第42話 都市は味覚に興味を持つ ⚔️🏢

 エレベーターの扉が閉まり、静かな上昇が始まった。

 密閉された空間に、機械音と魔導波の微かな振動だけが響いている。

 壁面は黒曜石のような光沢を持ち、ぼんやりと俺の姿を映していた。


 夕眞ゆうまともりを手にかけた――その事実を、まだ整理できずにいる。

 断罪屋として育てられた俺は、感情を切り捨てる訓練ばかり受けてきた。

 怒りも悲しみも、任務の邪魔になるだけだと教え込まれてきた。


 だから、灯を失ったときも、涙は出なかった。

 ただ、胸の奥が冷えていく感覚だけが残った。

 それだけで済むはずだった。

 けれど今――子供の姿になった俺の心は、妙にざわついている。


 感情が、身体に引っ張られている。そうとらえるべきだろうか。

 夕眞――いや、ユーマの顔を思い出すたび、胸の奥が熱くなる。

 怒りなのか、悲しみなのか。

 それすら、うまく言葉にできない。


 ただひとつ、確かなことがある。

 あいつを許す気は、ない。


 エレベーターが静かに停止した。

 扉が開くと、そこは別世界だった。


 展望室クロノ・ドーム

 ヴァル=クロノ・タワーの最上階――都市の頂に位置する空間。

 半球型の強化魔導ガラスに覆われたドームは、都市全体を見下ろすように広がっていた。


 都市は、人工太陽アーク・ライトの光に照らされていた。

 魔導粒子の流れが空中を漂い、白昼の光景に淡い揺らぎを与えている。

 その眺めは、美しいというより、冷たい。

 まるで都市そのものが、意志を持ってこちらを見返しているようだった。


 床は半透明の魔導ガラス。

 足を踏み出すたび、都市の魔力流がインターフェースに反応し、波形が揺らめいた。

 色は淡い青――都市の魔導波形マナ・ウェーブが安定しているときの色だ。

 だが、俺が歩を進めるにつれ、波形は緑、黄、そして一瞬だけ赤に近い色へと変化した。


 都市が俺の存在を検知している。

 それに対して、何らかの“感情”を持っているとすれば――警戒か、拒絶か。

 魔導波形マナ・ウェーブの色は、都市の状態を反映する。

 青は静穏、緑は関心、黄は警戒、赤は拒絶。

 あくまで俺の推測だが、今の都市は、俺を“異物”として認識している可能性が高い。


 まるで都市の血管の上を歩いているような感覚。

 俺の足音が、都市の記憶に刻まれていくような錯覚すら覚えた。


 展望室クロノ・ドームは想像以上に広かった。

 天井の高さとガラスの曲面が空間を歪ませ、距離感が狂う。

 視界の端には、植物らしきものが生い茂っていた。


 魔導緑化帯マナ・グリーン・アレイ――魔導波形マナ・ウェーブの安定を目的とした人工植栽群。

 見た目は観葉植物に近いが、葉脈には魔導粒子が流れていて、波形に応じて色が変化する。

 今は淡い青緑。都市の魔力が安定している証だ。

 だが、ところどころに赤紫に変色した葉が混じっている。

 都市の拒絶反応か、それとも俺への警戒か。判断はつかない。


 植物は壁際だけでなく、床の一部にも配置されていた。

 通路を区切るように並べられていて、迷路のような構造になっている。

 視界をさえぎるほどではないが、誰かが身を隠すには十分な密度だ。


 中央には円卓が鎮座していた。

 そこだけ、波形の色が安定しているように見える。

 魔導波形マナ・ウェーブを制御する装置が内蔵されているのだろう。

 都市を操るため、幹部たちのために設計された――そう考えるのが妥当だ。


 椅子は固定式。各席には波形認証端末が埋め込まれている。

 誰がどこに座るか――都市がそれを記憶している、といったところか。


 その円卓の一角で、ひとりの女性がパンを食べていた。

 エリシア。企業連合の幹部の娘。

 無言のまま、淡々とパンをちぎり、口に運んでいる。

 魔導波形マナ・ウェーブが揺れる空間の中で、まるで何事も起きていないかのような仕草だった。


 俺は何も言わず、ただその光景を横目に通り過ぎる。


 天井部には記録媒体クロノ・コア

 都市中枢と接続された装置が、今も静かに脈動している。

 都市の記憶、都市の意志――すべてがこの空間に集約されていた。


 壁面には転送装置が並んでいる。

 幹部専用の逃走経路。波形認証がなければ作動しない。

 そして、展望室クロノ・ドーム全体は魔導障壁に覆われている。

 外部からの侵入は原則不可能――だが、俺はここにいる。


 都市の中枢。

 この空間に集まる者たちは、都市の秩序ちつじょを操る者たち。

 だが、それらはもういない。ユーマのことだ――すでに消しているだろう。


 俺は黒刀の柄に手を添え、ゆっくりと歩を進めた。

 都市の記憶が、俺の足音に反応するように、波形が揺れる。

 青緑だった魔導波形マナ・ウェーブが、俺の接近に合わせて淡く揺らぎ、赤紫の色が混じり始めた。


 円卓の一角で、エリシアがまだパンをかじっていた。

 魔導波形マナ・ウェーブが揺れる空間の中で、彼女だけがまるで別の時間を生きているようだった。

 その手には、焼きたてのように香ばしい、バターの香りが立ち上るパン――いや、正確には『バイオ・ブレッド・プレミアムΩオメガ』。

 高脂質栄養強化食品。保存性と味覚刺激を優先した、都市型の“嗜好品”だ。


 俺が近づくと、彼女はパンをちぎる手を止め、顔を上げた。


「あら、レンじゃないの。遅いわよ」


 口元にパンくずをつけたまま、エリシアは不満げに言った。

 怒っているというより、待ちくたびれた子どもみたいな口ぶりだった。


 俺は彼女の手元を一瞥いちべつし、静かに言う。


「……それ、トランス脂肪酸しぼうさんが多い。40代を過ぎたら、ひかえた方がいい」


「え?」


「人工油脂のりすぎは、血管を詰まらせる。心疾患、認知機能の低下、代謝異常――リスクは高い。特にその『プレミアムΩ』は、保存性と風味を優先してる。バターと合成油脂の比率が高すぎる」


 エリシアはパンを見下ろし、まゆをひそめた。


「でも、美味おいしいのよ。ユーマが『日本のパン』をもとに作らせたって――ふわふわで甘くて……」


「美味いのは認める。だが、あれは“味覚設計”の結果だ。バター、砂糖、精製小麦――全部、依存性を高める組み合わせ。身体にいいとは言えない。特に都市生活者は、運動量が少ないからな」


「じゃあ、何を食べればいいのよ」


「『オリーブ・ナノオイルEX』を使った『グレイン・スラブ』だ。見た目は地味だが、低GIで血糖値の急上昇を抑える。魔導波形マナ・ウェーブの安定にも効果があるとされている」


 グレイン・スラブ――見た目は地味で、ライ麦パンに近い。

 固くて酸味があって、みごたえがある。


「……それって、固くて酸っぱいやつでしょ。グルテンの少ないやつ……美味しくないじゃない」


「味より、身体だ。グレイン・スラブは確かに美味くはない。だが、全粒粉と天然酵母で作られていて、腸内環境にはいい。都市の干渉を受けにくい身体を作るには、そういう選択も必要だ」


 エリシアはふうっとため息をつき、パンをもう一口かじった。


「……説教くさいのよ、レンって。最初から」


 俺は返さなかった。

 ただ、彼女の手元から立ち上るバターの香りが、都市の魔導波形マナ・ウェーブと微かに干渉しているのを感じていた。

 波形がわずかに揺れ、赤紫の色が広がる。

 都市が、料理に反応している――そんな気がした。

 まるで、味や香りに“興味”を持っているかのように。

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