第3話 お世話になります…ロシュフォル殿
【 Interlude ロシュフォル 】
ウムトとレイランがタマラのもとへ戻ったころ、ふたりの上司であるロシュフォルは、同じ建物にある別の部屋の扉をノックしていた。
中から声がするのを確かめて、ロシュフォルは扉を開けた。扉の向こうにもうひとつの扉があり、左右にそれぞれひとりずつ衛兵が立っている。ロシュフォルが胸元から印章を出して見せると、扉は静かに開いた。
部屋は広々としているが、必要最低限の調度品しかない。こんなに陽当たりがいいのに、ここに足を踏み入れるといつも寒々とした気持ちになってしまうロシュフォルだった。
窓辺の椅子に腰かけていた人物がゆっくりこちらを見る。その瞳がいたずらっぽく煌めいた。赤い髪を短く刈り込んでいるせいもあって、少年のようにも見えるが、発した声は女性のそれだ。
「ウムトたちがちょっぴり暴れたようだね」
タマラという女性とガルトムンドの一件についてはすでに報告してあった。ロシュフォルは小さく息をついた。
「まったくあいつらときたら……」
「いいじゃないか。おかげで思わぬ拾いものをした。わたしも見てみたいものだ、その小さなガルトムンドを」
「近いうちにお連れしますよ、長官」
総務部B長官、ベアトリス・バルドは薄く笑った。「すまないな、長官代理殿。いつもうちの連中が面倒ばかりかけて」
「もう慣れました」
ロシュフォルは窓の外を見やる。青い空がどこまでも続いていた。塔の最上階のせいか、風は心なしか冷たい。
「お体に障るのでは?」
ロシュフォルは窓に近づき紗を下ろそうとしたが、ベアトリスに止められた。
「いいんだ、今日は不思議と気分がよくてね」
確かにいつもはどこか青ざめた印象の横顔が、ほんのり紅潮して見える。
「で、タマラという女性はどんな感じなんだい?」
「そうですね――年は80歳前後。本人が言うには記憶喪失だそうですが、そのあたりも含め、まだ読み切れないところはあります。表向きは総務部B勤務ということで手元に置き、用心して動向を見ておきますよ。何しろあのガルトムンドを調伏してしまうような人物ですから」
「……影の者、という可能性は?」
影、ということばを聞いたとたんロシュフォルが微かに身を固くする。影とは王室直属の諜報機関のことだ。王命のもとに活動し、所属する人間についてはもちろんのこと、その全容は高位の者でも把握することが許されない。
タマラが影の者であるかもしれないという可能性は第一に考えた。ロシュフォルの目が暗く光るが、それも一瞬のことだった。タマラの深く皺が刻まれた、それでいてどこか愛嬌のある顔が思い浮かぶ。
「可能性は、まあゼロではないでしょう。ただ、それよりも注目すべきなのは、錬度が飛び抜けていることです。正確な測定はこれから行いますが、あの錬度の高さからすると、影というより――」
「光、か。確かに奇獣の調伏は、古代から神殿の役目のひとつだったしね」
光は神殿直属の機関だ。この世に生を受けたものは折に触れ錬度を測ることが義務づけられており、一定以上の高さを持つ者はさらに詳しく背景を調べられ、条件をクリアした者たちは神殿に召し抱えられることになる。そうした錬度エリートの中でも卓越した者は、神殿の極秘機関、光の一員となるのだ。
もちろん錬度が高いからといってすべての者が神殿付きになるわけではない。さらに細かな条件をクリアした精鋭は、老若男女を問わず、王の表向きの直属機関・ロアに配属されることもある。
タマラが少なくともロアではないことは、ロシュフォル自身がよく知っていた。それを口にせずとも、ベアトリスもまたそう理解しているようだった。
「しかしタマラという人物、確かに能力者ではあるのですが、つかみどころがないというか……。どこかの機関に属していてそれを隠しているのであれば、相当の手練れでしょうね」
直感的に、ロシュフォルはタマラが王に仇なす者ではないと判断していたが、それについてはベアトリスには言わなかった。
そして同じロシュフォルの直感が、タマラには何か底知れない秘密のようなものがある、と告げていたことも。
顔を上げると、ベアトリスが面白そうな顔でこちらを見ていた。とりあえず咳払いなどして、ロシュフォルは言った。
「いずれにせよ、しばらくは厳重に監視しておきます」
「わかった」
ベアトリスが弱々しく微笑んだ。少し疲れが出たのだろう、さっきまで紅潮していた頬がまた青ざめてきている。
「会ってみたいな。いつかきっと連れてきてくれ、タマラ殿を」
★★★
「……くしょん」
大きなくしゃみをしたせいで、揺籠で寝ていたアマガミがぼんやり目を覚ました。寝ぼけているのか、くしゃみに反応したのか「うにゃ〜」とか細い声で鳴く。
「わ、ごめんね!」と声をかけると安心したのかまたすぐ目を閉じ、両手で目元を隠すようにして眠ってしまう。
「あら、ほんとに可愛い猫なのね。あんまり見ない種類だけど」
わたしの背中に布地を当てていた女性――ミレイが言った。もう、かれこれ1時間、こうして体じゅうにさまざまな布地やら出来合いの上着やらスカート(ドレスと言うべきか)やらを当てられて、今に至る。
ミレイは総務部――Bのつかない、彼女いわく「正真正銘の」総務部の衣裳課に属するらしく、ウムトに連れられて部屋に入ってきたときは鼻息も妙に荒く、手にしていた裁ちバサミで裁ち切られかねない勢いだったのだが、わたしの顔を見るなり毒気が抜けた。それどころか手のひらを返すように上機嫌になって、あれやこれや、わたしのために衣装を見立ててくれているところなのだ。
「まったくねぇ、みんな早とちりなんだから」
ミレイが薄い藤色のガウンを畳んでテーブル上の葛籠にしまいながら言った。
どうやらこの総務部内で、早くも噂が広まっていたらしいのだ。ロシュフォル殿がどこかから極秘で女性を連れ帰り、屋敷で「保護」する、と――。まぁ、連れ帰ってくれたのはウムトとレイランなのだけど、ふたりが関与していると知れると、ガルトムンドへの贄式を行っていた方々に不審がられる可能性が出てくるらしく、対外的にはロシュフォル殿が連れてきたことになっている。
で、それが何やらここではセンセーショナルな事件だったようで……。「あのロシュフォルさまが――女性を⁉︎」と、部内の老若男女が色めき立ってしまったみたいなのだ。
あの上司殿、確かに美麗だしね。
今もまた、そっと扉が開かれ、ロシュフォルさまが連れてきた女とやらを見に来ている者がいる。
「そんなんじゃないんだってば。みんなにも言っておいてよ!」
わたしの顔を一目見たその人は、ミレイにシッシッと追い払われながらもあからさまに驚きと安堵の表情を浮かべている。
「まったくねぇ、ほんと困っちゃうわ」
そう言うミレイだって、部屋に入ってくるまでは「そいつの首、取ったる」くらいの勢いだった気がしたが……。誤解が解けて何よりだ。
「本当にみなさん、ロシュフォルさまのことがお好きなんですねえ」
嫌味に聞こえたのでは、と、言ってから少し後悔したけれど、タマラばあちゃんの声だとただの愛嬌にしか聞こえない。ミレイはキラキラした笑みを浮かべて手を止める。
「そりゃ、もうなんと言ってもあの麗しさでしょ。ちょっと人を寄せつけない感じがまたなんともいいのよね。ロシュフォルさまが総務部Bに配属されてから、近隣の省庁で異動願いが殺到したらしいわよ。ま、そんな新参者たちに務まる部署じゃないけどね」
その口ぶりだと、ミレイは以前から総務部に属しているみたいだ(そしてもしかしたら同じく異動願いを出したクチなのかもしれない)。年は20代前半、といったところだが。
「そんなに大変なところ……なのかしら、総務部Bは」
さりげなく尋ねてみるが、そんな配慮は無用だった。ミレイは屈託なく話し出す。
「大変も大変、いろんな意味で厄介なのよ、総務部Bは。あ、正真正銘の総務部のほうは極めて真っ当で有能な部署なのよ。総務部がなければ、この国の政治の半分はうまく機能しないんじゃないかしら。Bはね――だいだいBなんてついてる部署、ほかにはないんだけど、なんていうのか、ワケあり? ほかの省庁で問題を起こした人たちが流れ着くところっていうのかな、素行が悪かったり、上司に楯突いたり仕事を怠けたり、あと縁故関係で仕事に就いたけどまったく能力がない、とか」
なんとなく前職を彷彿とさせられて、顔が引きつってしまった。聞けば聞くほど、前の世界の総務部Bと同じような背景を持つ部署ではないか。大きな組織では必ず、どの部署でもうまく回らない人たちが出てきてしまう。クビにできない背景を持っていたりするからまた厄介だ。そういう者たちをとりあえずひとつにまとめてしまえ、という、ちょっと乱暴な部署。でもそういうセクションが必要なのだということは、経験上、すご〜くよくわかる。異世界でもどこでも、組織の仕組みなんて同じようなものなのだと実感する。
「要するに、志願して来るような場所じゃないってこと。まぁ、ひとりだけ例外はいるけれどね。ロシュフォルさまはほら、自ら志願して転属していらしたわけだから」
「は、はあ……」
そんなことはまったく知らなかったが、とりあえず話を合わせておく。そこでミレイはハッとこちらを見た。
「そういえばタマラさんはロシュフォルさまに、だいぶ昔にお仕えしていたんだったわよね? 乳母か何か?」
「え、ええ。乳母というか……ばあやでしょうかねえ」
頭の中でざっと計算して答える。ロシュフォル殿はおそらく30になるかならないか、というところだろう。タマラばあちゃん、彼の乳母になるにはだいぶ歳がいっているはずだ。
ミレイも同じ意見に落ち着いたらしい。ばあやという響きに妙に納得している。
「そう、ばあやさんだったの……。さぞかし愛らしかったでしょうねえ、子ども時代のロシュフォルさまも……」
ミレイが瞳を煌めかせ、期待とともにこちらを見る。うーむ、ここは何かそれっぽいことを言っておくべきだろうか。わたしは目を閉じ、さっき会ったロシュフォル殿の顔を思い浮かべると、そのまま時間を戻して子ども時代の様子を想像してみる……
「ええ、それはもう利発で愛らしく……そして何より優しい坊ちゃまでいらっしゃいましたよ……」
「ええ、ええ、きっとそうでしょうとも。わたしも一目見てみたかったわ……」
頭の中でロシュフォル少年が、大きな屋敷の(確か誰かがそう言っていた)広い庭を(きっと広いはず)無邪気に走り回っている。
ふむ。確かになかなか可愛いぞ。自分の想像力に感心する。ロシュフォル少年が満面に笑みを浮かべ、こちらへ走り寄ってくる。何かを手にして……。
「そうそう……いつだったか庭でイカロスの羽根を見つけたって、わざわざ持ってきてくれたこともありましたねえ……」
あれ? わたし、何を話してるんだろう? しかもイカロスの羽根って何……。
はっと目を開けると、ミレイがうっとりと話に聞き入っていた。
なんだか勝手なことを口走った気もしないでもないが、ミレイがうれしそうにしているから、まぁ、いいか。
ちょうどそのときノックの音がして、扉がまた開いた。
「また見物人?」とミレイが振り向き、「そんなんじゃないんだから……」と言いかけて声が裏返った。扉を開けたのはロシュフォル殿その人だったからだ。
「ロ、ロシュフォルさま」
ミレイが姿勢を正し、髪に手を当てる。ミレイの頬があっという間に赤く染まっている。
「総務部の――ミレイ殿だったか?」
「は、はい!」
「今回はいろいろと手間をかけてすまない。ご協力に心より感謝する」
「い、いえいえ! お安いご用です! いつでもお声がけください!」
ミレイは衣装を選んでくれる間、だいぶおしゃべりな口を動かしていたが、仕事もきっちりこなしていた。
「こちら、タマラさまのお召しもの一式でございます」
と、テーブルに乗った大きな葛籠を示す。
「礼服はこれから仕立てますので、3、4日でお持ちいたします」
「わかった」
ロシュフォル殿は葛籠を軽々持ち上げると、ミレイに言った。「タマラ殿はしばらくここで勤務することになった。勝手がわからないこともあると思うから、どうか助けてやってほしい。何しろBの連中は、ほら――当てにならないからね」
そのあとのロシュフォルの笑みはサービスみたいなものだったのだろう。あるいは味方づくりのためのリーサルウェポンか……。まともに食らったミレイはへなへなと腰砕けになりつつも、「は、はいッ」と高揚した声で答えたのだった。
「では、先に屋敷に運んでおく」と言い残し、ロシュフォル殿は優雅に葛籠を抱えて去っていった。「タマラさん……」
「はい?」
「お勤めしていて何かあったときは遠慮せずわたしに言ってちょうだい。Bの連中にひどい扱いを受けたら、いつでもわたしがのしてやるから」
ミレイはハサミを手にすると、不穏なまでに瞳を輝かせた。
「正真正銘」「正式」な総務部内に、小さな異端、Bの支部が立ち上がった瞬間でもあった。
☆
ロシュフォル殿が出て行って間もなくレイランが顔を覗かせた。
「タマラ殿、準備は終えたか?」
レイランを見るや、ミレイは急いで道具を片付け始め、挨拶もそこそこに出て行く。扉を閉める瞬間、こちらに意味ありげな視線とガッツポーズを送りながら。「総務部Bで負けるな、タマラ!」と言いたかったのだろう、きっと。
レイランはどちらかと言えば真っ当な感じがするんだが。確かにミレイと並ぶと威圧感ハンパないし、総務部というより軍部にいるのがよさげな体躯をしている。でも、エメラルドの髪はさらさらで綺麗だし、押し出しのいいイケメンだし。総務部B所属というだけであんな態度を取られるのは気の毒なことである。さっきまでベッドの下に隠れていたあのモフモフ金髪くんなんかは、まさにミレイが嫌がりそうなタイプだけど……。
とはいえ当のレイランは、ミレイの態度など微塵も気にしていないようだ。
「生活必需品はロシュフォルさまがすでに屋敷に運ばせたそうだから、あとはタマラ殿と、そこの……」
と、揺籠を顎で示す。
アマガミはミレイのおしゃべりを子守唄にすやすや眠っており、さっきロシュフォル殿が入室してきたときもまったく目を覚まさなかった。この環境にも慣れ、安心しきっているようだ。
「眠っているうちに行こうか」
わたしがそっと揺籠を持ち上げるとアマガミは薄目を開けたが、わたしの顔を認めたのか、すぐまた目を閉じ眠りに入っていった。
レイランが扉を開ける。廊下に人けはなく、わたしはレイランに従って歩いた。しばらく歩いたところでレイランが壁に手を当てる。すると壁が淡い光を帯び始め、見る見るうちに扉が現れた。
「中へ」
レイランにうながされ、ゆっくりと扉をくぐる。そこは小さなスペースで、振り向くと扉は消えていた。
「なんとまあ……」
思わず声を上げると、レイランがにやっと笑った。そして次の瞬間、床が動き出す。
「ひええ……」
いちいち声が出てしまうが、どうやらこれはエレベーターらしい。どちらに向かっているのか。しばらくすると動きが止まった。レイランがまた壁に手を当てる。すると扉が出現して開いた。
「うわぁ……」
青空が広がっていた。ものすごい開放感。わたしは深く息を吸った。風が心地いい。ここは建物の屋上なのだろう。眼下に真っ白な町並みが広がっている。建物の形こそさまざまだが、同じ石か製材を使っているのだろう。どの屋根も側壁も、そして街道さえも、陽射しを受けて美しく輝いている。並木や庭園などの緑も豊かで、白い街並みによく映えている。
「ようこそ。王都ヒューペアンへ」
いつの間にか、背後にロシュフォル殿が立っていた。見上げると風になびく銀髪が陽を受けて眩い。
「すごくきれい……」
言ってからすぐに、あわてて付け加える。「あ、その、街が…ですけど」
ロシュフォル殿は「そうだろう」と、さほどの感慨もなくうなずいている。
「ここからはキャリッジで屋敷まで向かう」
ロシュフォル殿がわたしたちの後方を手で示した。見ると、白塗りの馬車のような乗り物が控えている。そういえば、コクサーナの母娘たちの家から連れ出されたときも、こんな感じの乗り物だった。あちらは黒だったが、こっちは純白で、ボディにスカイブルーのラインと華やかな紋章が入っている。そして馬の代わりに繋がれているのは……えっと、羽根の生えた2頭のカンガルー? お腹にポケットついてるし……。エンジンがかかっている車のように小刻みにジャンプしている……早く乗れ、みたいな……。
あまりまじまじと見つめていたせいか、カンガルー(仮)の一頭がこっちを向いた。人懐っこい目で見てくると、小さな耳をぴょこんと揺らす。
「タマラ殿は本当に奇獣たちと波長が合うようだな」
ロシュフォル殿が感心したように言う。
「さようですね。普段は無愛想なイカロスが、あんなに愛嬌を振りまいて」
とレイランが言うと、カンガルー(仮)は急に目を細め、レイランを睨む。「お前、なんか言ったか?」と言いたげな顔つき。喧嘩したくないタイプかもしれない。
ちょっと待て。この生き物のことをレイランは「イカロス」って呼んだよね?
さっきミレイに口走ってしまった偽りのエピソードを思い出す。イカロスの羽根って、この子たちの羽根のことになるよね? 偶然とはいえ、わたし、ちょっとすごいのではないだろうか。
なんてひとり感心していたら、ロシュフォル殿が手を差し出し、エスコートしてくれた。あちらの世界じゃエスコートされることなんて皆無だったので、ちょっとドギマギする。片腕にアマガミの眠っている揺籠をさげ、片腕をロシュフォル殿に引かれてトコトコ歩く。ロシュフォル殿、タマラばあちゃんの歩幅に合わせてくれてるよね……。感謝です……。2頭のイカロスくんたちが、温かな視線を送ってくる。なんだろう、この奇獣たち、すごく表情が豊かだ。
ロシュフォル殿がキャリッジの扉に手をかざすと、扉が静かに開いた。揺籠のアマガミが何か感じたのか薄目を開ける。その気配が伝わったのだろう、こちらを見ていたイカロスくんたちの目つきが少し鋭くなる。
「アマガミ、大丈夫だからもうちょっと寝ていて」
さっきの胡乱なイカロスくんの顔つきを思い出し、急いで揺籠にささやくと、アマガミは満足そうな顔でまた目を閉じる。それに応じたかのようにイカロスの眼差しもちょっとまろやかになったようだ。とりあえずイカロスくんたちに「よろしくね」的に頭を下げる。イカロスくんたちはつぶらな瞳を輝かせ、耳を揺らしてくれた。
ふう、よかった。犬だって散歩の途中で出会ったとたん唸り合う、なんてざらにある。奇獣ならなおのこと、相性とかいろいろあるんだろうし、暴れ出したら手に負えなさそうだものね……なんて思いつつ見上げたら、ロシュフォル殿が興味深い生き物でも見るかのようにこっちを見ていた。
ま、いっか。どう思われても。
わたしはタマラばあちゃんの精いっぱい愛想のいい顔でにっこり微笑んだ。「よろしくね」的に。キャリッジに乗り込むと、扉まで随行していたレイランが言った。
「ではタマラ殿、明日からよろしくな」
ああ、そうだった、レイラン殿が明日から総務部Bでわたしの上司になるんだった。
「よろしくお願いします」
新人に戻った気持ちで深く頭を下げる。わたしの向かいに座っていたロシュフォル殿がレイランに声をかけた。
「レイ、きみも久しぶりに来ないか? 屋敷の者も喜ぶ」
これまでとは違う、少し親しげな口調。チラッと見上げると、レイランは悲しげな笑みを浮かべ、頭を下げる。
「畏れ多いことです」
「そうか」
ロシュフォル殿の顔は盗み見る勇気がなかった。あまりにも淋しそうな声だったからだ。キャリッジの扉がゆっくり閉まっていく。その間、レイランの頭が上がることはなかった。
☆
キャリッジでの移動はスムーズだった。イカロスくんたちは想像どおり、羽根を広げて空を飛んでいく。いや、飛ぶというより空気をかき分けて走る、というのが近いかもしれない。時代劇で見かける飛脚みたいに見事な走りっぷりだ。カンガルーに似ているから、飛び跳ねたらどうしよう……という考えが最初チラッと頭をよぎったのだけれど、まったくの杞憂だった。
かなり上空を飛んでいるのか、窓の下に広がる街並みはおもちゃのブロックみたいにも見える。家々は白壁に白い屋根がほとんどだけれど、道は区画ごとに色合いがさまざまで、見ていて楽しい。大通りには馬車のようなものも走っているようだ。公園は緑と花々で鮮やかな彩りを街に添えている。
ロシュフォル殿も窓の外を眺めるともなく眺めている。端正な横顔の表情は読めない。わたしに対してはきっと何かまだ警戒しているところもあるだろうに、そんなそぶりはちらりとも見せない。傍目にはちょっとアンニュイな司令官、といった印象だ。
まあ、ここで尋問されたとしても、タマラばあちゃんについての情報はもう全部話してしまった。あとは前世から飛ばされてきたという話を正直にするしかないわけだけれど、そんな話を信じてくれるかどうか……。タマラばあちゃんの妄想だと思われるかもしれない。
座席の隣に置いた揺籠の中では、アマガミが気持ちよさそうに眠っている。ある意味、この子がいるおかげで、わたしは今みたいな待遇を受けているのだろうから、ありがたいと思わなきゃね。わたしはそっとアマガミの首元を撫でた。
「さっき、名前を呼んでいたようだが」
ロシュフォル殿がこちらを見ていた。アマガミのことだろう。
「はい。名前はやっぱり必要かと思いまして」
「契約を?」
「あ、そんなつもりはなかったんですけど、名前を思いついて呼んでみたら、それが契約になっちゃったみたいなんです」
ロシュフォル殿が訝しげな顔になる。確かに、いろいろ端折った説明になってしまったように思う。仕方がないのでベッドの下にいた男の話をすると、ロシュフォル殿が微苦笑する。
「そんなことが……。まったく油断ならないな。いずれにせよガルトムンドを横取りされなくてよかった。それくらいやりかねないお人だから」
ロシュフォル殿の口調からするに、あのモサモサ金髪くんは案外位が高いのかもしれない。高官の息子……とか。ミレイのことばを思い出す。まさに総務部Bだ。
キャリッジがゆっくり下降を始めたので、そろそろロシュフォル殿のお屋敷なのだろう。窓の外を見るとドームスタジアムのような大きな施設が見える。
この世界にも野球やサッカーのようなスポーツがあるんだろうな……なんて考えていたらドームの天井の一角が開き、キャリッジが滑り込んでいく。
え? ということは……
次の瞬間、キャリッジは滑らかに着地していた。ゆっくり扉が開く。ロシュフォル殿にエスコートしてもらいながらわたしも降りる。
目の前はお屋敷の入り口だった。開け放たれた豪華な扉の横に、執事というより軍人といった風情の男性が立っている。その脇には、有能そうな女性。
「お帰りなさいませ」
ふたりは声をそろえると、ロシュフォル殿に深く一礼する。
「ああ」とロシュフォル殿は軽くうなずき、「タマラ殿だ。よろしく頼む」と、わたしをふたりに紹介する。
「タ、タマラです。よろしくお願いいたします」と、わたしも深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、タマラさま」
顔を上げると、ふたりともにこやかな笑みを浮かべている。よかった……。女性のほうがロシュフォル殿に言った。
「タマラさまのお部屋は西館のほうにご用意しております」
「わかった」
ロシュフォルは軽くうなずくと、玄関ホールへと進んだ。わたしもそれに続く。
うわあ……。玄関ホールだけでも小さな体育館くらいの広さがあるんじゃないだろうか。左右の壁にはいくつかの扉があり、正面には緋色の絨毯を敷き詰めた瀟洒な階段が広がり、2階まで続いている。登った正面の壁に豪華に飾られているのは紋章――遠目ではよくわからないが、花とドラゴン、だろうか。ロシュフォル家の紋章なのだろう。
やっぱりこの人、相当よいお家柄なのね。
立ち居振る舞いからそんな気はしていたが、今さらながらに感心しつつ、ロシュフォル殿の背中を見上げる。階段の手前でロシュフォル殿が右手へと向かう。そこは舞踏会などが行われそうな、広々としたホールだった。
うわ……と声が出そうになるのをのみ込む。まるでお城ツアーに来た観光客のような気分だ。金の植物模様に縁取られた部屋、窓からさす豊かな光、絢爛豪華なシャンデリア。壁際のぐるりに設えられた灯りは、すでにいくつかともっていて、その下に座り心地のよさそうなソファが等間隔に並んでいる。あんなところで読書できたら楽しいだろうなぁ……。
上座に当たる奥の壁には、大きな絵が飾ってある。ひときわ見事な作りの金の額縁に入ったそれは――
戴冠式の絵だ。
わたしは少し近づき、絵を見上げる。
若き王が、幌のない絢爛豪華な馬車の中央で、王の杖を高らかに掲げている。神々しい笑みを浮かべて。
なぜか急に熱いものがこみ上げ、気づけば片膝をついて頭を垂れていた。
「……記憶を失っても、王のことは憶えているのだな」
ロシュフォル殿の声が淡々と響く。何の感情も読み取れない響き。ロシュフォル殿がどういう意味で言ったのか、正直わからない。
それよりもわたしはひどく動揺していた。王だけではない。わたしは――タマラは――この絵に描かれた人たちを知っている。
若き王の馬車を先導している、王軍のふたり。王と同じくらい若く、凛々しい。馬上で豊かな長い赤髪をなびかせている軍服姿の女性は、「王の剣」ことベアトリス・バルド。そしてその横に並んでいるのは、「王の盾」と呼ばれるティエリ・ド・ロシュフォル。そう、あの人はロシュフォルという名前だった……。
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