第4話 声優というお仕事

「き、君! 声優のなんたるかを知らずして、井上喜久子さんに会いに来たのか!?」

 雫に向け驚愕の声を上げた正広に、凛がいたずらっぽい視線を向ける。

「なんたるかって、なんじゃそりゃ?」

「声優がどういう仕事なのかってことだ! と言うか、高千穂くんは中学では僕と同じ放送部だったんだから、それぐらい知ってるはずじゃないか!?」

「あ、私放送部に入ってたんだっけ?」

「トボケるんじゃない! しかも君はオタクだろ? 声優のことには詳しいはずだ!」

「てへぺろ」

 凛がペロリと舌を出した。

「ほら見ろ! それこそが、君がオタクである証拠だ! 一般人は日常会話で“てへぺろ”なんて言葉は使わない!」

「そうかなぁ」

「そうだよ!」

 放送部員全員が、正広に同意とばかりにうなづいている。

 “てへぺろ”は「てへっ」と照れ笑いしながら「ぺろっ」と舌を出す仕草を表現したもので、小さいミスや軽い失敗を可愛くごまかす際に使われる言葉である。

「遅刻しちゃったぁ、てへぺろ♡」

「テストで赤点取っちゃったよ、てへぺろ♡」

 などなど、使い勝手が良いために、今では多くの人たちの間で広まっている。

 元々は、声優の日笠陽子がラジオ番組などで使い始めた造語だが、その後、テレビのバラエティ番組等で取り上げられて一般化し、2012年には「女子中高生ケータイ流行語大賞」で金賞を受賞している。そう考えると、すでに一般的な言葉であると言ってもいいのかもしれない。

 凛が不服そうに頬を膨らませる。

「みんな使ってると思うけどなぁ」

 その瞬間、井上がニッコリと笑って言い放った。

「今日は遅刻しちゃった、てへぺろ♡」

 その口元には、可愛く舌先がペロッと見えている。

「ほらね!」

 凛が勝ち誇ったような笑顔を正広に向けた。

 ぐぬぬぬ!

 上から目線の凛の表情には少し腹が立つが、井上喜久子が使うなら仕方がない。“てへぺろ”はきっと一般的な言葉になっているのだろう。正広はそう自分に言い聞かせた。

「分かった。この話はもういいとして、君、淡島くんだっけ?」

「はい!」

「君は本当に、声優という仕事を知らないのかい?」

「はい。ついさっき、凛から聞いたばかりなんです!」

 凛と違い真摯に見つめてくるその瞳に、正広はひとつうなづいた。

「そうか。では放送部部長のこの安田が、ズバリ教えてあげよう」

 ぐっと胸を張る。

「声優とは!」

「声優とは!?」

 なぜか凛が合いの手を入れた。

「アニメのキャラクターに、声を当てる!

 洋画や海外ドラマの吹き替えをする!

 ゲームに声入れる!

 ドキュメンタリーにナレーションを入れる!

 その他色んな時に声を当てるぅっ!

 それが声優だっ!」

 キラーンと、正広の目が光ったように感じられた。

 うわぁ、間違ってはいないけど全部普通のことだぁ。しかもとても偉そうな上に長かったぁ。

 放送部員全員の気持ちを、凛がひと言で言う。

「ぜんぜんズバリじゃないじゃん」

 部員たちも、そうだそうだとうなづいている。

「雫さん」

 ポカンとしている雫に、井上が優しく微笑みかけた。

「はい!」

「私たち声優のお仕事はね、アニメとかに登場するキャラクターたちに、命を吹き込むことなの」

「命?」

「そう。まるで生きているように、本当に存在するかのように、ね」

 そう言ってニッコリと笑う井上の顔に、小さなハチドリの姿が映画のオーバーラップのようにダブり始める。

『ボクはただ、自分にできることをしているだけだよ』

 この人の言う通りだ……スピーカーから聞こえるその声を聞いた時、雫の中に、まるでハチドリがそこにいるかのような情景が浮かんだのである。

 そうか! 声優は、空想の存在に命を与える素敵なお仕事なんだ!

 井上の言葉に、雫は一瞬でそう理解していた。

「はいそこまで。きっこちゃん、そろそろ時間よ」

 事務所の代表、関口が腕時計を指してそう言った。

「はぁい! じゃあ皆さん、そろそろ次のお仕事に向かいまぁす!」

 井上のその言葉に、正広を始め放送部全員がペコリと頭を下げる。

「今日は本当にありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

 皆の声がキレイに揃った。

 そして井上喜久子は去っていった。

 まるで春の嵐だったかのように。

 ふうっと、大きく息を吐く正広。大仕事をひとつやりきった心境なのである。

 同時に、副部長の真希が雫と凛に言った。

「あなたたちも、これで用が済んだでしょ? もう教室に帰った方がいいわ。五時間目の授業に遅れるわよ」

「もうひとつだけ! お聞きしてもいいですか!?」

 雫のあまりの勢いに、少したじろいでしまう真希。

「な、何? 言ってご覧なさい」

「放送部って、朗読のプロなんですよね!?」

 雫の言葉に、凛がすかさずツッコミを入れる。

「いや、アマチュアだよ?」

 それが聞こえないのか、雫が正広と真希にガッと詰め寄った。

「私、井上さんみたいな声優さんになりたいんです! 部長さん、副部長さん! どうすれば声優になれるんですか!?」

「それ、私も知りたい」

 ボソッとそう言ったのは、ここまでずっと傍観者だった一人の女生徒だ。

 身長は155cmの雫と、同年代の女子の平均より小さな凛の中間ほど、152cmぐらいだろうか。ツインテールに結んだ髪がゆらゆらと揺れている。

「桜田くん、君も声優志望なのか?」

 いぶかしげな正広の声に、女生徒は小さくうなづいた。

「どなた?」

「私も知らない」

 雫の質問に、凛が首をかしげる。

「安田先輩、この人誰です?」

「我が部の一年生だ。桜田くん、放送部らしく自己紹介してみたまえ」

「桜田結芽、16歳。好きなのは中華クラゲ」

 正広の目が丸くなる。

「全然放送部らしくないじゃないか! 君はちゃんと発声練習とかやってるのか!?」

「やってる」

「あのぉ」

 雫が首をかしげながら正広に聞いた。

「どんな自己紹介が、放送部らしいんですか?」

 正広はひとつ咳払いすると、背筋をピンと伸ばした。

「私は安田正広です、武蔵原高校放送部の部長を務めています。趣味は鉄道模型を作ることです!」

 そう言って誇らしげに胸を張る。

「声優らしくない」

 結芽がボソリとそうつぶやいた。

「だから、これは声優じゃなくて放送部らしい自己紹介だと言ってるだろう!」

 少し混乱したような目を正広に向ける雫。

「声優さんと放送部って、違うんですか?」

「当たり前じゃないか。声優と放送部では、発声も演技も根本的に違っている」

「マジか」

 再び結芽がそうつぶやいた。

「桜田くんはそんなことも知らずに我が放送部に入ったのかね?」

「うん」

 雫の困惑が大きくなっていく。

「じゃあ、放送部に入っても声優さんにはなれないんですか!?」

「うむ。なれないだろうな」

「ええーっ!?」

 雫の悲鳴が、放送室に大きく響き渡った。

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