になんかなったら、全身しょっぱいですよ、きっと」

 女子ヲタミームをぶつぶつと呟く姫奈に、英樹が的はずれな突っ込みを入れた。

 ちなみに“醤油皿になりたい”と言うオタク用語は存在しないが、床、壁の延長としての、姫奈のとっさのアドリブなのである。寿司店にいる現状では、案外的を射ているのかもしれない。

「さ、行こう!」

 凛はそう言うと立ち上がり、先頭を切って隣のボックス席に向かった。

 それに慌ててついて行く雫たち。

「本当にすごい偶然ね」

 井上の向かい側に座る女性が、やって来た雫たちを見て微笑んだ。

 井上が所属する事務所の代表であり井上の実の姉、関口弥生だ。いつもほんわかのんびりとしたワンピースなどが多い井上とは違い、パンツスーツをビシッと着こなし知的な雰囲気にあふれている。

 凛がビシッと背筋を伸ばし、90度に頭を下げた。

「井上さん、関口さん、お久しぶりです!」

「お久しぶりです!」

 凛に続いて頭を下げた雫たちだが、なぜかきれいに声が揃った。

「うわぁすごい、練習したの?」

「そんなわけないでしょ!」

 首をかしげる井上に、関口の突っ込みが入る。

 そのまま雫たちに視線を向ける関口。

「そんなに久しぶりじゃないでしょ? 放送室で会ってから、まだそんなに経ってないわよ」

「そうでした!」

 ペロッと舌を出す凛。

「てへぺろだぁ」

 嬉しそうに笑顔になる井上。

「雫、ほら! ごあいさつ!」

 凛に肘でつつかれた雫が、意を決したように声を絞り出した。

「あの、この前は、お世話になりました! 色々と教えてくださって、井上さんには本当に感謝してます!」

「感謝感激雨あられです!」

 凛のちょっと古風な表現に、井上だけでなく関口からも笑顔がこぼれる。

「飴とあられ?」

「違うって! めっちゃ感謝してるってこと!」

 首をかしげる雫に、凛が少し恥ずかしそうに解説した。

「お菓子のあられじゃないの?」

「ないない!」

 すると結芽がボソリと言う。

「あられもない」

「そのあられでもなーい!」

 そんなやりとりに、笑顔を深める井上と関口。

 その時、井上がなにかに気づいたようにハッとして関口に視線を向けた。

「お姉ちゃん、私すっごくいいこと思いついた」

 すると関口は、その内容も聞かずにうんうんとうなづく。

「それ、私もいいと思うわ。グッドアイデアよ、きっこちゃん」

 そんな二人をポカンと見つめる雫たち。

 井上はニッコリと微笑み、こう言った。

「井上喜久子、17皿です」

 再び反射的に突っ込んでしまう雫と凛。

「おいおい」

「はいはい」

 そして凛が、いぶかしげな顔を井上に向けた。

「えーと、それってどういう意味です?」

「あのね、せっかくの回転寿司だから、17皿食べたいなって思ったの」

 満面の笑顔でそう言った井上に、凛が思わず突っ込んでしまう。

「一人でそんなに食べれるのかーい!」

「だから、みんなにも手伝ってほしいなって」

 その意味が理解できず、一瞬の沈黙に包まれる雫たち。

「お金ならきっとお姉ちゃんが出してくれるから、みんなで食べましょ?」

「いいわよ。おごってあげる」

 関口のその言葉に、雫たちはそれぞれ違う表情になった。

「ええーっ!?」

 さっぱり意味が分からずに目を丸くする雫。

 タダ券以上に、もっと寿司が食べられると笑顔になる凛。

 論理的ですわと、ニッコリと微笑む麗華。

 顔を見合わせる姫奈と英樹。

 そして結芽は、嬉しいのかどうなのか、ぬいぐるみの頭を高速でナデナデしていた。

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