ロストメリア

のぬ

プロローグ

 柊花がロストメリアの存在を知ったのは、二年前のある出来事がきっかけだった。

 六月の中旬。中学三年生の柊花は塾からの帰り道で声をかけられた。


白柳柊花しらやなぎ しゅうかちゃん……だよね?」


 若い男性の声で名前を呼ばれる。声の主は柊花を知っている人物なのだろう。しかし、柊花に男性の知り合いはいない。

 声の主は誰なのかと思い振り返ってみると、そこには見知らぬ男性が立っていた。ひょろひょろとした細身で、年齢は二〇代前半くらいだろうか。

 男性は頬を赤らめ、そわそわした様子で柊花を見つめている。彼の目は泳いでいて息が荒く、見るからに挙動不審だ。柊花は訝しげなまなざしで彼を見つめる。


「どちら様ですか……?」


 警戒する柊花を見て、男性は慌てて取り繕うような笑みを浮かべた。


「あっ、いきなりごめんね。その、たまたま柊花ちゃんを見つけたから……声、かけちゃった。へへ……」


 明らかに不審な言動に、柊花は眉をひそめる。


「あなたと私って、初対面ですよね……?」

「え、あっ、うん。そう、だよね……はは……」


 男性は、柊花の怪訝な視線に苦笑いを浮かべると、照れ隠しをするように早口で話し始めた。

 彼が柊花のことをいつも見ていること。柊花が通っている中学校のこと。柊花の家のこと。

 男性は、見ず知らずの他人なら知るはずのない柊花の個人情報を次々と口にする。柊花は後ずさり、息を呑んだ。


「どうしてそんなことを……」

「そりゃあ、いつも見てるから……はは」


 怯える柊花に対して、男性は目をギラギラさせ、興奮したように荒い呼吸をしている。


「柊花ちゃん……有名人なんだよ? この町で一番の美少女だってさ……。俺は見ての通り冴えない男だけど、柊花ちゃんを一目見たあの時からもう、君のことが好きになっちゃって……」


 男性はじりじりと距離を詰めてくる。柊花が後ずさると、男性もそれに合わせて近づいてきた。

 壁際まで追いつめられ逃げ場がなくなると、柊花は身をすくませる。男性に腕をつかまれ、そのまま体を引き寄せられた柊花は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。恐怖で頭がいっぱいになる。大きな声を出せず、助けを呼ぶことができない。

 もうおしまいだと思ったその時。


「痛っ!」


 どこからか石が飛んできて男性の右頬に直撃した。石の大きさは拳ほどで、飛んでくる速さは普通の人間が投げたものと比べて明らかに速かった。男性は柊花の手を離し、ふらふらとよろめく。脳震盪を起こしたのだろうか。彼は間もなく地面に倒れてしまった。

 突然の出来事に驚いた柊花は、石が飛んできた方向に目を向ける。すると、そこには魔法少女のような黒いコスチュームに身を包んだ、茶髪の綺麗な女性が立っていた。

 女性と柊花の目が合うと、女性は柊花のいる方へ歩み寄ってくる。そして、柊花のいる場所に着くと立ち止まって手を差し出した。


「大丈夫? 怪我はない?」


 心配そうな顔で見つめる女性。紫の瞳孔を囲む金色の瞳が、まっすぐ柊花を見つめている。

 年齢は二〇代くらいだろうか。魔法少女のような格好をしているが、メイクの雰囲気を見るにコスプレイヤーではなさそうだ。


「は、はい! 大丈夫です」


 柊花は差し出された手を取る。女性は柊花を引き上げて立たせると、そのまま彼女を抱き上げた。


「きゃあっ!」

「あの男が起きる前にここを離れましょう」


 柊花が戸惑っている間に、女性は柊花を抱えて高く飛び上がる。

 女性が高い空をふわふわと跳ねるように飛んでいる間、柊花は何も言えず、ただ彼女にしがみついていた。

 

♦♦♦


 やがて二人は人気のない丘に着いた。


「ここまで来れば大丈夫でしょう」


 女性はそう言って辺りを見回すと、柊花をゆっくりと地面に下ろす。

 丘には地面を覆い尽くすほどのアルストロメリアが咲き乱れ、柊花は感嘆の声を上げた。


「すごい……こんなにたくさん……」

「綺麗でしょう? ここに来れば、嫌な記憶も薄まるんじゃないかと思って」


 柊花はアルストロメリアの花々を見つめながら、男性に声をかけられた時のことを思い出す。今まで生きてきた中で、あんなに怖い思いをしたのは初めてだった。

 あの人が助けてくれなかったら今頃自分はどうなっていたのだろうと考えるとゾッとして身震いする。


「私ああいう大人、大っ嫌いなの。子どもを守るべき対象として見れない最低な人間。恥を知るべきだわ」


 女性は吐き捨てるようにそう言った。柊花は彼女の顔を見る。女の人は冷たい表情をしながら、丘のアルストロメリアを見つめていた。


「あの……助けてくれて、ありがとうございました」


 柊花が改めてお礼を言うと、彼女は優しい笑みを浮かべる。その笑顔を見た途端、なんだか安心して思わず涙ぐんでしまった。

 女性は慌ててハンカチを取り出すと、柊花の涙を拭う。


「いいのよ。あなたみたいな子を助けるのが私の使命だから」


 女性はそう言うと柊花の頭を撫でた。

 その手つきはまるで子どもをあやすように優しく、柊花の心を落ち着かせる。

 見ず知らずの自分を助けてこんなに優しくしてくれるこの人のことを、柊花はもっと知りたいと思った。


「あの……」

「なあに?」

「お名前、教えてもらえませんか?」


 思い切って尋ねると、女性は驚いたように目を丸くした。


「あら、そういえば名乗ってなかったわね」


 女性はそう言うと、胸の前に手を当てポーズをとって名乗りを上げる。


「私はモーベット・ギア。弱きを助け悪しきを挫く、正義のヒロイン――ロストメリアよ」

「ロストメリア……」


 柊花の瞳がきらりと光る。モーベットと名乗るそのロストメリアが柊花の目には輝いて見えた。きっとこれが憧れという感情なのだろう。

 柊花は、モーベットの凛々しい姿にすっかり心を奪われてしまった。

 

 柊花がしばらくモーベットを見つめていると、モーベットは丘の時計台を見てハッとした顔をして話しかける。


「あら、もうこんな時間。そろそろ帰らないと、ご両親が心配されるんじゃない?」


 モーベットは柊花に向き直る。


「おうちまで送っていくわよ」

「いいんですか?」

「もちろん」


 モーベットはニコリと微笑むと、柊花の手を取って抱き上げた。

 柊花はモーベットの服の袖をキュッと掴むと、モーベットに体を預ける。


「モーベットさん」

「なあに?」

「……また、会えますか?」


 柊花は切なげな表情でモーベット見つめた。モーベットは柊花の方へ顔を向けると優しく答える。


「あなたが私のことを忘れていなければ、きっとね」

「……はい!」


 柊花は小さくうなずいた。


「さあ、目を閉じて」


 モーベットがそう言うと、柊花は目を閉じる。すると、間もなく身体が宙に浮くような感覚を覚えた。そのままどこかへ運ばれていくような感じがする。

 

 しばらくすると浮遊感が消え、地面に足がついた感覚がした。


「あ……」


 目を開くとそこは自分の家の前だった。どうやら無事に送り届けてくれたらしい。


「ありがとうございました! って……あれ?」


 柊花はモーベットがいた場所を見る。

 しかし、そこに彼女の姿はなかった。

 辺りを見渡すが、人影らしきものも見当たらない。

 夢だったのかなと柊花は首を傾げるが、頬に残ったモーベットの温もりは今までの出来事が現実であったことを示している。


「また、会えるよね……」


 柊花はそう呟いて、玄関のドアを開けた。

 

 

 プロローグ 完

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